第十五話 呪詛返し
こちらの声がまるで届いていない。
二人はそのまま近くの交差点に差し掛かると、建物の角を曲がって姿が見えなくなってしまった。
「……ウソだろ、おい。俺一人で後片付けをしろってのか?」
想定外の展開にショックを隠せない天満の後方から、低い唸り声が上がる。
振り返って見ると、怪物は片足で地面を蹴る仕草をしながら、獲物に狙いを定める目でこちらを睨んでいた。
「いや、別に出来るっちゃ出来るけどさぁ……。俺、今日は貧乏くじを引きすぎじゃないか?」
踏んだり蹴ったりな己の不運を嘆く暇もなく、怪物は天満を目がけて再び突進してくる。坂上青年の顔をしたその獣は、鋭い牙を持つ大口を開けて天満の腹に喰らいついた。
「痛ッッ……だあああぁぁ———ッ!! くそぉ、あのマッシュ野郎! いつか覚えとけよ! 永久流・呪詛返し!!」
悲鳴まじりに吐き出されたその呪詛は、青い炎となって怪物の全身を焼き尽くす。
そうして呪いの断末魔は、生み出した張本人が不在のまま、ブリスベンの夜空にどこまでも響いていった。
◯
「……なるほど。それで今日はそんなに不機嫌なんですね」
スマホのスピーカー越しに、璃子の納得したような声が届く。
「不機嫌になるのも当然だろ。あのマッシュ野郎、俺の苦労も知らずに一人で心晴れやかになりやがって。俺だけが一日じゅう走り回ってたのが馬鹿みたいじゃないか」
「まあまあ。そのおかげでまた一人の血縁者が救われたわけです。お手柄ですね、天満さま」
いつになく優しげな璃子の声。おそらくはさっさと機嫌を直して電話を切ってほしいのだろう。
「あのな。今の俺のこの気持ちがわかるか? せっかく海外まで羽を伸ばしに来たっていうのに、今日はまだまともな食事にすらありつけてないんだぞ?」
「はいはい。よっぽど愚痴りかたったんですね。天満さまの方から終了報告の電話をかけてくるなんて、珍しいと思ったんですよ」
もはや面倒くさくなったらしい璃子は適当にあしらって通話を切ろうとする。
「おい、待てよ。まだ切るな。俺の怒りはまだ治まってない」
「残りはすべて日本に帰ってから報告書に書いてください。それと言っておきますけど、こちらに黙って勝手に日本を飛び出したこと、私はまだ許してませんからね」
そう言われてしまうと、天満も今度こそ何も言い返せなくなってしまう。
「ぐぅ……みんな冷たいよなぁ。俺だってけっこう頑張ってるのに……」
そう拗ねたように呟く天満に、璃子は小さく溜息を吐いて、それから困ったように苦笑する。
「まあ、でも。そうやって何だかんだ言いながら、結局は問題児を放っておけないところ、私は嫌いじゃないですよ」
そんなフォローを最後に入れつつ、「それでは」と璃子は通話を切った。
静かになったスマホを羽織の袂へ戻し、天満は改めて道の先を見つめる。
目の前には七色にライトアップされたヴィクトリア・ブリッジ。その奥には高層ビルが立ち並ぶブリスベンの街並みが見える。夜更け前にも関わらず煌々と照らし出されるその景色は、まるで街全体がテーマパークのようでもあった。
「ま、愚痴ってても仕方ないか。せっかくオーストラリアまで来たんだし、残りの時間はギリギリまで観光を楽しむとするかね」
己の不運をいくら嘆いたところで、永久家の呪いからは逃げられない。
心に渦巻く負の感情は、一歩間違えれば恐ろしい怪物を生み出し、己の身をも食い尽くしてしまう。
「こういう時こそ、気晴らしに観光だよねえ。オーストラリア名物・フィッシュ&チップスが食べられる店はまだ開いてるかなっと」
スマホで検索をかけながら、下駄の音を響かせて、天満はひとり夜の街へと消えていった。




