第08話:接続の残響
意識が闇に溶け、深い静寂に沈んだ。
次にカインが目を開けたとき、ぼんやりとした視界に埃の粒子が漂い、体が鉛のように重かった。柔らかなソファの感触に包まれ、鼻をつくのはかすかな布の匂い――洗剤の残り香だった。
ゆっくりと首を動かす、見覚えのあるピンクのカーテンが揺れていた。
ここは……。
思考がそこまで届くより早く、鈍い痛みが後頭部を打った。呻き声を漏らしながら、カインは頭を押さえ、身を起こす。
視界の端。ひとつの影が、ぼんやりと形を成していた。
「……起きた」
その声に、カインは瞬きを一度だけ挟んだ。
カウンター。その向こう側に、女がいた。
藤間シエル――Tシャツの上に薄手のジャケットを羽織り、カウンターに片肘をついている。
数日前に見たはずのその姿が、今はどこか違って見えた。頬はややこけ、目の下には薄い隈。だが、瞳の奥に宿る冷えた光だけは、あのときと同じだった。
「ここは……」
口を開くと、彼女はごく自然に答えた。
「私の家。倒れたあんたを運んできたのよ」
「なんで……お前が」
問いをぶつけると、シエルは少しだけ目を開き、「頭ぶつけて、記憶でも飛んだ?」皮肉を滲ませた声だった。
「……そっちこそ。暴動が起きてるってのに、なんで――」
カインの言葉が、自身の意識を呼び覚ました。
「おい、暴動はどうなった?」
急くように問うカインに、別の女性が答えた。
「今、第5スラムは完全に包囲されている。入ることも出ることも出来ない状況よ」
口調は軽かったが、怒気が含まれている。
「アリス――、メディナの状況は?」
アリスはタブレットを操作し、「サプリ生成エラー《E11W90ZX》は、16時34分に解消された。通信状況も回復してる。理由は不明だけど」と言った。
偶然にしては、できすぎている。
だが、引っかかっているのはそこだけじゃない。
『――接続開始』
繋がりかけた点が、ふたたび霧の中で散り散りになる。
「詳しく教えてくれ」
「二時間前、陸自が介入して鎮圧。混成街区S-03-E34……ブライトヤードの北西に臨時のテントを設営して、怪我人の手当と尋問が進められてる」
アリスの声は淡々としていたが、どこか張りつめた空気を含んでいた。
カインは視線を移す。
タブレットを手にした辻村アリスは、疲労の色があった。
「現在、ブライトヤード一帯は危険区域に指定されて、完全封鎖中。……それ以外なにもわからない」
ため息交じりにそう言いながら、アリスは虚空に視線を投げる。
「……どういうことだ?」
問い返したその瞬間――脳裏に、鈍く鋭い衝撃が走った。
「……っ!」
思わず眉をひそめ、カインは額に手をやる。
「どうしたの、大丈夫?」
シエルの声が、遠くから聞こえるように響いた。
目の奥が焼けるように痛む。現実が少しずつ遠のき、代わりに何か、名もなきざわめきが頭の内側を這う。
まずい。誰もいなければ、弱音を吐いていただろう。
「……だ、大丈夫だ。それより尋問って、何のことだ?」
無理やり声を絞り出すと、今度はシエルが応じた。
「その女なら、知ってるんじゃない?」
シエルは冷ややかに言い放ち、顎をしゃくってアリスを指した。
「まだヘルスケア省に残ってるなんてね。……昔は、メディナの未来を一緒に夢見てたはずなのに。政府の犬でも飽き足らず、今度はウィル社の忠犬ってわけ?」
手にしたマグカップが小さく震えていた。指先に力が入りすぎている。怒りか、あるいは悔しさか。そのどちらにも見えた。
アリスの瞳が、冷たい光を帯びる。
「よく言うわね。ウィル社を裏切ったあなたが、何を今さら。あのプロジェクト、覚えてる? 私たちにとって絶対だったのに……あなたはそれを平気で見捨てた。スラムでサプリを流してるって話、本当? ただ責任から逃げてるだけじゃないの?」
彼女の声は一瞬震え、すぐに冷たい鋭さを取り戻した。
「それとも、何か企んでるの?」
タブレットを握る手に、アリスの爪が深く食い込む。抑えきれない感情が顔にも現れていた。
言葉が途切れた。
誰もが次の一言を待っていた。だが、張りつめた沈黙だけが場を支配した。
「なんだ、お前ら、顔見知りだったのか?」
カインが、無造作にその空気を割った。
2人はほぼ同時に視線を逸らす。答えは、言葉ではなくその沈黙が物語っていた。
「だったら、自己紹介は必要なさそうだな」
カインはあえて険悪な空気には触れず、話を前へと押し進めた。
彼にとって、感情のぶつかり合いよりも重要なのは、「今」なにが起きているかだった。
「時間が惜しい。暴動の鎮圧までは聞いた。だが、「尋問」ってのはどういう意味だ? スラムの住人を片っ端から捕まえて、締め上げてるのか?」
「……違うわ」
「そうよ……」
二つの声が、同時に応じた。だが、内容は真逆だった。
カインは思わず額を押さえる。
「おいおい、勘弁してくれ。お前らがどういう了見でいがみ合ってるのかは知らねえが、後にしてくれ。こっちはメディナのエラーとやらを調べなきゃならねえんだ」
静かに放った言葉だったが、その芯には確かな圧があった。
シエルもアリスも、すっと黙り込む。数秒の沈黙。その隙を縫うように、カインはシエルへと視線を向けた。
「シエル、お前言ってたよな。メディナがおかしいって。サプリに手を出したスラムの人間が中毒を起こしたって。――そいつらが暴動を起こしたのか?」
問いかけには、確証を求める響きがあった。シエルの目がわずかに揺れる。だが、彼女はすぐに視線を戻し、答えた。
「……たぶん、そう。私が直接見たわけじゃないから、本当かどうかわからないけど、スラムの近くの人が、中毒者が暴れてるって言ってた。でもあれは、自分の意志で暴れたりしない。そんな症状じゃない。誰かが、意図的に暴れさせた。そうとしか思えない」
確信とも迷いともつかない響きが、声の端に残る。
シエルは無言でタブレットを取り出すと、数回の操作を経て画面をカインへと向けた。
「あれから、メディナのログを解析したの。でも、メディナが情報公開を拒否した。そんなこと一度もなかった。サプリ生成エラー《「E11W90ZX》、覚えてる? あんたがエラー報告を求めた」
カインは無言で頷いた。
その件はまだ、小鳥遊に報告していない。
シエルの目が細くなる。声も、わずかに低くなった。
「ウィル社が、メディナに何かを隠してる。このコード……メディナのコアに近い部分でしか発生しないはず。だから……これはもう、誰かが意図的に仕込んだとしか思えない」
「……隠蔽ってことか?」
カインの問いに、シエルは唇を噛んだ。
「まだ確証はない。でも、暴動と……関係あるかもしれない」
アリスが話を遮るように口を開いた。
「話の途中で悪いけど。こっちもいろいろわかってきたわ。いま尋問を受けてるのは、暴動を引き起こした連中よ。陸自のドローンが割り出した人物たち」
そこで言葉を切ると、彼女は小さく首を振った。
「でも……なぜエラーが発生したのか。どうして回復したのか。どちらも不明のまま。原因も、理由も、いまはまだ見えてこない。調査が進めば、いずれ分かるとは思うけど……」
その話を聞いた瞬間、カインの脳裏にあの闇に響いた、無機質な声がよみがえった。
『接続開始』
ぞわり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
あれは偶然なんかじゃない。
何かが、確実に動き出している。
そして、自分の身に起きたあの現象と、暴動、エラー―すべてが、どこかで繋がっている気がしてならなかった。
「わかった。要するに、自分の目で確かめりゃいいってことだな。だったらメディナに直接聞くのが一番手っ取り早い」
カインは静かに立ち上がると、そのままディスペンサーの前にたった。
「おい、メディナ。エラーを報告しろ、今すぐだ」
ディスペンサーの目が青く光る。
いつもならメディナの声が聞こえるが、反応がない。
「アリス、接続は戻ってるんだよな?」
「そのはずだけど、どうして?」
「反応が――」
カインが言い終える前に、ディスペンサーの『目』が光りはじめた。青いはずの光が赤に変わっていた。
『エージェント鞍馬カイン、認識。エラー報…[-X-#*]…告=Connection_Lost[#X!]_Signal=Err…』
「ん? なんだ」
メディナが意味不明の言葉を発した直後、カインの頭に釘を叩き突きつけるような衝撃が走る。
「……っ!」
激痛で膝をつきそうになり、なんとか堪える。
『第3フェーズに移行。鞍馬カイン、メディナに会いに来なさい』
「な、なんだと!?」
『時間がありません。そこですべてを話します』
ディスペンサーの赤い目が脈動し、部屋全体を不気味な赤に染めた。「ジジッ……」と耳障りなノイズが響き、カインの肌に冷や汗が滲む。
次の瞬間、跡かたもなく消え失せ、静寂に包まれる。
「クソ……」
「どうしたの、鞍馬君?」
異変を感じたアリスが声をかける。
「……お前ら、今の聞いたか?」
こめかみを押さえながら振り返る。
カインの正気を疑うような眼差し。
「ねえ、本当に頭ぶつけて、おかしくなった?」
シエルの声に、アリスも頷く。
聞こえていない?
「赤い光も……か?」
返事はない。
「……わかった、気にするな」
カインが見たもの、聞いたものは、二人には見えず、聞こえなかった。
その事実を理解する間もなく、ディスペンサーから一粒のサプリメントが生成された。
受け口を覗き込んだカインの目が大きく見開かれる。
そこには、真っ赤なカプセルが一つ、静かに排出されていた。
(第2章 第09話につづく)