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幸せへの選択を  作者: サカのうえ
第七章「未来への確執」
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第八十四話 「シラ・フラブ」


「──いいや。そうとは限らない」


 そんな冷静な言葉を添えて颯爽とハセルの背後に1人の男性が転移して来た。

 少しは聞いたことがあるくらいの声だ。

 慌てて背後を振り返るハセルとシュライの瞳に映り込むのは『統率の概念』へと姿だけでなく、中身も成り代わっているシラ・コウファの姿だった。


「私を追いかけてきたのかッ!」


「そうだ。──だがハセルとやら、安心しろ。我を覆す未来予知など存在せぬ。それだけだ」


 悠々と佇む統率の概念の薄い青紫色の眼には冷淡さが込められていた。そして背中に生えている神々しい薄い青の翼を仕舞いながら微かに空を見上げる。

 ──直ぐアリマに向かって鎌を振り下ろすハセルと銃を発砲するシュライ。魔法は効くのか定かではない、それならという考えではなく反射的な行動だった。



** ** * ** *


 ──血に塗れた剣の手入れのため一度本邸へと帰ることにしたフラブは門に続く階段を上っている。

 静けさもさることながら山のはずなのに魔物さえ見当たらない厳重な結界が貼られている。


「私も見習わなければ……」


 だが突如として魔力の流れに違和感を覚えた。

 それは死を意味しているかのように強烈な感覚で身体の中から皮膚にもギシギシと伝わってくる。


「──ッ」


 険しい表情で慌てて階段を上りきって最初に目の当たりにしたのは魔力人形の姿だった。

 そして大多数の魔力人形と同じ外見でも見間違いようのない『カケイ』の姿。


「は……?」


「来たか、フラブさん」


 当然のように聞き覚えしかないカケイの声にフラブは驚きを隠せずに一瞬だけ息が止まる。カケイは光のない目でフラブの方を見つめてるが、フラブと初めて出会った時と同じ姿をしていた。


「俺ぁもうタナカにはつかねぇ。俺ぁ俺を作る原因になった化け物を恨んでた。その化け物が中にいるフラブさんごとな。でももう……いないだろ?」


「カケイ……?」


「それに教えなきゃならねぇことだってあんだ」


「カケイ」


 冷静になって呼びかける言葉は優しくなり、既に驚きなんてものは存在しなかった。しかし、そこに代わりとしてあるものは確かな『怒り』。

 ゆっくりカケイの元へと歩き出す。


「どこの誰か知らないが、誰の許可を得て私の友達に成り代わっている?」


 鞘から剣を引き抜いて、容赦のかけらもない冷たい殺意を別人と確信している『カケイ』へと向けていた。

 そんな瞳に映るカケイは不気味に口角を上げ笑みを浮かべて姿が変容する。それは泥が溶けるように、元々仮面を被っていた仮面を取るように姿が崩れ落ちる。


「──『終局組合』が1人。ラツロォエ・フィフ。以後、お見知り置きを」


 胸に手を当てて丁寧な挨拶をする男性だ。長身に青年ほどの見た目で短髪。一際目立つのは血に染まったかのような赤い眼をしていること。服装は黒いコートに長ズボンと大した特徴もない。


 確かに今、終局組合と名乗っていた。


 ──しかし、フラブが剣を構える前に霧のように姿が溶けてその場から消える。

 それは終局組合のラツロォエが逃げたワケではなく攻撃の続行を意味していた。


「……ッ」


 嫌な予感がする。

 ヨヤギ・アリマやアイネ、キヨリやコヨリ、そしてユノア、その全員がまだ建物の中に居るはずだ。少なくとも誰かが出かけていると仮定しても誰もいないなんてことはありえない。

 ましてや少しだけでも生きてる使用人は居るワケだからラツロォエはいつから来ていたのか。


 ──皆んなは無事なのか。

 そんな考えが頭に過ぎる頃、フラブは突如として心臓の激しい痛みが再発した。

 これは噴水がある広間で味わい何事もなく消えた刃物で貫かれたような痛みだ。


「──ッ!」


 状況から照らし合わせると、その痛みを与えていたものが終局組合のラツロォエだとするのなら。

 囮となったフラブが彼を連れてきたとも考えられ、そうなるとまだ大切な人への危害は加えられていないだろう。


 ──しかし、この痛みはまずい。

 

 心臓が貫かれている。いや、実際に貫かれているわけではないのだが感覚としては貫かれている。

 痛い、冷たい、苦しい……そんな感情に脳が支配されようとしているというワケで、長く続けば終局組合に抗うことすらままならないだろう。


「……ぁあ、嫌、だな」


 不意に口から溢れた言葉はそんな弱々しい頼りない言葉だった。

 理想を諦めてまで世界の、人々のためだけの幸せを願うことがどれだけ辛いか。せめて、そこまでの地獄を選んだのだから褒美がほしいと思ってしまうのが人間だ。

 それと同時に自分には願うことすら烏滸がましいという絶望と共に後ろ指がさされる。


 だがどうしても嫌なのだ。

 お腹を貫かれることも、かすり傷だって、腕を自ら燃やし無くしたときだって「痛い」。目にヒビが入って破壊されたときは死んだ方がマシという激痛だった。


 幸せのためには人を殺す悪党を殺さねばならない。

 『魔法』が使える限り、紛争が絶えず誰1人として幸せにならないのなら──


「これは『幻覚』! 貴女が見ているもの、聞こえているもの、感じているもの、全て。その痛みも」


 どこからか、頭の中に終局組合のラツロォエという男性のそんな声が鳴り響いた。だが胸の痛みに手を当てて堪えようと、それで我慢しようと抑えるだけで精一杯。


 完璧な人間など居ないと言うのなら、弱音くらい吐いたって許してくれる。

 完璧な人間など居るワケがないのなら、殺すという行為から目を背けたって頭を撫でてくれる。

 完璧な人間など存在してはいけないのなら、どうやってこの世界で生きろと言うのだろう。


 ──それでも、


「私1人の犠牲で、皆んなの幸せを」


 そう考えしまうことが、いかに強欲か。

 ──否。それは今まで生きてる中で散々思い知らされた馬鹿馬鹿しい願いなんだ。


 だからこそ、フラブは柄を力強く握りしめて躊躇いもなくコンクリートの地面に突き刺す。


 ──創束魔法『1万ノ槍』

 空中に2メートルある槍が、約30センチある鋭利の先が四方八方に向いて現れる。


 ──適応魔法『適樂』

 すると空は快晴のまま墨のような『黒い雨』が強く降り注いだ。その『黒い雨』は皮膚に対して痛みを煩わせるため姿形が見えない相手には敵策だろう。

 そして適応魔法はフラブの『適性』であるためフラブ自身に害を及ぼすことはない。


 ──混沌魔法『炎實獄』

 空中に出現させた槍に炎を灯す。


 3つの魔法を急に使用した故に魔力の消耗が荒れていて少しだけ息が荒くなってしまう。


 ──すると突然、フラブは左肩を2回叩かれて不思議そうにゆっくり背後を振り返る。するとそこには魔女らしき姿をしている因縁がある女性の姿が確認できる。

 誰が見ようと見間違いようがない、『終局組合』の前に呪いをかけてきたカナレだ。


「ねぇ、貴女。不思議よね? なんで呪いが解けてるの?」


 フラブの周りでは化け物勢揃いのため話題にすらあることがない。だが『魔女』の異名を持つカナレは人に呪いをかけることに対してなら悪名高い有名人だ。


 しかし、不思議と問いたいのはフラブの方だろう。

 ──何故かカナレには『黒い雨』の被害が全くもって見受けられないからだ。


「……ッ」


 だが、


「これも『幻覚』であり君の中でしか実在しない」


 というラツロォエの悠々とした優しい声が脳内に直接、天の声みたいに聞こえてくる。


 どこまでが幻覚で、どこからが現実なのか。

 カナレに肩を叩たかれたとき、確かにその手は感触として実在していたからこそ境目に見分けがつかない。 


 そしてまた同時に『黒い雨』はラツロォエに降り注いでいないことも理解できてしまう。

 『一万ノ槍』は辺りを警戒し何かあれば直ぐに対処出来るようにするためのもの。


 ────『剣を抜け。生きてる限りは暗雲を払い、万人に実力を示して見せろ』


 幼き頃の地獄のような思い出。もちろんのこと親代わりであるアリマからの教えで、それが死ぬもしれないなんて考えを否定してくれる。

 それに死を覚悟してもフラブは地面から剣を引き抜いて鋭い切っ尖を天に向ける。


「判断を見誤ったな……」


 そう言葉を溢すラツロォエはフラブが上ってきたばかりの階段の横に位置する木々に隠れていた。


 だがその直後、フラブが出した『一万ノ槍』のうち一本の槍がラツロォエの胸を貫いた──。


「…………ッ!?」


 理解が追いつかずに大きく見開く目を震わせながら口から血を吐く。そしてその槍は炎を纏っているため衣服を通して肌に火炎が移り込む。


「──アァァァッ!」


 だが攻撃の手が止まることはない。

 更に考える間も無く数多の槍がラツロォエの背中から胴体を貫く。まるて蜂の巣だ。


 幻覚のカナレも霧のように消えていき、終いには身体を貪るような貫かれた痛みさえも消えていく。

 よかった、そう安心したいがまだ出来なかった。


「……誰が、どうやって、『幻覚』を……」


 そう最後に心の声を溢して歪む視界が黒く染まり、全身の力が抜けるように地面に倒れた。

 終局組合ラツロォエ・フィフの凄まじい幻覚を誰かが破っていたのだろう。


 しかし倒れた原因は魔力の枯渇や傷の悪化など大層なことではないと言い切れる。


 明白なこと。多分、空腹だ。

 最後に聞こえた「ぐぅー」という低いお腹の音が聞こえたからこそ断言できる。


** ** * ** **


 これは助かった。

 そう思ってもいいのか肌触りが良い心地いい被り布団の感触に覆われている。

 眠い目を擦りながらゆっくり瞼を開けると見慣れた執務室の白い天井が見えた。


「あんこが食べたい……」

「最初の一言目がそれか」


 地の文に起こす間もなく突っ込まれた。

 呆れたような声から推測するに誰がどう聞いたとしてもアリマで間違いないだろう。その声の方向を見るとやはり職務をしている最中だったアリマの姿が確認できる。


 机の上で手を組んでいながら、呆れたような目を向けられているのも懐かしさを思い出す。


「らってお腹がすいたんです。あと、助けてくれてありあとうございます」


 眠たさと空腹で頭と呂律が上手く回らず、心地いい被り布団を頭まで被って潜り込む。


「ああ。ラサスと話した帰りに門を潜れば君が倒れていた故にすごく心配していたんだぞ。胸の下を貫かれている且つ氷で止血するなんて。愚か者のする行動は熟知しているのだが該当する者が身近にいるとは驚いた」


「られが愚か者れすかぁ……アリマさんじゃないんらから」


「殴られたいのか?」


「んー……」


 問いをスキップするかのような雑な返事に上で束ねている後ろ髪を揺らしながら腰を上げる。

 そしてフラブの方へと歩きながら、


「叔父殿が治してくれたのだぞ。万年引きこもりを全うしている叔父殿がわざわざ地下から出向いてくれた。だが傷跡は残るそうだ。何故だと思う?」


 思い当たる節しかない問いにフラブはハッと正気に戻って考える間も無く布団から顔を出す。


「……ぅぅ」


 と掠れ声を溢しながら答えるのを躊躇いつつ、自身の前で足を止めたアリマを見上げる。

 その眼は哀れみと怒りと行き場のない気持ちを堪えているようだった。


「……氷で対処したからですか?」


「当たり前だろう。わかるか? 囮になるということがどう言うことか。身をもって理解できたか?」


 言っても聞かないフラブに身をもって分からせようと敢えて止めなかったのだろう。


「それとも君は俺から離れるのか? 物理的にも精神的にも……そこまで俺を失望させたいのか?」


 失望という言葉はフラブにとってアリマから1番聞きたくない言葉の1つだ。

 何より突き放されているような気がするから。


 ──それでも


「私は私ですから。世界の平和に犠牲はつきものでしょう?」


 心配そうに寄り添うアリマは悲しそうな涙が不器用に溢れ出ている。だが、それすら一言で表すのなら『綺麗』というのが1番近しいだろう。


 私情では誰も彼も殺したくない気持ちが強くても理想の世界にするためには殺さないといけない。もしフラブが自身の行いに対し言いワケをするのならこう言うだろう。


「フラブ君、……そうだ。これからの予定が特に無いのなら今からシラ家の城を再建しに行こう。君の魔力があれば出来るだろう?」


 急に悲しそうに問いながらフラブの横に腰を下ろす。


「…………もう壊されたくないんです。再建しようと協力してくれたアリトさんの優しさすらも敵は踏み躙ったから。だから平和な世の中になって……何年か経過した時に城が私の家が存在した証になれば嬉しいでしょう」


 悲しい目を逸らしながら答えるフラブは顔半分まで被り布団を被る。

 その『証』という言葉から感じ取れる虚しさをアリマは汲み取るように否定も何も言わなかった。


「だから、私の活躍を乞うご期待に。というやつです。ですがまぁ空腹で倒れてしまったから……信用もなにもないですけど」


 そしてちらりとアリマの方を見てみる。

 フラブとしては顔色を窺うという軽い気持ちでみてみたのだがアリマは違った。

 アリマの表情に軽い気持ちなどなく、その曇った表情からは焦りと強迫が見て取れる。


「違う。そんな子に……俺は君をシラ家の当主として……育てなければ……それが『約束』で……」


 怯えたような震えた声で言葉を作ろうと考えながら発言し恐る恐るフラブを見つめる。ただフラブの黒色の瞳に映るアリマ自身の姿は惨めでいて眉間に皺を寄せてしまう。


「大丈夫ですよ。私、気づいていますから。アリマさんは私に『押し付け』ているんですよね。──お父様の幻影を」


 突き放す言葉、だがそれすらも言った手前か自分自身で冷たく包み込んでいた。


 だがアリマは何も言い返せなかった。

 ──自分自身が誰よりも向き合わないといけない人を見れていないことに気づいてしまったからだ。


 大昔にまだ幼くギリ獣魔物一匹に勝てるか否かのフラブを捨て山から離れることに言い訳をした。

 それは幼いアユの件や、フラブの内にいる化け物の脅威性を見極められたから、処刑課の指名手配に巻き込みたくないなどという3つの『言い訳』だ。

 どれも理に叶うほどの『言い訳』で自分の行いを肯定して懺悔して赦しを乞うてきた。


 ──なにより、もっと良い方法ならあったはずだから。

 捨てなくてもその頃からフラブを家に匿い強く育てる方法も視野に入れいたはずだ。

 シラ家の資産なら盗まれても壊されても幼いフラブに所有権があるワケだか取り返せる。何とかなる。


「ぁ……」


 頭に響くような掠れた声は無意識に溢れ出ていて、まともにフラブの顔を見れない。


 『シラ家の当主としてフラブを成長させる』


 シラ・ハジメとしたその『約束』を大切にしておきながら、領地の山にいるだけで、ハジメの子であるフラブを見つめるだけで、胸が張り裂けそうなほど辛いという感情を優先してしまった。

 それは一時的にでもハジメとの『約束』を捨たことになるのだろう。


 そして今さら、あのとき再会してからまた、自分を赦すために、赦してもらうため『約束』を守ろうとするなんて虫唾が走るほど都合のいい話だ。

 『シラ家の当主』として成長させる『約束』にフラブを重ねて利用してきた。


 後ろ指に追い詰められ痛い表情を見せるアリマに少し驚くフラブは身体を起こしながら


「でも、それでも私は感謝しているですよ。ちゃんと」


 優しいフラブの言葉はアリマの弱さや心を理解しているようで踏み込んでこない。

 だからこそフラブの目を見れず地面を見つめて涙さえ流せないほど感情がぐちゃぐちゃになる。


 ──フラブがするのはいつだって『感謝』だからだ。

 あの戦闘の中、再会したときだって、アリマを嫌えど責めることは絶対にない。優しく責めたとしても和菓子を奢れなど明るい話で簡単に赦してくれる。


 それだけで弱い心のまま閉ざしてきた精神性は赦された気になってしまう。


「どうしたんですか? 和菓子を奢りたくなりましたか?」


 どれだけ自分が酷いことをしても謝ればフラブはその優しさで赦してしまう。

 それがわかっているからこそ──


「違う。違う……俺は……余は、フラブ君の膝枕が好きだ。強く逞しくありながら全て包み込んでくれる優しい腕が好きだ。余に優しくしてくれる目が、時に甘えてくれる声が大好きだ…………だから見てる。見てるんだ」


 また己を赦そうと正当化してしまう。

 ただその心は、また『余』という一人称を使って閉ざそうとしていた弱く脆い心だ。


 そんなアリマは心が弱くて他人を言葉で救えない単純な強さが人を辞めているだけの常人。

 それはまた誰よりもずっと『約束』という自己嫌悪に陥る呪いから救ってほしいと祈願しているからだ。


「……私も、膝枕されたいです。だから膝枕、して下さい。アリマさんが」


 優しく包み込む声は心のヒビ割れた箇所から入り込んでくる。そんな守らないといけない対象の愛らしい声は逞しく真剣に真正面から向き合ってくれる。


「私ね、アマネが好きなんです。何でだと思いますか?」


 急にアマネのことが好きと言う気持ちを告白すると怯えているアリマの頭を優しく撫でる。鞘を持たない右手で優しく撫でていたが、急にわしゃわしゃ乱暴に撫で始める。


「アマネが、190年間も私だけを愛してると想っていてくれたから。──でもそれに、190年も一途に愛してくれたアマネの気持ちに、優しくて重い愛に応えないとなんて義務は一切なかったんです」


 そうやって言い切る。シラ・フラブなら何度だって嘘はないから言い切れてしまう。


 ──そんな言葉を数としか受け取れず自分を責め立てる苦しさに加算されていく。

 もしフラブを愛することが出来たら、もしフラブを見ていることの証明がもっと簡単に、愛してると言えたら。


「知らない……余には、だって君に対して大好きだって言えたから。君に……大好きなんだって……」


「心の底からアマネが好きでした。アマネの誠実さも私と肩を揃えて戦ってくれる心の強さも」


 何もかもフラブがいう誠実さも心の強さもアリマにはないのだろうか。『約束』に縛られているうちは取るに足らない人間にしか成り得ないのだろうか。


「でもね。アリマさんのことも本当に大好きなんです。それは決して恋愛的な意味ではありません」


「────」


「確かに前に、『冷徹で頑固で自信家で、でも周りを見て適切に対処していたアリマさんを尊敬していた』そう言いましたよね。覚えてますか? あの喧嘩した日のことを。私の一方的にでしたが」


 急に乱暴に撫でる手を止めて乱れているアリマの髪を丁寧に整える。


 だがフラブに感謝されたり拒絶されたら内面だけはどうしても取り繕えない。

 『感謝』や『拒絶』が拒まれるならアリマはフラブに何を求めているのか。それすら騒がしく考えると一周まわって静かになって考えを拒んでしまう。

 だからこそ何も言えず苦しく震わせる瞳を開いたまま、鳴り響く鼓動の音だけを拾い上げていた。


「だから、膝枕が嫌なら、喧嘩しましょう。たくさん」


「…………ケンカ?」


 不意に出たアリマの疑問符にフラブは微笑みながら軽く頷いて優しく肯定する。


「口に出して言うんです。これが嫌とか、これが良いとか、たくさん」


 付け足すように包み込んでいくフラブはアリマの頬に軽く触れて綺麗な髪を掬う。

 ただアリマはゆっくり顔を上げて、呆然としたまま見開いた瞳で聖母のようなフラブを映し出した。


「私情を挟んだらダメ、なんて口喧嘩には全く関係ないでしょう? 今まで貯めてきた声を、閉ざしてきた言葉を、容赦なくぶつけてくださいよ。──この私に」


 アリマの頬に触れていた拳で己の胸をドンと叩いて表情が自信の写し鏡になっている。


 『喧嘩』という言葉をアリマはよく知らない。いや意味は知っているのだが、どこからが喧嘩でどこまでが文句なのか境目がわかっていなかった。

 

 というと常に陰で悪口を言われていて、対面すると憎まれ口を叩かれるのが日常茶飯事だったからだ。

 当然、フラブが横にいる場所でそんなことはなかったのだが居なければいつもこうだ。


 フラブの無鉄砲さに叱ることはあれど真正面から感情的になるまでの喧嘩なんてしたことがない。


「だが……」


「冷たく責め立てるんじゃない。思ってることをぶつけるんです。ね? やったことないでしょう? アリマさんは絶対。──優しいから、相手が必要以上に傷つかないよう嘘をついたり堪えたりする人ですからね」


 フラブはこんな弱いアリマさえも見捨てたりしない。

 悲しいときも苦しいときも話を聞いてくれて寄り添ってくれる人間なんだと。


「…………ミリエやコクツを見捨てたときだってずっと……俺はずっと言い聞かせていた。フラブ君の成長のための犠牲だって。だが……」


 吐き捨てる。いつもより感情的に、冷静さなども一緒に捨ててしまうほどに。ただそんな言葉を始めて聞いたフラブは優しい微笑みでそれすらも優しく包み込む。


「私の成長のため? そんな方法でもし私が強くなれたとしても……それはお父様に面と向かって言えることなんですか?」


 冷たく透き通る涼しいフラブの声に怖気づきそうに瞳を震わせるが、心の声を言葉にしなければ優しさに反すると踏みとどまった。


「だが本当は、あそこで見捨てなければ怖かったから見捨てた! 頼まれた御前試合で殺し屋が仲間になるなど偶然なんて思えなかったから!」


 次から次へと自分の弱いところを吐き捨てる言葉は全て己自身への怒りを添えていた。

 それは大人らしい立ち振る舞いなど気にせず、周りの目などはもう見えていない。眼中にあるのはフラブの透き通るような黒い瞳と涼しい声だけだった。


「そしてフラブ君の化け物が出来てくる条件を知れるのではと考えた! だから俺は化け物の条件と、フラブ君の成長を言い訳にしてたんだぞ!」


 早口で怒りをぶち撒けるも、フラブは眉を顰めることも憂いも悩ましげな表現をすることもない。


「それは自分への怒りでしょう?」


 ただただアリマの弱音を聞きたいがために、アリマの自責に寄り添いたいがために喧嘩を提案したからだ。

 見れば分かる。アリマが日に日に自分を追い詰めて苦しんで、もがいて、足掻いて、本音を堪えていることは。


「──アリマさんが弱虫さんなのは知ってますし、だからこそ用意周到になれることも知ってます。ですが鬼になんてならなくていいんです」


「……っ」


 弱さも強さも受け入れてくれる。涙のワケすらも聞かないで側にいてくれる。それだけでも、どれだけ傷ついた心が覆われるか。


「私にこうしてほしい、これはしないでほしい、なんて言葉をください。行動だって制限していいんです。もちろん今回のように私はそれを否定するときだってあります。そんなときはまた喧嘩です。ふふっ! アリマさんの怒りを独り占めできるなんて贅沢ですね、私」


 再びケンカについて説明をするフラブだが、こんな時でも笑って済ましてしまう。

 そんな笑顔がどれだけ眩しいか。否定も肯定もせず受け入れてくれる声が弱味に浸透してしく。


「フラブ君が大好き……なのか。よかった……」


 不意に溢れ出て安心した言葉。

 ちゃんとそれが証明してくれる。『約束』がなくともヨヤギ・アリマはきっと何度でもシラ・フラブを愛するだろうと。もしフラブの両親や兄が生きていて直ぐに関わることがなかろうと、きっと大好きになる。


 どんな自分でもどんなに化け物ほど強くても心が脆すぎても受け入れてくれると確信したから。


 ──否。最初からそれは確信まで至っていたはずだ。

 だからこそ踏み込むことに恐怖を覚えてフラブには弱音を思うように言えなくなっていた。


 弱音を言えば、過去を責め立てられるのでは。

 甘えてしまえば、親代わりとしての立場や尊厳がなくなるのでは。

 弱い自分も受け入れてくれるフラブは、いつか面倒がって自分の元から逃げてしまうのでは。


「私も大好きですよ、アリマさん」


 ──そんな懸念は全て無駄だった。

 どんなときも受け入れてそばで寄り添ってくれる確信していたにも関わらず、心の奥そこでは懸念していた全てに怯えていた。


 側にいて話を聞いて真剣に向き合って、何も言ってほしくないときは涙の理由さえも聞かずに側にいてくれる。



 それが『シラ・フラブ』という人間なのだから。


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