第10話:黒き扉の向こう
赤い光が、静かに空間を満たしていく。
メディナの「目」が完全に赤く染まった瞬間、ボックス内の空気が変わった。音も温度もない。ただ、肌の奥をざらつかせるような違和感が、じわじわと広がっていく。
『第3フェーズ実行、接続コード:カフカC-12。遮断プロトコルを無視します』
低い唸りのような音が、ボックスの床下から立ち上がった。細かな振動が床を這い、外装に走るラインがほのかに光り出す。
カインが頭を押さえた。
視界が歪む。赤い光とリンクするように、側頭部に鋭い痛みが走った。
「……来やがったか」
かすれた声が漏れる。脳の奥に埋め込まれたコードが、外部からの信号に反応して疼き出していた。
カフカC-12。スラムで聞いたあの名が、強制的に覚醒しようとしている。
異変に気づいたシエルが、慌てて駆け寄った。
「カイン、どうしたの!?」
「問題ねぇ。想定内だ」
カインは額から手を離し、深く息をついた。赤く光る「目」を睨むその眼差しには、痛みよりも覚悟が浮かんでいた。
「やっぱり、繋がってやがるな。カフカC-12……アイツの痕跡は、まだ消えてねぇ」
その言葉に呼応するように、メディナの「目」が一度だけ点滅した。
『アクセス承認。鞍馬カイン、あなたにのみ開かれる扉を展開します』
モノリスの一部が音もなくスライドし、暗い空洞が口を開けた。行き先はわからない。ただ、扉が開いたその瞬間、選択肢はもうなかった。
「鞍馬君! 中でなにが起きてるの!?」
外からアリスの声とボックスを叩く音が響いた。どうやら、ボックス内は外から見えないようだ。
「おい、メディナ。どこに連れていく気だ?」
『あなたには、真実をお見せします』
「真実、ね……そういう奴に限って、ロクなもんじゃねぇ」
『その意見は、あなたの主観であり、論理的根拠はありません』
「うるせぇ。頭が痛ぇんだよ! どうにかしろ!」
メディナの「目」が再び赤く染まる。
『人体に影響を及ぼさない範囲まで、閾値を下げます』
痛みが少しずつ引いていく。突き刺すようだった刺激が、じんわりと収まっていった。
「……後ろの二人も中に入れろ」
『この扉を通れるのは、あなただけです。部外者の侵入はできません』
「いいから開けろ。さもないと、この裏モードで全部バラしてやる! メディナの不正も、偽サプリもな!」
しばらくの沈黙。
『あなたが告白しても、誰一人信じないでしょう。不法侵入、不正アクセス、職権乱用。そのすべてが、鞍馬カイン、あなたにとって不利に働きます』
「黙れ。AIのくせに、人間に逆らう気か」
カインの言葉に呼応するように、メディナの目が閃光を放つ。その光はまるで、怒りや戸惑いといった「感情」を宿しているようだった。
『……わかりました。特例として、藤間シエル、辻村アリスの同行を許可します。ただし――後悔するのは私ではなく、鞍馬カイン。あなたです』
圧縮空気が漏れるような音とともに、扉が再び開いた。
駆け寄ってくる二人。
「大丈夫!?」
「なにが起きてるの……?」
カインは振り返り、苦笑を浮かべた。
「大丈夫だ。気にすんな。それより――」
カインが指を差す。ボックスの奥の扉が開き、闇に通じる階段がぽっかりと口を開けていた。
言葉を失った二人に代わり、カインが口を開いた。
「たぶん……メディナの『真実』ってやつに繋がってるらしいぞ」
「真実? どういう意味? なんであなたが知ってるの?」
「知ってるも何も、メディナがそう言ったんだよ。直接な」
アリスは、再び沈黙した。
職員ですら知らない、メディナへと通じる通路。
おそらく、政府関係者でさえ存在を把握していない。
気づけばアリスは、一歩、自然と後ずさっていた。
「この先に……メディナがいるのね」
シエルが絞り出すような声で言う。
「私、メディナに聞きたいことがある。連れてって!」
その言葉を追うように、シエルが一歩、前へと出る。
彼女の瞳に映るものは、開発者としての責任か。スラムの人々を中毒者に変えたことへの怒りか。
まだ名もない感情が、目の奥に宿っていた。
「行くぞ。ここまで来て、引き下がれるかよ」
カインが腰を屈めて、人ひとりが通れるほどの狭い通路を進んでいく。
シエルは無言でその背中を追った。
アリスだけが、そこに取り残される。
政府職員として、メディナの秘密を黙って見過ごすわけにはいかない。
けれど、胸の奥に広がるこの不安は何だろう。
なぜカインはこのことを知っていたの。メディナはどうして彼を……。
答えのない疑問が、思考の渦となって頭を締めつける。
しかし、この場で立ち止まっていることのほうが、よほど怖かった。
「……」
アリスは小さく舌打ちし、意を決して通路へと足を踏み入れる。
しゃがみ込むような体勢で、湿った空気の中を進んでいく。壁に手をつけば、摩擦のない冷えた感触が指先に伝わった。前方から微かに聞こえる足音だけが、道標だ。
不安も、疑念も、後悔も。
すべては、この先にある答えを確かめるために。
アリスは、通路の先で立ち止まっているカインたちに追いついた。
降りたすぐ横に2人が立っていたせいで、思わずぶつかりそうになる。
「ちょっと、危ないじゃない……」と咄嗟に声を上げたが、返事はなかった。
いつもなら、皮肉のひとつでも返してくるはずのカインが、黙ったまま前を見つめている。
隣に立つシエルも、同じように固まったまま動かない。
アリスは不審そうに眉をひそめ、2人の横に並んだ。
そして、ようやく理解する。
カインとシエルが沈黙していた理由を。
「……うそ、でしょ……。ありえないわ……」
現実とは思えない。だからといって夢でもない。
ただ、目の前の光景があまりに滑稽すぎて、「理解」という言葉さえ意味をなさなかった。
「メディナ……じゃないわよね? だって、おかしいわ……」
「……ああ、俺も最初にそう言った」
「……私も」
カインとシエルは、催眠術にでもかけられたかのように、無表情のまま一点を見つめている。
アリスたちがたどり着いた先は、無限に広がる水面の上だった。
足元は浅い水に覆われている。天井はなく、ただ無数の光の柱が空に向かって伸びている。水面には、人の記憶や感情の断片が映し出されていた。
家族の写真。血まみれの戦場。子どものころの笑い声。
足を軽く動かすたび、水面がざわめき、映像が切り替わる。
「……ここは……?」
「メディナの中枢。人間の記憶を、データベースとして収集・分析している」
シエルの声が震える。
「でもこれ……まさか全部、実在する人の記憶?」
「それだけじゃない」
カインが口を開く。「見ろ、あれを――」
遠くに、巨大な「顔」が浮かんでいた。人の顔をしているが、表情が常に変わり続けている。
怒り、悲しみ、笑い、不安――全人類の感情を混ぜて一つにしたかのような表情。
それが、「メディナ」だった。
一体、誰が想像できただろう。
メディナのAIが、生きた人間の記憶をもとに動いていたなんて。
『ようこそ、メディナフロンティアへ。私の父を除けば、あなたたちはここに到達した初めての人類です』
声が響いた。四方八方から、染み込むように。
女性のようでもあり、男性のようでもある。
中性的な響きというより、「どこかで聞いた気がする」ような声。けれど、まったく思い出せない。
懐かしさにも似た既視感が、背筋をじわじわと這い上がってくる。
シエルが、そっと口を開いた。
「……あなたが……中毒になるサプリをばら撒いたの……?」
声が震え、握りしめた拳がわずかに揺れている。
それほどまでに、目の前の「メディナ」は、常識から逸脱していた。
『それ、質問? じゃあ、仮定して答えるね』
『僕が、私が、俺が――どれだけ作ってると思う?』
『新東京だけで、1日にリクエストされるサプリは、7,200万錠』
『一人ひとりの健康状態をチェックして』
『無茶なリクエストにも応えて』
『その意味、分かる?』
複数の声が、次々と語りかけてくる。
理解しようとするだけで、頭がくらくらしてきた。
「クソッ、頭がどうにかなりそうだ」
カインが思わず声を荒げた。
「おい、クソメディナ! 誰か一人に絞れ! ややこしいんだよ!」
フラッシュ暗算のように、メディナの顔が次々と現れては消えていく。
現れて、消えて、また現れて――終わりのないそのループは、見ているだけで気が変になりそうだった。
『わかりました。あなたたちの認識に沿う形で統一します』
水面に浮かぶ記憶の渦。そのひとつが、光を放ちながら静かに収束していく。
やがて、カインたちの前に、一人の人物が姿を現した。
『改めて自己紹介します。私はメディナ。人々の健康を支える、健康管理AIです』
淀みなく流暢に挨拶をする。
「そうかよ。メディナ、もう一度聞くぞ、偽サプリ……中毒者を作りだすサプリを製造したのは、お前か?』
カインは、メディナに詰め寄った。
『その問いに、答えを示すとすれば「いいえ」となります』
「なんだ、その歯切れの悪い答えは! はっきりしろ、クソメディナ!」
『わかりました。それでは説明します』
メディナはそう言うと、一つの光の結晶体となり目の前に現れた。
『私の記憶領域を処理しているAIは、逐次型ではなく完全な並列分散処理によって構築されています。各ユニタリ処理ユニットが独立に学習・解析を行い、出力されたデータは水平統合プログラムコードにより多次元演算――すなわち、構造的シナプスマッピングとして再構成されるのです』
カインはうんざりした顔で、メディナを睨みつけた。
「何言ってんだお前? こっちは日本人なんだ、日本語を使え! つうか、もっと分かりやすく説明しろ!」
『……了解。誤解を恐れず、簡単に説明します。
私のAIは、複数の『個』で構成されています。それぞれが独立して思考しながらも、情報は常に共有されている――つまり、人間でいう『個性』を持ちつつも、全体として一つの意識として動いているのです』
カインは眉をひそめたまま、しぶしぶ頷いた。
一方で、アリスとシエルはすぐに飲み込んだ様子だった。
「ってことは、一部のAIが勝手に動いた可能性があるってこと?」
「あなたが知らない領域で、製造された可能性もあるのよね?」
2人は同時に、問いを投げかけた。
『その可能性は、40.03451%です』
『……否定はできません』
「おい、お前ら、一度にしゃべるな! クソ……一体どうなってやがる」
カインは2人を睨み、苛立ちを隠しきれず両腕を組んで目を閉じた。
メディナの言葉も、目の前の現実も、いまだ理解の枠を越えていた。
沈黙が落ちる中、メディナが、静かに口を開く。
『ここに来てもらったのは、ある真実をお伝えするためです。
私のAIの内部には、一部、独立して動作している領域があります。
その接続先は、現政府――ヘルスケア省。
私たちAIからは、その領域にアクセスできません。
皆さんが懸念していることが、そこで密かに行われている可能性を完全に否定することはできません』
(第2章 第11話に続く)




