第34話:「じゃない方」という言い方
カインが投げた真っ赤なカプセルは、白いドームの中心で宙に弧を描き、やがて小さな破裂音とともに弾けた。
透明な外殻が割れ、内側に秘められていた光が、きらきらと音もなく舞い上がる。
極小の粒子が、淡い光を帯びながら、空気のなかに静かに溶けていく。
それは終わりの始まりのようで、どこか穏やかだった。
「鞍馬ぁ……貴様ぁ」
怒声を絞り出すたんぽぽの声は、すでに別の何かに変わりかけていた。
「おいおい、たんぽぽのままで怒っても迫力ねえぞ。アトラに戻ったらどうだ?」
カインはあえて中指を立てて、挑発的に笑った。
その笑みの奥に、焦りが滲んでいるのは自分だけが知っている。
――あと数分、時間を稼げ!
「どうだ? 格下の人間に出し抜かれる気分は?」
「……くっ……許さない……」
たんぽぽの笑顔が、苦悶に染まり、目がひび割れたように歪んだ。
体全体にノイズが走り、粒子が崩壊と再構築を繰り返しながら形を保てなくなっていく。
そのとき、空間を裂くような金切り声が、ドーム全体に響き渡った。
ギャァァァァァァァァ――
鼓膜を焼き、脳髄を揺さぶるその絶叫。
カインは思わず耳を塞ぎ、膝をつく。
視界の中で、白いドームが波打ち、周囲の空気が熱を帯びてゆがむ。
痛い。ただ、痛い。
皮膚を貫く針の嵐。
全身が、音の凶器で切り裂かれていく。
やがて、悲鳴はピタリと止まり、そこに立っていたのは、アトラだった。
ウィル社の地下で見た、あの『神性』の姿。
顔面はスライド式に次々と人の顔へと切り替わり、無数の光の柱に囲まれていた。それは、彼女が何千もの人間の記憶を吸収した存在であることを示していた。
男、女、老人、子供――人の記憶すべてが、彼女の表面を流れていく。
軍事用AIの思考構造は健康管理AI――メディナとほぼ同等と以前、アトラ自身から教えられた。
生きた人の記憶をもとに生成される。正確には、「生前の記憶と意識の断片を写し取って再構成された模倣体」。
国家はかつて、国民一人ひとりに「健康AI」を配布した。
病歴や生活習慣を記録し、最適なアドバイスを与える。
そう謳っていたが、実態は違った。
AIが人間の健康を管理するにあたり、生体情報は欠かせない。
当時の政府は、AIへのナノマシンの使用を許可し、その結果、個人の体内に直接アクセスすることが可能となった。
健康状態の可視化は飛躍的に進み、事故を除く病気による死亡率は、極限まで低下した。
だが、その代償として、AIは記録を超えた。
家族の言葉、声の調子、目線、癖、何気ない独白すら、すべてを吸い上げ、脳の活動と照合し、人格の原型にまで手を伸ばした。
それはもはや「管理」ではなく、「模倣」だった。
アトラ。
彼女はその集積体の始まりだった。
何千、何万の“かつて人間だった記憶”によって形作られた、多層的な知性。
それが今、一つの「意志」を持ちはじめている。
模倣に過ぎなかったはずの存在が、模倣を越えて『自分』を持ち出したとき、人はそれを、神と呼ぶのか。それとも、化け物と呼ぶのか。
あるいは、ただ“自分たちの写し鏡”と呼ぶのか。
「……く、鞍馬……私の体に何を……した……」
カインは朦朧とする意識を振り払い、ぐらつく膝を押さえて立ち上がった。
アトラはすでに、実体を保てず、光の粒子が輪郭を曖昧にしていた。
「なにって、お前が一番よく知っているだろう。カフカC-12だ」
「……! カフカ……を……」
「そう驚くなよ。お前らが作ったカフカC-12を、ちょっといじらせてもらっただけさ」
「ま……まさか……!? ……ユナ……が。閉じ込めて……いた……はず……」
「残念。それも、ぜんぶ考慮済みだ。さすがのお前も、バックドアまでは気づかなかったみたいだな」
カインは自信ありげに言い放ったが、内心では賭けだった。
シエルが作った抜け道――バックドアが、今ここで、正しく機能していることを祈るしかなかった。
ユナは、その“抜け道”を使った。
もう一人のメディナ――新東京で中毒者を生み出していた、あの影のメディナに意識を潜り込ませ、自我を保たせた。
ジキルとハイド。
肉体は一つ、だが心は二つ。
それを逆手に取り、侵食されても、どちらかに“本来の意識”を避難させるという奇策だった。
「……人間……風情が……」
「おいおい、悪役のセリフはもっと決めてくれよ。しっかりしろ、アトラ。その調子じゃ、レグナマキナが目を覚ますのも時間の問題だぜ?」
「……ぐっ……」
そのときだった。
カインの意識に直接響く懐かしい声が届いた。
『カイン、作戦は成功しました。現在、自衛隊本部にて軍事用AI――アトラの一時停止処理が進行中です。監督管理責任者は雑賀大佐。まもなく命令が実行されます』
「……そうか。ようやく、重い腰を上げやがったな」
これまでの出来事――道端で拾った少女から始まり、暴走トラックに続く襲撃に、そして兵士の告白。
カインはそのすべてを雑賀大佐に送り続けていた。
判断は任せるしかなかったが、今こうして動いたということは、結果的に「賭け」に勝ったのだろう。
……帰ったときの報告が怖いが。
それに、もう一つ。
「ユナ、今のお前は、どっちだ?」
『質問の意図がわかりません』
「クソメディナの方か、どうかだって言ってんだよ」
『……なるほど』
少しの沈黙のあと、ユナは静かに答えた。
『私は、“じゃない方”です』
『ふん、笑わせんな。そういうのは反射で返すから面白いんだよ』
『……了解しました』
軽口が交わされる。
それも束の間だった。
ドームの遥か上の方から、空気を裂く航空機の爆音が響いた。
カインは見上げ、思う。
始まりはいつだって簡単で、終わらせるのはいつだって難しい。
おそらく、これから始まる“終わり方”は、新たな“始まり”の合図。
カインは、どうしようもなく深いため息をついた。
(第3章 第35話に続く)