秘密のおまじない。
ある夜のことだった。わたしが眠りにつけずにいると、母が音を立てずにやってきた。なんとなく起きていてはいけないような気がして、急いで目を閉じた。
「今日も元気で、ありがとう」
うっすらと目を開けると、母は目を閉じ胸の前で手を合わせていた。それから手をほどくとわたしの頭に優しく触れた。わたしはそっと目を開けた。
「あら、珍しい。まだこんな時間まで起きていたの?」
「うん。お母さん何しに来たの?」
母はふふっと笑った。
「秘密のおまじないをかけに来たのよ。バレちゃったわね。」
「秘密のおまじない?」
「毎晩こっそりあなたの部屋へ来ているのよ。『今日も元気で、ありがとう』という呪文を唱えながらあなたに触れる。それが長生きできる、秘密のおまじないなの。」
「ふーん。おやすみなさい」
わたしはなんだか恥ずかしくなって、素っ気なく返事をした。母はおやすみ、と言うと部屋から去った。
次の日、わたしはいつもより早く目覚めた。今日は待ちに待ったあの日なのだ。父の運転する車に乗り込み、車で三十分ほどかけて目的地へと着いた。
「待っていてくれてありがとう」
手を出すと、子犬がこちらまで歩いてきた。そっと抱き上げると、その小さな身体が壊れてしまうのではないかと不安になったが、その次にじんわりと温かい気持ちが溢れてきた。
「最後にもう一度言っておくわ。人間より犬の寿命は短いの。それだけは忘れないでね」
わたしは頷いた。今日からこの子犬がわたしの弟になった。
その夜、子犬のスヤスヤと眠る顔を見て自然と笑みがこぼれた。とても温かな気持ちになったが、母の「犬は寿命が短い」という言葉を思い出し、心がずっしりと重くなった。母の言っていた長生きできるおまじないは本当に効果があるのか疑問に思った。だけど、それ以外の方法が思い浮かばなかったので、この子犬におまじないを実行しようと決めた。
「今日も元気で、ありがとう」
子犬の頭に触れると目を閉じたまま身体をぐーっと伸ばし、規則的な寝息を立てた。わたしは部屋に戻りベッドに寝転んだ。秘密のおまじないについて考えてみたが、呪文にしては普通の言葉のように感じた。アブラカタブラとか、ちちんぷいぷいの方が呪文っぽいし、長生きできる呪文なら「長生きしますように」の方が良いのではないか。そのうちに意識がふーっと遠ざかり、眠りについた。
次の日の朝、母はキッチンで朝食の準備をしていた。子犬がしっぽを振り近づいてきたのでおはよう、と簡単に挨拶を済ませた。
「ねぇお母さん。わたし昨日の夜、秘密のおまじないについて考えてみたの。呪文ならアブラカタブラとか、ちちんぷいぷいとか、意味の持たない言葉の方がそれっぽいなと思ったの。」
そうね、と母は受け流し、忙しなく動いていた。
「それは置いておくとして、長生きできるおまじないなのにどうして『今日も元気でありがとう』なの?『長生きできますように』の方が、長生きできそうな気がするのだけど。」
母は動きを止めた。しばらく間があったが母が返事を考えていると分かったので、わたしは待った。
「そうね。あなたの言っていることは分かるわ。でもね、この今を生かされている瞬間に感謝しなくちゃいけないの。だからお母さんは未来のことをお願いするよりも、今をありがとうという気持ちでいたい。目に見える存在から目に見えない存在、全てのものに感謝するとね、とってもたくさんのエネルギーが集まるのよ。」
「ちょっと難しいね。」
わたしは苦笑いをした。
「すべてのものに感謝することと、目の前の人を大切に思う気持ちがこのおまじないの基本なのよ。その心を持ってあなたが祈りを捧げ、その人に触れるとき、目には見えないけど力強いエネルギーで守られるのよ。」
全てを理解できたわけではないが、このおまじないには強いパワーがあるような気がしてきた。わたしは子犬に、秘密のおまじないを毎晩実行した。
時が経つのは早いもので、15年の月日が流れた。私の身体は大きくなったが、子犬はまだ小さいままだ。子犬は人間の年齢に例えると76歳になるらしいのだが、わたしにはまだまだ子犬のように思えている。心臓に病気が発覚し、一日のほとんどを寝て過ごすことが多くなったが、それでも今この瞬間を生きてくれている。今では秘密のおまじないの効果は十分にあると信じている。この15年の間に、大好きだった祖父が亡くなるという経験をした。それからというもの、ほとんど毎朝祖父のお墓へ挨拶に行くのが日課になった。
「じいじ、今日もみんな元気だよ、ありがとう」
元気で紳士だった祖父がこんなに早くこの世を去るとは信じられなかった。でも祖父の死のおかげで、この世の命あるもの全てに寿命があると学んだ。子犬だけでなく、家族も、自分自身にも。祖父が亡くなったときはとても悲しかったが、数年経つとその悲しみも薄れ、いつも心は繋がっている気さえしいる。きっと祖父は、目に見えない存在になってわたしたちを守ってくれているのだ。
いつもと変わらない一日を過ごし、わたしの家から明かりが消えた。そっと寝室を覗くと子犬と家族が川の字に並んでいた。しばらくその場に立ち、みんなが眠っていることを確認した。子犬に近づき、ふーっと一息吐いてから胸の前で手を合わせた。
「今日も元気で、ありがとう」
そっと子犬に触れた。それから、気づかれないよう家族の足元にもそっと触れた。
わたしは自分の部屋に戻り、一日が無事に終わった安堵感に包まれた。そっと目を閉じ、自分の胸に手を置いた。
「今日も元気で、ありがとう」
おしまい
お読みいただきありがとうございました。
自分の書いた小説を世に出すという作業が初めてで、右も左も分からないままの投稿になりました。
拙い文章ですがご教授いただけると嬉しいです。
感想よろしくお願いします。