第02話:藤間シエルの訴え
小鳥遊部長との話を終え、カインはオフィスに戻った。
足を踏み入れた途端、甲高い声が響く。
「よっ、軍人上がりのスーパースター」
声の主は、同僚の矢崎ハサ。
毎月カインに成績で負け続ける、永遠の2位だ。香水の匂いが強烈な男。
軍を退いたのは6年前。
民間に流れ着いても、染みついたやり方はさほど変わらなかった。
嫌気がさしてやめたはずなのに、そんな自分がどこかひどく哀れに思えた。
「部長と出勤? 昇進狙いかよ、鞍馬君」
カインは無言で書類をはじき、無視した。
「今日も軍隊式の強制徴収か?」
「うっせ。黙ってろ」
カインの罵声にも、ハサはどこ吹く風で続ける。
「例のクレーム女、俺も聞いたぜ。面白そうじゃねえか。ウィル社の海外ラボ出身、名前はシエルだっけ?」
カインは振り向きもせず、「好きに言ってろ」と吐き捨てる。
彼の笑い声が背後から響くが、カインはタブレットを掴んでオフィスを出た。
スラムの噂が頭をよぎり、タクシーは避けた。地下駐車場に降り、バイクに向かう。
ヘルメットを被り、スーツの裾を風になびかせながら、南地区へと疾走する。
――藤間シエル。
「また、クソみたいな仕事か」
ぼやきながらも、女の顔が頭に浮かぶ。
メディナに逆らうなんて。まだそんな奴が、この狂った街にいたのか。
カインの胸にくすぶっていた火種が、ふっと熱を帯び始める。
挑発的な気配をまといながら、カインはアクセルを握り込んだ。
一台のバイクが、新東京の車列をすり抜けて疾走。
2ストエンジンがけたたましく唸り、白い煙を引きながら加速する。
監視カメラがカインの乗るバイクを追いかけて、警告を発する。
『こちら、交通課。安全運転 心のゆとりと思いやり」
「安全運転? クソくらえだ」
カインはそう呟き、再びアクセルをひねった。
向かうのは、南区の混成街区、いわゆるスラムだ。
頭上の巨大ビジョンが景気よく叫んでいる。
《メディナ利用者1,800万人! 月900億の健康革命!》
その一方で、ビルの谷間には壊れかけた建物と、路地に落ちた緑のカプセルの破片。
光と闇が混じる街。見た目だけじゃない。空気も、音も、何かがおかしい。
朝、乗ったタクシーの運転手の声が頭をよぎる。
《スラムがヤバいらしい。中毒者が暴れて、サプリが人を狂わせるってよ》
カインは前を見据えた。
目的の女、藤間シエル。メディナに楯突いた女。
「どんな奴か、見てやるか」
口元に浮かんだのは、笑いとも皮肉ともつかない表情だった。
胸の奥。重く、冷たい影。あの日の記憶。妹の手からサプリが転がり落ちた、あの光景。
「お兄ちゃん、助けて……」彼女は震える手でサプリを握り、ディスペンサーの赤い目の前で倒れた。メディナはただ『エラー』と繰り返し、妹の命を切り捨てた。あの無機質な声が、今も耳に残る。
「関係ねえ……今は、仕事だ」
混成街区の集合住宅。バイクを停めてヘルメットを脱ぐ。
どこにでもあるような古びたマンション。その一室が、今回のターゲットだ。
D401号室。
タブレットで確認し、エレベーターへ向かう。
途中、壁の広告パネルが賑やかに映像を流していた。
《保険制度崩壊を救え! メディナ全国普及率95%達成!》
カインは舌打ちする。
その裏で中毒者が10万人を超えている現実を、誰も報じない。
さて、何かを語るか。カインは好奇心を閉じ込め、インターホンを押した。
「新東京保険機構だ。開けろ」
返事はない。もう一度押そうとした瞬間、ドアが勢いよく開いた。
「いつまで待たせるのよ!」
開いたドアの隙間から現れたのは、白いバスローブに濡れた黒髪。
そして手には、当然のようにスタンガン。目に宿るのは、警戒と怒気だった。
「鞍馬カインだ。クレーム処理に来た。そいつ、しまってくれ」
「女の部屋に入る男を警戒するなって? バカなの?」
ピリつく空気に、言葉より早く敵意が漂う。
「調査には中に入るしかねぇ。どうする?」
「……チッ。着替えるから、そこにいなさい」
ドアがバタンと閉まる。
閉まる際、扉の隙間から緑のカプセルが見えた。
サプリだ。こいつも、か。
数分後。
Tシャツに短パン姿のシエルが現れる。
「変な真似すんなよ。すぐ通報するから」
カインは無言で部屋に入る。1DKの簡素な部屋。
ピンクのカーテンだけが浮いて見える。床にはサプリの痕跡。
「さっさと済ませて」
「藤間シエル、本人だな?」
ディスペンサーの位置を確認して、藤間シエルに質問する。
「そんなことも確認しないで来たの?」
「規定だ。で、間違いないな?」
「……そうよ」
カインはリビングの壁のディスペンサーに向かう。
青白い光がカインを包み認証が終わると、「メディナ、強制執行モードD。過去1週間分のログを出せ」と命じた。
機械音声が応じ、タブレットにデータが流れ始める。
その瞬間、シエルがタブレットを奪う。
「個人情報よ! 見るな!」
「あのな、見なきゃ原因も特定できねえだろ。それにな、お前の個人情報なんて興味ねえんだよ」
「うるさいわね! 他の方法で調べてよ!」
この女、メディナすら信用していない。
「メディナがサプリを作らない。ウィル社が何か隠してる」
カインは鼻で笑う。
「なら、試してみるか」
カインはディスペンサーの前で「メディナ、裏コマンドだ」と静かに命じる。空気がわずかに震えた。
『実行には危険が伴います。ご確認をお願いします』
「うるせえ、実行しろ」
赤く光るディスペンサー。ノイズが走る。
『裏コマンド認証……完了』
「次、放棄モードだ」
『倫理フィルターを逸脱します』
試すしかね、どうせ軽い命だ。
「うるせっ! メディナ、即死サプリを作れ!」
『認証中――』
しばらくすると、『認証完了、サプリを生成します』と言った。
ほとんど間を開けることなく、ディスペンサーのトレイに赤いカプセルが落ちる。
「メディナは、そんなもの作れないはず……!」
「じゃあ試すぜ」
カインはカプセルを飲み込んだ。冷たい違和感が喉を走る。
視界がチラつき、ノイズが頭をかすめる。
「バカ! 吐き出して!」
「死ねば異常。生きてりゃ正常ってこった」
けれど、胸の奥に重さが残った。
「……ありえない。三原則が……」
シエルの声が震える。プライドが、常識が、崩れていく音がする。
「タブレット、返せよ」
渋々渡されたそれを確認する。ログには異常が並んでいた。
3時間おき、1日6回。通常の1.5倍。
誰かにサプリを渡している?
「スラム近くでこのエラー……ウィル社に何を隠してる?」
シエルが視線を逸らす。
「……何も」
だが、その声は震えていた。誰かを想う、そんな目をしていた。
その瞬間、メディナの『目』が赤く瞬き、タブレットに通知が走る。
カインは目を細めた。
この女と、メディナの赤い『目』。
その奥に、一体何がある。
「異常なら俺はもう死んでるはずだろ。メディナは正常だ」
「……分からない。こんな命令、想定外よ」
声が震え、かつて開発者だった彼女の自信が音を立てて崩れていく。
カインはソファに身を委ねる。
「さて、どうなるかな」
喉に残る赤いカプセルの感触が、不気味な余韻を残す。
死ぬ気配はない。
だが、確実に何かがおかしい。
タブレットのログを睨む。
3時間おき、6回。
点と点が、まだ線にはなっていない。だが、近い。
スラムの噂、タクシーの声。
それらが、静かに背中を押してくる。
「――行け」と。
この女。
このメディナ。
ウィル社
そのすべてに、裏がある。
(第1章 第03話に続く)