第06話:違法の優しさ
カインは、政府の監視役――辻村アリスを引き連れ、地下駐車場へ向かう。
エレベーターの中も、廊下を歩いている時も、二人の間には言葉はなかった。
バイクに向かうも、すぐに諦めた。
睡眠不足と頭痛のせいで、タンデムをするのは無謀だと感じたからだ。
「よお、おっちゃん。車、空いてるか?」
カインは警備室の小窓に声をかける。
白髪交じりの警備員が顔を上げ、相手がカインだとわかると笑顔を浮かべたが、すぐに眉を寄せた。
「今日は全部出払ってるよ。いま、大変なんだろう? 混成街区のメディナが止まったとかで」
「チッ、そうだった。1台もないか?」
「うん、無いね」
警備員の気の良さそうな表情に、カインは小さくため息をついた。
「了解。じゃあ、雲坂の車借りるわ。キー貸して」
「え? いいのかい?」
「後で言っておくから、大丈夫」
「あ、うん」
困ったような顔をしながらも、警備員はキーボックスからスペアキーを取り出す。
「新車だから、気をつけて運転しなよ」
「わかってる」
カインはスペアキーを指先で軽く回しながら答えた。
雲坂の車に近づき、ワイヤレスのボタンを押すと、甲高い電子音と共にハザードランプが三回点滅し、ドアのロックが外れた。
「乗れよ」
カインは短く言い、運転席に乗り込む。
「どこに向かうんですか?」
シートベルトをしながら辻村アリスが口を開く。
初めて挨拶以外の言葉を聞いたカインは、無愛想に「行けば分かる」と返した。
雲坂の車は快適だった。
最新のAIナビは、行き先を告げるだけで車をスタートさせ、無駄のないスムーズな走行を提供する。
カインが「東区東苑街区E-01-23-6の赤坂家、近くまで行け」と告げると、ナビは即座に反応し、最適なルートを表示した。
車内を満たすのは、ほとんど無音の空気。モーターエンジンは、存在を消したかのように沈黙していた。
辻村アリスは、運転席に座るカインを一瞥し、さらに沈黙を続けた。
どこか緊張している様子も見受けられたが、カインはそのことに触れないまま、ただ前方の道路を見つめていた。
時折、ナビが次の指示を出す度に、カインの手が無意識にステアリングを握り直す。
「混成街区に行く前にちょっと寄り道する。政府の仕事はちゃんとするから、黙って見とけ」
カインがぼそりとつぶやく。
アリスはその言葉に「お気になさらずに」と返した後、視線を窓の外へ向けた。
車は、静かに目的地へと向かっていく。
とある住宅街の近くで止まった。
カインは「歩いていく」と一言って車から降りた。
黙って従うアリス。政府の人間なだけあってよく飼いならされている。
東区は南区とは違い、整然とした住宅が建ち並んでいる。見上げれば、二階建ての家々の屋根が連なる景色が広がっていた。舗装された歩道と、ところどころに設けられた植栽。どこか、平成の匂いが残っている。
和暦が廃止されて8年。カレンダーから「令和」の文字が消えて以降、日本は加速度的に変わっていった。電子化された行政、AIによる交通インフラ、そしてヘルスケア。
AI技術の最前線を行く日本は、世界のトップを走り続けている。そんな最先端の裏側で、少しずつ「らしさ」が剥がれていく音がした。
カインはとある一軒家の前で足を止める。
外壁には古さが滲んでいるが、門から玄関へと続く石畳は、きれいに掃き清められていた。
雑草ひとつなく、庭木も整えられている。住む者の几帳面さが、静かに伝わってくる。
カインは短く息を吐き、門扉に目を向けた。
「赤坂家」と書かれた表札が、きちんと磨かれたプレートに収まっている。
「いくぞ」
一言だけ残し、カインは門をくぐる。玄関前に立ち、首から下げた認証タグをセキュリティにかざした。「ピッ」と短い音が鳴り、ロックが外れる。
アリスの目がわずかに見開かれた。
だがカインは気にせず、ドアを開けて中に入る。
「おばちゃん、入るよ」
靴を脱ぎ、ためらいなく廊下を進む。返事はなかったが、足取りに迷いはない。
「え、誰の家ですか?」
アリスが思わず声をあげた。
カインは振り返らず、リビングへと姿を消した。
「おはよう、おばちゃん」
リビングから声をかける。
据え置き型のディスペンサーに近づき、カインは「メディナ、入金確認だ」と小声で伝える。
奥から、女性の声が聞こえた。
どこか品のある声だったが、内容までは聞こえない。
「入金確認できたから、今朝のサプリ、飲んどけよ」
微かに女性の声が返事をした。
カインはこめかみに拳を当てて、目を細める。頭痛はまだ収まらない。
アリスは一歩遅れて後を追い、ディスペンサーの前に立つカインを見つめる。アリスの位置から縁側で座る白髪の老女が見えた。
カインの握る手が一瞬震え、視界の端がチラつく。どこか遠くで、ノイズのような囁きが響いた。
『接続、確認』
カインは歯を食いしばり、頭を振ってそれを振り払う。
アリスがその震えに気づき、「大丈夫ですか?」と口に出しかけるが、すぐに手にしたタブレットに視線を戻した。次に彼が取るであろう行動に、アリスは疑問を抱かずにはいられなかった。規則を守るべき自分と、カインの自由な反抗。
法律を守るべきなのに、この男の行動が……。
青い光が点灯し、短い電子音が鳴った。
『エージェント鞍馬カイン、認証。入金確認を行います』
カインはスーツの腕をまくると自分のウェアラブル端末をかざす。即座に残高が照合され、処理が完了する。
『確認しました。サービスを再開します』
ディスペンサーの目が一瞬、赤く瞬いた――あるいは、そう見えただけか。カインは目を細め、すぐに視線を外した。
カインは、戸棚の引き出しを開ける。
中からお菓子の箱を取り出し、その中に入っていた現金を確認する。
「今月と来月分、もらっとくぞ」
カインはそう言いながらも、現金には手をつけず、引き出しを閉めた。
「じゃあ、もう行くわ。邪魔したな」
アリスが振り向くと、縁側で湯呑みを手に、やわらかく微笑む女性。
デジタルの時代に置き去りにされながらも、その微笑みだけは変わらない。
「サプリちゃんと飲んどけよ」
そう言い残し、カインは玄関の扉を静かに閉めた。
車へ戻る途中、アリスがぽつりとつぶやいた。
「違法、ですよね?」
カインは応えず、歩き続ける。
アリスの声が追いすがる。「聞いてます、鞍馬さん?」タブレットを操作しながら、言葉を重ねた。
「赤坂えつ子さん、84歳。親族でもなければ、親戚でもない。他人ですよね? なのに、どうしてあなたがメディナの費用を……。健康保険制度はもうないんですよ。今は自己責任の時代。支払い義務は、本人にあります。法律で決まっています」
アリスの指がタブレットの画面で一瞬止まる。カインの行動は、規則を無視した愚行だ。だが、縁側で微笑む老女の顔が、なぜか頭から離れない。法律を守るべきなのに、この男の行動が、なぜか……。
数歩先を行っていたカインが、ふと足を止める。
アリスはぶつかりかけて、慌てて立ち止まった。185センチの背を見上げる形になる。
「それで?」
低く投げられた言葉に、アリスはたじろがない。
「それで、じゃありません。聞いてましたか? あなたの行動は――」
「ピーピーうるせえな。自分で考えろ、ボケ」
アリスの頬がわずかに引きつる。政府の人間の前で堂々と不正を働く男の考えが、読めない。
再び歩き出すカイン。その背中を、アリスは目を細めて見送る。
手元のタブレットに指を滑らせ、記録のボタンをタップした。
「報告します。不正行為の疑いあり。保険機構ナンバー1のエージェントが、です」
だが、ボタンを押す指先が、ほんの一瞬、躊躇したように震えた。
車に乗り込んだ二人。
アリスはシートベルトを締めながら、「政府として見過ごせません。いいですね?」と静かに告げる。
カインは鼻で笑い「好きにしろ」と言い放ってからカーナビに行き先を告げた。
次の目的地。南区混成街区――メディナ遮断地域。
本来の業務に取りかかろうとした矢先、カインのウェアラブルとアリスのタブレットが、同時に警告音を鳴らした。
『鞍馬君、緊急事態よ! 辻村さんも聞いて。第5スラム、ブライトヤードで暴動が発生。怪我人も出てるわ。警察と陸自が動いてる。あなたも向かって! 詳細は後ほど伝えるから!』
声の主、小鳥遊レイコ。
いつも冷静な彼女には珍しく、明らかな動揺があった。
カインの表情が変わる。
AIモードを切り、ギアをリバースに入れる。
「今すぐ向かう」
低く、短い声とともにアクセルを踏み抜いた。
タイヤが鳴き、アスファルトを滑る。ハンドルを切り、車体が一瞬で向きを変える。
Jターン――見事な切り返し。
体に染み付いた運転技術をフルに活用し、初速を落とさぬまま、住宅街を駆け抜けていった。
(第2章 第07話に続く)