序章
「いらっしゃいませ。」
清潔感あふれる笑顔、艶やかな黒髪は下で束ねお団子に、耳たぶにパールのピアスを付け、頭を上から糸で引っ張られているかのようにピンとした姿勢、ラグジュアリーな空間に溶け込む落ち着いた話し方、お辞儀をする彼女は『ホテリエ』である。
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「おはようございますー。」
朝10時、ホテル内に有するフレンチレストラン『フルール』で、いつも通りオープン時間に向けて準備をする社員たちに挨拶をしながら、円滑な業務遂行に必須なインカムを着ける。
(イヤホンは共有のため、アルコールで念入りに拭いてから。)
「まこちゃんおはー。」
受付カウンターから返ってきた声は社員の"高梨亜紀"(30)
フルールのアテンダー(受付)だ。綺麗に襟足を切り揃えられたショートカットが典型的な仕事のできる姉御肌感を醸し出している。
「亜紀さんおはようございます。すみません、2週間もお休みを頂いてしまって。」
「いいよいいよ、テスト期間だったんでしょ?学生の本分は勉強!これからも遠慮しないでね。いつも真面目に働いてくれて助かってるんだから。」
「ありがとうございます。私こそそう言っていただけて助かります。」
拝むように手を合わせお礼を言う。そう、私は学生アルバイトなのだ。ここ「ホテル サンビタリア」で19歳のときから働き始め、今では21歳、大学3年生である。同級生のほとんどがチェーン店のカフェや居酒屋、レストランで気楽にバイトする中、何故ホテル、しかもフレンチの受付というアルバイト種別少数派に属そうと思ったのか。
理由はただ一つ、ーちゃんとしたところでバイトしたかった。ー
有名ホテルならば街中の飲食店のようにアルバイトだけでお店を回す不可解な状況はないだろうし、友人のように「店長が嫌。」と愚痴をこぼしたくなるような従業員もいないだろうと考えたからだ。
何より福利厚生が充実している。ホテル館内のレストランなら50%OFF、提携してる他所のラグジュアリーホテルも20%OFFで利用できる。ホテル好きの私には堪らない特典だ。この制度を利用してホテル巡りを趣味にしている。
「まこちゃん、窓拭きお願い。ランチタイムに来たお子様がベタベタ触って凄い汚れてるのよ。」
素敵な福利厚生のことを考え、思わず口元が緩んでいた私は亜紀さんの声にはっとした。宝石箱をひっくり返したような夜景が広がる大きな窓に近づくと、下の方、子どもが届くほどの高さに、確かに小さな手形がホラー映画のごとく大量についていた。
ディナータイムまであと15分。そろそろお客様が来始める頃だ。早急に綺麗にしなければ。
窓を磨くスプレー布を使って怨念が込められていそうな手形を消していく。
「真琴くんおはよう。テストお疲れ様ー。単位取れそう?」
後ろから春の陽だまりのような優しい声が聞こえた。振り返ると
やくざ、違った、フルールのマネージャー"大倉学"(45)がいた。
鈍く光る銀縁眼鏡、そこから覗く蛇のように細い目、髪は…何をつけているのだろう、よくわからないが謎に艶めくオールバックだ。
その風貌から「インテリやくざ」と言われ、たまに従業員からいじられている。しかしその見た目とは裏腹に声と性格はとても穏やかで優しい。学生バイトが私しかいないこの職場で働きやすいように何かと気にかけてくれるし、今回みたいにテストなどがあればシフトも融通してくれる。私だけでなくみんなから慕われている人だ。
見た目と声のギャップには慣れないが。
「お疲れ様です。単位は大丈夫そうです。」
「そうか良かった。でも真琴くんが留年してくれたらもう1年バイトしてもらえるのになぁ。今年就活で来年には卒業でしょ。困ったなぁ。ね、うちに就職する気はないの??」
「考えなくもなかったんですけど…。もちろんここで働いたら楽しいとは思いますが…。」
「会社選び迷うよね。うちは大歓迎だからさ!候補にでもいれといてよ。」
はい、考えときます。そう応えようとしたとき、お店前にお客様が集まり始めた。
「よし、ちょっと早いけどオープンしますか。」
大倉さんが眼鏡の端をくいっと上げる。
今日も私のホテリエとしての仕事が始まる。