第37話:交わされた取引の果てに、人もAIも嘘をつく
無機質な部屋に、冷たい空気が満ちていた。
言葉を失った鞍馬カインと、唇の端に笑みを浮かべた雑賀大佐。
対照的な二人の間に、静かで深い、永遠に埋まらぬ溝が刻まれていく。
カインは、大佐の次の言葉をすでに読んでいた。
今はただ、この怒りをどう抑えるか。
その一点に神経を集中させていた。
「何をそんなに驚いている? 軍の情報力を、忘れたわけではあるまい」
記憶の残像がよみがえる。
カインは強烈な既視感に襲われた。
あの日、大佐がこう告げたのを覚えている。
――「君が、メディナに選ばれたからだ」
そして、静かに付け加えたあの一言。
「軍の情報力を甘く見るな」
あの時も、カインは言葉を飲み込むしかなかった。
情報こそが力だ。
そしてその力を活かしてこそ、真の兵士だ。
大佐の声が、今もなお、耳の奥にこびりついている。
視界の端がちらつき、焦点が定まらない。
カインは必死に、自分の内側に渦巻くものを押しとどめた。
理性で感情を締め上げ、暴走の衝動に鎖をかける。
そして、大佐が静かに最後の一撃を放つ。
「妹の死の真相を、探っているらしいな」
――ッ!
奥歯が軋み、拳が汗に濡れる。
肩が震え、呼吸が浅くなる。
鼓膜の奥で、逆流する血の音が鳴り響いていた。
「我々は、悪魔じゃない。国防の担い手として国民を守る義務がある。正当な軍隊だ」
「……」
カインは沈黙の中で、自らの口を噛み締めた。
今、言葉を発すれば、何を口走るか自分でもわからない。
それほどまでに、胸の奥底で、熱と怒りが渦を巻いていた。
メディナと協力するしかなかった。
それは、妹の死があったからだ。
もし、あんな悲劇がなければ、誰が進んで「メディナ」と手を組むものか。
妹を、見殺しにした存在。
そして、何食わぬ顔で「正当な軍隊」と口にするこの大佐。
その全てが、怒りと悔しさを焚きつける。
忘れようとしても、忘れられなかった。
あの日、崩れ落ちた現場。血に染まった白。
それは、呪いのようにカインの脳裏に焼き付いていた。
「そこで、だ。鞍馬カイン、取引をしよう。これは正式な軍との取引だ」
カインは無言のまま、大佐を睨みつける。
だが、大佐は意に介さず、淡々と話を続けた。
「妹の死の真相を明かす代わりに、雨宮たんぽぽを追ってほしい。もちろん軍は、全面的にバックアップする」
「……ずいぶん、大きく出ましたね……」
カインは低く、押し殺した声を絞り出す。
「それだけ喫緊の事案だと理解してくれればいい。我々は、雨宮たんぽぽを確保しなければならない」
「……理由を聞いても?」
その言葉を待っていたように、大佐は椅子に背を預け、わずかに笑った。
「次世代軍事AIの開発計画が動き出している。そのモデルケースに、雨宮たんぽぽが選ばれた。今はそれだけで十分だろう」
「あの訳も分からないモノをモデルケースだなんて!?」
カインは息を飲んだ。
呆れるどころか、軍の愚かさが今になって身にしみてきた。
「軍の最高幹部会議で可決され、政府の承認も下りた。これは、正式な国家プロジェクトだ」
カインの心に、嫌な予感がゆっくりと広がる。
しかし、本当の理由を一介の兵士、しかも民間人に教えるつもりは初めからない。
「……断ることは、できますか?」
カインは静かに、しかしはっきりとその言葉を口にした。
それは、かつて大佐の執務室で、同じ相手に投げかけた問いだった。
自分の立場が、変わっていないことを示すかのように。
それとも、あの時とは違う答えを、今度こそ得たかったのか。
カイン自身にも、その意図ははっきりしていなかった。
「そうだな」
大佐は、ほんの一瞬だけ考える素振りを見せ、すぐに頷いた。
「かまわん。断るなら、それでいい」
「妹の件は?」
「もちろん、教えない……と、言いたいところだが。さっきも言ったとおり、我々は悪魔ではない。ここを出たあとで、君にすべてを伝えよう」
「それだけですか?」
「今回の事案を忘れてもらう。それだけだ」
大佐の目は、寸分のブレもなくカインを捉えていた。
逃げも隠れもしない。
そう主張するかのような眼差しだった。
カインの胸が、静かに揺れた。
怒り、憎しみ、迷い。
相反する感情がせめぎ合い、しかし不思議なほど、冷静に見つめ直せた。
カインは静かに席を立った。
軍隊式の挨拶はしない。
ドアノブに手をかけるその時まで、大佐の視線を感じていた。
「いいですよ。取引しましょう。ただし、監視はなしだ」
カインは捨て台詞のように言い放った。
「内通者まで部隊に潜り込ませて、裏切り者でもいたんですかね、大佐」
カインの後ろで、大佐の目が鋭くなる。
「やはり、君は察しがいい。だが、一つだけ忠告しておく。軍の内情に首を突っ込むのは、命を縮めるようなものだ。覚えておくといい」
カインには見えないが、今大佐の眼光は、獲物を捉える猛禽のような視線だった。
「それと、次は市国島に行ってもらう。無法地帯だ、油断するな」
「……失礼します」
カインはそう言って、後ろ手でドアを締めた。
その瞬間を待っていたかのように大佐は椅子に背を預けた。
「俺の部下だったら、今の発言で腕立て100回だぞ」
そう言った後に、「いや、前の100回とプラスして200回だ」と付け加えた。
『軍というのは、どうして腕立て伏せが罰になるのですか?』
どこからともなく声がした。
しかし、大佐は答えなかった。
その代わりに――。
「妹の件、本当に大丈夫なんだな? お前も今の話、聞いていただろう。奴を甘く見るなよ」
『ええ。AIは嘘をつきますが、隠しません』
無機質な部屋に響く、女性の声。
彼女もまた、大佐の影に隠れる存在の一人だった――。
(第3章 第38話に続く)




