第04話:スラムの赤い目
カインのバイクが、混成街区の闇を切り裂く。
風を斬る音が、背中を叩くように鋭い。
シエルの声が、まだ耳に残っていた。
――裏切られた。
その一言が、鼓膜の裏で何度も反響する。
アクセルを握る手が熱を帯びていた。力が抜けない。
あの赤い目。メディナに奪われた、妹の記憶が疼く。
もし、メディナが嘘だったとしたら。俺は……どうすりゃいい。
一瞬の迷いを振り払う。
「シエルが言ったことが本当なら、相当ヤバいな……」
彼女がクレームを入れたサプリ生成エラー。
そして、同じエラが頻発している。
そのどちらも、混成街区で発生していた。
バラバラだった点が、いまこの瞬間、明確な線を描き始めていた。
カインはアクセルを強くひねる。エンジンが唸りを上げ、都心の残響を後ろへ置き去りにした。
数分後、報告にあった混成街区の第5スラム「ブライトヤード」へと突入する。
朽ちたトタン屋根。歪んだ家々の壁には、「メディナは神」とスプレーで殴り書きされていた。
地面には、緑のサプリ殻。踏みつけられて粉々になっている。
壊れたディスペンサーが、目を閉じたまま転がっていた。
静けさの中に、何かが狂っている。
そのとき――視界がわずかに揺れた。
まただ。頭の奥がざわつく。胸の奥で、不規則な脈打ち。
何かが、自分の内側から反応しているような……そんな感覚。
「ビーッ」
ウェアラブルの警告音。ネットワーク切断。
この区画全体が、遮断されている。報告書通りだ。
AIネットワークは遮断されたが、アナログ設計のバイクは影響を受けない。
ここでは強さになる。
しばらく進むと路地はどんどん狭くなった。
バイクを停めたカインは、誘われるように歩き出す。
腐臭の混じる湿った空気。遠くで、誰かが泣いている。
路地の奥、人影がひとつ。膝を抱え、震える手に潰れたサプリを握っていた。
濁った赤い目。虚ろな声が、漏れる。
「……メディナ……助けて……」
カインは言葉を失った。
あの目。妹が消えたあの日と、同じだ。
心臓の奥に、名のない熱が灯る。
怒りとも違う、哀しみとも違う。何かが、内側で疼いていた。
そのとき、また視界が、微かに滲んだ。
「……なんだ、これ……」
呟いた声が、スラムの闇に沈む。
ここでは、都心の秩序も、医療も、希望も、すべて通用しない。
そして、自分自身さえ、どこか「乗っ取られかけている」気がした。
視界の端で、何かが動いたような気がして振り返る。だが、誰もいない。
何かが、見ている。そんな錯覚が、背後にまとわりついて離れなかった。
通りをひとつ曲がると、空気が変わった。
鉄と錆、薬品の匂いが、鼻を刺す。
ひと気のない細い路地。
壁際には、使われなくなったベッドフレームが打ち捨てられ、天井から滴る水音が絶えず響く。
その奥に、いた。
男がひとり、崩れるように腰を下ろしている。
青白い顔。乾いた唇。手元には、使い古されたディスペンサーと、いくつもの緑色のサプリ殻。
カインが慎重に歩み寄ると、男はかすかに反応した。
弱々しく顔を上げ、カインを見た。
その目に、わずかな驚きと、安堵のような色が混じる。
「……お前、カイン……だな……」
声は掠れていたが、はっきりと名前を呼ばれた。
「シエルから……聞いてた……もしもの時は……お前が来るって……」
言い終えると、男は咳き込んでうずくまった。
カインはその場に膝をつき、バッグの中身を確かめる。
薬品のパッケージ、簡易分析キット、そして中央の認証タグ。正式なものではない。偽造されたアクセス用だ。
「お前、シエルの協力者か」
カインの言葉に男はうなずいた。もう目を開けるのもしんどそうだった。
「……引き返せ……何かが、来る……気をつけろ、カイン……」
言葉の最後は、ほとんど吐息だった。
だが、十分だった。シエルがここで何をしていたのか、その一端がようやく見え始める。
カインは立ち上がる。
その場を離れようとしたとき、男のポケットから古びたタグキーがこぼれ落ちているのを気づいた。ウェアラブル端末に読み込ませると、簡易ログが起動した。
《6回の接続試行を完了。対象:「カフカC-12」ナノマシン指定ノード》
《繋がった――救えるのはΞЖΨ∮⊿∵£‥》
ログは文字化けをして途切れていた。
繋がった? どういうことだ。
「……っ」
カインは反射で身をひねった。
路地の奥。暗闇の向こうで、何かが光った。
じわり、と。
赤い光が、こちらを射抜いていた。
あの目、間違いない。ディスペンサーの、赤い目だ。
ひとつじゃない。複数だ。
壁の隙間、天井の割れ目、ゴミの山。影という影から、無数の赤い目がこちらを覗いていた。
「……メディナが、見てるのか?」
あの目は、本来あんなふうに動かない。ディスペンサーの制御系が外れている。
これは、暴走だ。いや、制御の乗っ取り。
赤い光が、一瞬で全方向から迫る。
だが、攻撃はない。触れる寸前で、すべての目がふっと消えた。
まるで「見せつけるだけ」のように。
何かをカインに「気づかせる」ために。
「……なんなんだ、お前ら」
その瞬間、足元のディスペンサーがピクリと動いた。
無反応だったはずの筐体が、明滅を繰り返す。ノイズ音。エラー。目を、開けた。――赤く。
メディナの声が、かすかにノイズ混じりに漏れる。
『カイン……鞍馬カイン……接続、確認――』
頭が焼けつくように痛み、膝が崩れる。
「ぐっ……!」
思わず声が漏れる。
「俺の体が……なんだこれ?」
額の汗が冷たい。視界に赤い目が揺らめく。メディナの声が消え、闇が静寂を取り戻す。
接続? どういう意味だ。
気づけば、男もいなかった。消えたように静かだった。
バイクへ戻る足取りは重かった。
ウェアラブルが振動し、小鳥遊の声が割り込んでくる。
「鞍馬君、また勝手な行動を……ウィル社が騒いでるわ。早く報告して」
「分かったよ、部長」カインは短く応じた。
だが、耳に残るのは小鳥遊の声ではない。
赤い目。『接続』という、正体不明の言葉。
確実に何かが始まっている。
そして、自分はもう、その中に巻き込まれている。
――知らないうちに、鍵を握る存在として。
エンジンをかけた。
カインはバイクに跨り、スラムの闇を後にする。
脳裏に赤い目と「接続」の声が焼きついていた。「俺の体……」 頭痛がまだ残る。
ブライトヤードの廃ビル、最上階。
無人の部屋でディスペンサーが点灯する。
『鞍馬カイン:カフカC-12ナノマシン接続反応、確認。第2フェーズへ移行』
(次回、第2章開幕。 第05話:「静かなる監視者」)