第14話:指名の理由
翌朝9時ちょうど、カインのマンションのドアがノックされた。
帰宅してシャワーを浴び、ベッドに潜り込んだのは、3時間前のことだった。
――さすがは雑賀大佐の部下。秒単位の正確さだ。
「今、出ます」
靴紐を締め、カインはドアを開ける。
立っていたのは角刈りの男。
ユーティリティジャケットに身を包み、私服風ではあるが隠しきれていない。
鋭い目つき、がっしりとした体格、そして無駄のない姿勢。どこからどう見ても軍人だった。
「おはようございます、鞍馬さん。お迎えにあがりました」
「おはよう。さっさと行こうか」
男は踵を揃え、ぴしりと敬礼をした。おそらく無意識の癖なのだろう。
だが、それを見たカインは思う。――隠すつもりがあるのかないのか、どっちなんだ。
喉まで出かけた言葉を飲み込み、歩き始めた。
通りに停められていたのは、ごく普通の乗用車だった。
男が回り込んでドアを開けようとしたのを、カインは手で制す。
「気ぃ遣わなくていい」
ぶっきらぼうにそう言い放ち、自分で助手席のドアを開けて乗り込んだ。
行き先はすでにナビに入力されていたのか、車はボタンひとつで静かに走り出した。
しばらくすると、運転席の男が、軍用の認識タグとIDカードを差し出してきた。
「こちらを首から。IDは所持しておいてください」
カインは黙ってタグを受け取り、IDに目を落とす。
《統合特殊防衛群 第03特別戦術中隊百藍特任隊 特別隊員:鞍馬カイン》
肩書きを見て、小さくため息をついた。
ここまで手が打たれていては、もう逃げも隠れもできない。
「大佐は、相変わらず強引だな」
カインの呟きに男は一瞬だけ驚いたような顔をし、振り向いてから答えた。
「……ええ。まあ、そうですね」
堅物かと思っていたが、意外と話が通じる男らしい。
カインは鼻で笑い、肩の力を抜いた。
名前でも聞いてみようかと思ったが、下手に関わらないほうがいい気がして、口を閉ざした。
車は都内をしばらく走り、高速に入る。
やがて高速を降りると、何度か同じ道を往復し、徐々に山手方面へ進路を取った。
軍隊式の尾行確認手順。
空には、おそらく陸自のドローンが展開している。念の入った警戒態勢だった。
それも当然だった。
「特任」が付く分隊は、特殊任務を担う高機密の直轄分隊にのみ与えられる。
かつてカインが所属していた、「零」の系譜に連なる特殊分隊だった。
当時の階級は少尉。コードネームは――。
その名が脳裏に浮かぶ直前、カインは記憶を断ち切るように目を伏せた。
戻る気など、これっぽっちもなかった。
それなのに、なぜ自分は今、こんな場所にいるのか。
答えの出ない問いが胸の奥で渦を巻き、やがて霧のように消えていった。
道はやがてアスファルトから砂利道へと変わり、頭上には木々が広がって空を覆った。
山道を登るにつれ、周囲には「私有地につき立入禁止」と記された看板がいくつも立っている。
ほどなくして視界が開け、鉄格子に囲まれた、背の低い建物が姿を現した。
「こちらで降車をお願いします。この先にゲートがあります。IDを提示していただければ通過できます」
「ありがとう」
カインは礼を言い、静かに車を降りた。
鉄格子に沿って進んでいくと、銃を肩に提げた哨兵が無言で立っていた。
「IDをお願いします」
カインはIDを差し出した。
それを確認した哨兵の表情が、目に見えて変わる。
もともと無愛想というわけではなかったが、一転して過剰なほどの緊張を見せた。
なるほど、そういうことか。「特任」の文字が入ったIDなど、そうそう目にする機会はないのだろう。
「こちらに、どうぞ!」
ブザー音が鳴り、鉄格子の門が開く。
哨兵が機敏に動き、カインは基地に足を踏み入れた。
哨兵に案内され兵舎に近づく。どの建物にも表札のようなものはない。
ドアを開けて、ロビーを抜け、奥へと進む。
ウィル社と同じで、機密を守るため、プレートなどどこにもなかった。
おそらくここが大佐の執務室だろう。
「雑賀大佐、鞍馬カイン殿をお連れしました」
ドアの前で声を張る哨兵。
「入れ」
低く通る声がドア越しに聞こえた。
哨兵はカインに敬礼をすると、すぐに帰っていった。
ノックは一回。
「入ります」
いつしか軍隊式の作法を思い出していた。
室内は質素だった。
窓はなく、壁にはいくつかの賞状と、分厚いファイルが並ぶ書庫。
正面のデスクに座る雑賀大佐が、顔を上げる。
「すぐ終わる。掛けて待っててくれ」
カインは応じて、テーブル脇のソファに腰を下ろす。
視線の先、壁際に掲げられた一枚のボードが目に入った。
整然と並ぶ氏名。すべて、戦死者のものだった。
カインはほんのわずか、目を伏せる。
「よく来てくれた」
大佐が立ち上がり、カインの正面に腰を下ろした。
軍人らしい背筋の伸びた姿勢。実戦から離れて久しいはずなのに、軍服越しにもわかる体格のよさは健在だった。
そして、昨日は見えなかった左の頰。そこには、深く裂けた古傷が刻まれていた。
「保険機構での仕事はどうだ。成績は優秀と聞いているが」
「……おかげさまで、何とかやってます」
互いに、世間話を好むような性格でないことは、よく知っている。
それでもあえて話題にするということは、別の意図があるからだ。
「最近、とあるクレーム処理にあたったそうだな。解決したのか?」
――そう来たか。
話の流れが読めた。だが、読めたところで、それを変える術など持ち合わせていない。
「ええ。サプリの生成エラーに関するクレームでした」
「解決したのか?」
「いえ。暴動が起きて、うやむやになりました」
「……それはいかんな」
大佐はわずかに眉をひそめたが、それも本題へ入るための前振りに過ぎない。
カインは、内心うんざりしていた。
「……大佐。俺を呼んだ理由、そろそろ教えてもらえますか」
一瞬、大佐の眼光が鋭くなった気がした。まるで獲物を捉える猛禽のような視線だった。
「俺の部下だったら、今ので腕立て100回だぞ」
「……あいにく、今は民間人ですから」
「口だけは一人前になったようだな。――これを見ろ」
そう言うと、大佐は一冊のファイルを放ってよこす。
カインは手を伸ばして、それを受け取った。
昨日と同じだ。
一度目を通せば、もう戻れない。
それでも、見ないわけにはいかない。
四方を塞がれた状況。
これが、雑賀大佐のやり口だ。
観念して、カインは黙ってファイルを開いた。
目に飛び込んできた題名に、思わず目つきが険しくなる。
「神名川支部開成統制群における、中毒者並びに依存症」
嫌な予感しかしない。
それを裏付けるように、表紙の隅には赤字で「極秘」の二文字が刻まれていた。
カインは黙ってページをめくる。
途中、視線が止まり、指先がかすかに震えた。
記録は、生々しかった。
「どう思う。率直な感想を聞かせてくれ」
大佐の声が、読み終えたタイミングを狙ったように響く。
感想など、求めてはいないはずだ。試している。
「昨日の暴動と、共通点があるように思えます。メディナの通信エラーの直後に中毒者が暴れだした。……メディナ側の異常が疑われます」
言い終えると、大佐は満足そうに背もたれに体をあずけた。
「なぜ、メディナが異常だと? 三原則を無視したと、言いたいのか」
「スラムでの暴動も、メディナが生成したサプリが原因だと考えています」
「ほう。軍の科学調査班ですらまだ結論を出せていないのに、君は“サプリによる中毒”と断定するわけか」
「はい」
言い訳はしない。時間の無駄だ。
どこまで話すか、カインは冷静に思考を巡らせる。
「仮に、君の言うようなことが実際に起きているとしよう。君なら、どう解決する?」
一拍の間。
カインは息を整え、静かに答えた。
「ぶっ潰します」
一瞬、大佐の目が見開かれ、次の瞬間、吹き出すように笑った。
「すまん。つい、昔を思い出したよ。君は隊にいた頃から威勢が良かったからな」
「……そうですか」
笑みが消える。
大佐はゆっくりと瞼を閉じ、そして開いた。
空気が変わった。
巨大な岩壁を前にしたような圧が、部屋に満ちる。
その威圧の中で、自分の存在がやけに小さく感じられた。
「特別隊員、鞍馬カイン。神名川支部開成統制群の内部調査を命ずる」
間を置かず、言葉が続く。
「明朝、0600時。作戦を開始する。以上だ」
カインは思わず口を挟んだ。
「雑賀大佐、どうして俺なんですか?」
大佐は軽く体を乗り出し、カインをじっと見つめる。そして、静かに言い放った。
「どうして、だと?」
一瞬の沈黙の後、大佐は冷徹な眼差しで続けた。
「君が、メディナに選ばれたからだ」
(第2章 第15話に続く)