第01話:ウェルネス全盛の新東京
妹は15歳だった。彼女の血走った目が、今も脳裏を何度もよぎる。「こんな街で生きてても、意味なんてない」あの夜、彼女はメディナの緑のサプリを握り潰し、赤く光るディスペンサーの前で倒れた。あの日から、カインはこの街をただ憎むことしかできなかった。
2080年、健康管理AI「メディナ」が支配する新東京。ネオンの光が虚ろな笑顔を隠す街では、人々の表情がどこか無機質に見える。
巨大ビジョンが叫ぶ。「健康革命! 月900億の未来!」
群衆は緑のサプリを手に取り、キラキラ光る錠剤が指先で踊る。しかし、彼らの笑顔には命がない。
鞍馬カイン、28歳。
新東京の早朝、薄暗い路地を歩く。
ドアを蹴り上げると、バキッと乾いた音が響き、カビ臭い空気が鼻を刺す。
「田中リョウ! 新東京保険機構だ。今すぐ出てこい!」
6年目の集金業務。慣れているはずだったのに、胸の奥で痛みが湧き上がる。妹を救えなかったあの日の、冷徹すぎる記憶が蘇る。
部屋の隅で、田中が膝を抱えて震えている。薄暗い蛍光灯がチカチカ点滅し、黒ずんだカビが壁を這う。20代半ば、骨ばった指に緑のサプリ。汗をかいたこめかみ、虚ろな目。依存症そのものだ。床には食いかけのカロリーバーが転がっている。
「未納5ヶ月、34万5千円。払え」
「ま、待ってくれ……」
「待てねえから来てるんだろうが、ボケ!」
カインの声が自分でも驚くほど大きく響くが、止められない。
滞納3ヶ月を過ぎた頃、一度身辺を調査した。普通に働いて、普通に過ごし、どこにでもいる青年だった。街ですれ違っても、10秒後には忘れている、そんな平凡を絵に書いたような男だった。
だが、ある日を境に、遅延するようになり、それでも催促すればすぐに入金されていた。
そんな日は長くは続かなかった。
滞納は続き、連絡も取れず、再調査で真相を知った。
父親の会社が倒産。両親は夜逃げ。残ったのは借金。
後がなければ、よくある話で終わっていた。
婚約を控えた彼の妹は、それがきっかけで破断。そして自殺。
よくある話と割り切れるほど、カインは、大人ではなかった。
「金も払えない奴が、サプリに頼るんじゃねえ。メディナ、強制執行モードだ、止めろ!」
部屋の隅にあるディスペンサーがカインの言葉を聞き取り、青く光り、全身をスキャナーする。
無機質なメディナの声が告げる。
『エージェント鞍馬カイン、認証。対象者のサプリ供給を遮断。監視レベルをエスカレート』
「やめてくれ! サプリなしじゃ……死ぬんだ」
田中が這いつくばり、カインの足元に縋りつく。その目が、6年前の妹と重なる。カインの胸に、わずかに揺らぎが生じた。
本当は、手を貸してやりたかった。立ち直れるチャンスは何度もあったはずだ。
カインは5ヶ月も待った。通常3ヶ月でエージェントはメディナを止める。
それをカインは――。
息を大きく吐き出し、その思いを押し殺す。「この部屋はメディナの嘘そのものだ」と、冷徹な思考が脳裏を支配する。
両手が、わずかに震えた。
「逃げてんじゃねえぞ」
カインは田中の胸ぐらを掴む。
メディナなんか、さっさと手を切って働け、そう声を上げた。
だが実際は、カインも仕事だと割り切って声を荒げた。
「金か、強制拘束だ。どっちでも好きにしろ」
田中は怯える手でスマホを差し出した。カインは奪うとディスペンサーにかざす。即時引き落としの確認音が響き、メディナが『確認しました』と告げる。カインは床に散らばったサプリの欠片を踏み潰す。パキンという音が耳に残る。
「ドアの修理代はうちに請求するんじゃねえぞ。ウィル社に言え」
田中が呻く。「ウィル社なんかに……言えるわけない……」
カインは背を向けたまま、「だったら、引きこもってねえで、働け!」と言い放った。
外の空気が、田中の汗と妹の涙の匂いに重なった。
あの日、妹を見捨てたこと、それがまた一人増えただけだ。
甘ったるい消毒液の匂いが、路地を満たしていた。遠くにネオンの残光が滲み、監視カメラの目がカインを追う。
大通りに出て流しのタクシーを捕まえ、乗り込む。
「北区東通り、保険機構ビル。飛ばせ」
スーツの裾を整え、後部座席に沈む。
田中の目と妹の目がちらつく。
「クソくらえ」と吐き捨て、思いを振り切った。
タクシーの窓越しに、新東京の車列が流れ、ビジョンが吠える。
「メディナで健康革命! 利用者1,800万人!」
緑色の光が群衆の顔を無機質に染め上げ、サプリを握る手に影を落とす。
カインは、鼻白んだ視線を窓越しに投げた。
飲み干す群衆。
誰もが機械仕掛けのように、メディナの万能サプリを口に運ぶ。
町医者も、病院も、とうに過去のもの。そんな世界を思い出す者すら、ここにはいない。
カインは舌打ちした。
「健康革命? 鎖に繋がれたゾンビどもが、よく言うぜ」
運転手は70代の老人。前歯が欠け、皺だらけの手でステアリングを握る。
「荒れてるね、旦那」
カインは無言で無視し、続けて口を開く。
「珍しいな。AIじゃなくて人か」
「AIの更新中でね。俺ら、万が一の予備さ」
笑う声に、カインは一瞬だけ懐かしさを覚えた。
メディナが現れる前、人々がまだ健康保険にすがり、力を合わせて生きていた時代の人間。
今じゃおとぎ話にもならねえ、くだらない話だ。
「人間が予備か。いい時代だ」
カインの皮肉に、老人が続ける。
「そういや最近、スラムがヤバいらしい。中毒者が暴れて、サプリが人を狂わせるってよ。噂じゃ、闇のサプリが出回ってるらしい」
「いつものことだ」
カインは吐き捨てたが、胸に鈍いざわつきが残った。
「中毒者がさ、メディナに見られてるって怯えてる。カメラの目が、夜でも消えねえってよ」
「見られてる?」 カインの目が一瞬鋭くなる。
「忠告、感謝するよ」
気怠げに呟いたが、タクシーを降りる足取りには、微かな重さが加わっていた。
保険機構ビルの正面。ガラスの壁が朝日に冷たく光り、カインの顔を白く照らした。
「おはよう、鞍馬君」
振り返ると、小鳥遊レイコ、36歳。ショートカットの奥から鋭い目がカインを射抜く。スーツもバッグも高級品で、隙のない女だ。
「部長、朝から随分ご機嫌ですね」
「そうでもないわ。君が期待外れだったら、すぐに機嫌を損ねるから」
薄い笑みが浮かぶが、目は冷たいままだった。
彼女がカインの腕を取り、歩きはじめる。
カインは小さく鼻で笑う。
「誤解されても困ります。既婚者でしょ?」
「成果さえ出せば、誰も文句は言わないわ」
肩をすくめて、続けた。
「だったらもっと給料もらえますかね」
「それは成果次第よ、さあ行くわよ」
小鳥遊の声には命令の響きが含まれている。
部長室。
整然と並んだ表彰状、余白のない空間。元官僚の几帳面さが、どこか息苦しい。
「田中の集金、上出来だったわ。東区の未納4.5億。ナンバーワンの君に、政府も期待してるのよ。メディナ料金は、この国の命綱なんだから」
「……はいはい」
ポケットに手を突っ込み、カインは興味なさげに応じる。
「それと、厄介なクレームが入ったわ。藤間シエル。元ウィル社の開発者。サプリが出ないってわめいてるの。メディナに歯向かうなんて、面白い子よね」
小鳥遊の目が一瞬光る。
「この件は君に任せるわ。政府もメディナの未納やクレームに目を光らせてる。失敗したら……分かるわね?」
笑みは柔らかいが、声には冷たさがある。
カインの目が一瞬鋭く光った。ウィル社に喧嘩を売る、自殺志願者か。
「これ、売り上げに加算されます?」
「ふふ、成果は私がちゃんと評価するわ」
カインは無言でタブレットを受け取り、踵を返す。
歩きながら、藤間シエルの情報に目を通す。
住所は南区――混成街区、都内最大のスラム街の近くだ。
胸の奥に、ざらつくような予感が残った。
(第1章 第02話に続く)