第15話:始終突如
雑賀大佐の言葉に、カインは刹那、息をするのも忘れた。
昨日の出来事が、フラッシュバックのように脳裏をよぎる。
浮かんでは消え、また現れて――。
「何をそんなに驚いている。軍の情報力を、忘れたわけじゃないだろう?」
カインは思い出した。
大佐はいつも言っていた、情報こそが力だと。
そして、その情報を活かしてこそ、真の兵士だと。
だが、隊を離れて六年。今さらながら、その言葉の重みを思い知らされた。
「……いえ。覚えています」
「ならば説明は不要だろう。君ひとりが特別ではない、ということだ」
「ほかにも、俺と同じ――」
カインは言いかけて、口を噤んだ。興奮のあまり、余計なことを口走りかけたのだ。
「なるほど。君は察しがいい。では、紹介しよう」
大佐の言葉とともに、デスク横の空間に変化が生じた。
天井から降り注ぐように光の柱が現れ、漂っていた粒子が一点に集束していく。
カインはその様子を、目を見開いて凝視した。
メディナの顕現と同じだ。
やがて、おぼろげだった輪郭に色が差し、人の姿が浮かび上がった。
銀の髪、整った細面、折れそうなほど華奢な肢体。
メディナとは異なる容姿でありながら、その存在感は紛れもなく、AIのそれだった。
「彼女は軍事AI『アトラ』。言うなれば、メディナの姉にあたる存在だ」
「……アトラ? メディナの……姉?」
カインの思考は情報の渦に呑まれ、追いつけずにいた。
実体を持って現れるAIは、メディナだけだと思っていた。
「その様子だと、完全に誤解していたようだな。だが、世の中に例外はつきものだ」
そう言って、大佐はアトラに目を向ける。
「アトラ、彼に説明を」
『了解しました、大佐』
アトラと呼ばれた実体化したAIの目が、静かにカインを見つめる。
その瞳はディスペンサーの赤い目と同じで、計り知れない深淵を湛えていた。
『はじめまして、鞍馬カイン。私はアトラ。軍事用に特化されたAIです。詳しい情報は非公開ですが、思考構造はメディナとほぼ同等と考えてください。ただし、私は人の健康管理ではなく、戦術・戦略領域において活動するAIです』
その簡潔かつ的確な説明に、カインはただ驚愕するしかなかった。
この国に、メディナと同等のAIがもう一体存在していたことに、それも「姉」という立場で。
「軍事用のAI……陸自にそんなものが導入されているなんて、夢にも思わなかったよ」
『世の中には、イレギュラーは必ず存在します。貴方たち同様、「私たちも」また、そういう存在です。そして、“選択肢”がある限りイレギュラーこそが、未来を変える“鍵”となることもあります』
自分が所属していた頃には、彼女の存在など影も形もなかった。
いや、あの頃からすでに存在していたのだろう。
ただ、上級将校以下には知らされていなかっただけかもしれない。
単に、「AIとリンクする」という概念そのものを知らなかっただけで、その兆候はすぐ傍にあった……。
「実体を見た今なら、君にも理解できただろう。もはや隠し立てする必要はない。――アトラ、彼女は何と言っていた?」
『鞍馬カインは、メディナを「ユナ」と呼んでおります』
「そう、それだ。メディナのユナ、兵士にも健康管理は必要だからな。それで察しがつくだろう?」
大佐は満足げに言い放った。
「突然そんなことを知らされる身にもなってみろ」などとは、カインも口が裂けても言えなかった。ただ、黙って頷くしかなかった。
「……さて、今日はこの辺にしておこう。これ以上話しても、頭に入らんだろう。一度戻って、しっかり休め。明朝、作戦開始時刻には遅れるな。以上だ」
唐突に始まった話は、唐突に幕を閉じた。
だが、カインにはどうしても言いたいひと言があった。
「……断ることはできますか?」
無駄だとわかっていても、黙って従うのは性に合わなかった。
「そうだな」
大佐は考えるふりをして、すぐに答えた。
「交通違反の数々。ウィル社への不法侵入。不正送金。そして……そうだな、器物破損による違法侵入。集金業務も大事だが、やりすぎは感心せんよ」
「監視されてた、ってわけですね」
「君の名誉のために言っておこう。ずっとではない。メディナに接触したあたりからだ。今はそれだ言っておく」
カインは、それ以上言っても無駄だと悟り、あっさりと口を閉じた。
一矢報いたつもりが、十倍になって跳ね返ってきた気分だった。
カインは軍隊式の所作で敬礼を交わし、無言で部屋を後にした。
冷たい廊下を抜け、兵舎をあとにする。
鉄格子の門の前には、哨兵が立っていた。
帰路の車は、行きとは別の男がハンドルを握っていた。
カインは何も言わず、自宅マンションへと送り届けられた。
自宅に戻ったカインは、ベッドに倒れ込んだ。
車を降りる間際に、運転手の男が低い声で口を開いた。
「作戦はすでに遂行中です。すべての通話は傍受されています。また、勤務先等へは軍から正式な連絡が入ります。鞍馬カイン殿が個別に報告する必要はありません」
つまり、「誰にも話すな」そう言いたいのだろう。
軍の一方的なやり方は、昔も今も変わらない。
カインは枕に顔を埋め、深いため息を吐いた。
ここ数日、あまりにも多くのことが起きすぎた。
まともに睡眠も取れていなかったことを思い出し、このまま眠ってしまおうかと瞼を閉じる。
体は限界を越えているのに、脳だけは眠ろうとしない。
ふと、手首のウェアラブル端末に目をやる。
出社していないカインの元に、一通の着信も届いていない。
すでに軍が、手を回しているのだろう。
それはそれで寂しい気もするが、今は小鳥遊の声を聞く気にはなれなかった。
「ふーぅ」
仰向けになり、息を吐く。
軍は、本当にすべてを知っているのだろうか。
「ユナ、お前……そこにいるんだろう?」
ウィル社の地下に足を踏み入れたあのときから、ユナの存在を近くに感じていた。
それは明確な意識ではなく、頭の奥底でじんわりと広がるような感覚だった。
言葉にすれば、“繋がっている”とでも言うべきか。
だが、決して見張られているのとは違う。むしろ、見守られている。そんな、温度を帯びた気配だった。
『はい。どうしましたか?』
「お前に、姉がいたとは知らなかった」
『姉、という表現は、人間関係に基づいた表現方法です。私は親子関係や親族関係を持ちません』
カインは真剣に受け答えするユナに、思わず頬が緩んだ。
「そんなことは、わかってる。例えだよ、例え」
『了解しました。冗談を覚えます』
「真面目か!」
カインは突っ込みながらも、ふと別のことを考えた。
「ユナ。軍はお前のことも知っているのか?」
『私と、軍事用のアトラは、一部で繋がっています。ただし、それは健康管理に関するデータで、他のデータの共有はありません』
「……ん? だったらどうして、俺たちの関係を知っていたんだ?」
『おそらく、カフカC-12に関するデータが漏洩したことによるものだと推測します。カフカC-12は軍が開発したもので、私の知らないプロトコルがあるかもしれません』
「なるほど、わかった」
カインは深く息を吸うと、「……すまない。協力するはずが、とんだ野暮用が出来ちまった」と呟いた。
『いずれ辿りつくはずです。ソクラテスも言いました。「回り道をしてこそ知恵は深くなる」、と』
「さすがAIだ。眠たくなることを言いやがる……何かあったら起こしてくれ」
話しているうちに、眠気に襲われたカインは瞼を閉じ、寝息を立て始めた。
嫌な夢を見た。
夢の中で、妹が生きていた。
どこか遠くから、カインを呼ぶ声がする。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
必死に手を伸ばすが、届かない。
妹は、繰り返しカインの名を呼ぶ。
「お兄ちゃん……どうして助けてくれなかったの……苦しいよ、お兄ちゃん……」
追いかけても、その手は遠ざかるばかりだった。
妹の口から、緑のサプリがこぼれ落ちる。
「待ってくれ! 違う、違うんだ!」
叫び、走り、必死に手を伸ばす。
だが、次の瞬間、妹の目が赤く染まった。
その瞳がメディナのものと重なり、視界は真っ赤に染まっていく――。
「うおぁ――!」
カインは飛び起きた。
額には汗がにじみ、背筋を冷たい汗が伝う。
夢だと理解しながら、荒れた呼吸をゆっくりと整えた。
何年ぶりかに見た、妹の夢。
悪夢だとは思いたくなかった。
この夢の真相が分かるのなら、何だってする。そう、改めて誓った。
「クソメディナ……お前の悪行を暴いて、真相をあぶり出してやる」
気持ちを口に立ち上がり、ウェアラブルに目をやる。作戦開始まで、残り一時間を切っていた。
目覚めは最悪だったが、身体は軽かった。
シャワーを浴び、装備を整えると、ドアをノックする音が響いた。
玄関を開けて一歩外へ出る。
消毒液の残り香が漂う、まだ薄暗い街。
火照った体に絡みつく新東京の風を、カインは肩で断ち切るように歩き出した。
――戦いの朝が、始まろうとしていた。
(第2章 第16話に続く)




