俳句しか出来ないような俳句バカになったらオシマイだ? 極私的俳句論 番外編
昨今、、俳句ブームだそうである?
テレビでは、ど素人の芸人やタレントのにわか俳人の、でたらめ?俳句を
プロ俳人が添削するというバラエティ番組が人気だという。
だがそもそも俳句とは何だろうか?
俳句とはそもそもが日蔭者文芸なのだ。
つまり文学界の離れ小島?だと言うことだ。
第二芸術であり
文学の本流ではない、
いわば高等遊芸的な言葉遊びの遊興の世界なのだ。
だって考えてもみてください。
たった17文字であなたの思いをどうすべて表現しきれますか?
はっきりって完全にムリでしょう。
小説のように1万字でも
10万字でもどうぞご自由に使ってあなたの思いを表現してください、
そういう世界ではないのですよ。
たった17文字。
それってそもそも無理でしょう、という、、そういう縛りの中で
どういうふうに言葉を操るか。
どう言葉を配列するか
そういう高等な、コトバ遊びですよ、俳句ってのは。
だからこういう第二芸術に入れ込む
というか最初からこういう「遊芸」に入ってそれしかできないってのは
いわば文学の日蔭者でしかないってことですよ。
まあ、あえてそういう日陰者文芸に身を投じる、、
という「究極の風流」「粋」「酔狂」「風狂」については後程述べますが、、、
さいしょっから、そういう俳句しかできないっていうのはカタワものなんですよ。
初めから、そういう俳句バカになったらある意味オシマイです。
俳句しかできない、、俳句のエライ宗匠先生になったらおしまいだ。
俳句以外の世界にも通じる豊富な知識が本当に良い俳句を生む原動力となるのに最初から俳句のみそれではまさに俳句バカですよね。
俳句とはそもそもがハグレもの文芸です。
文学界の日陰者?なんです。
そういうものをはじめからそれだけを目指す?って邪道ですよ。
結果?俳句だけしかできない?という
俳句で食っていくという宗匠になる。
俳句結社を主宰してまるで華道の家元みたいになって
弟子を何百人も抱えてその上納金で食ってゆく。
そういういわゆるプロ俳人になったらオシマイだ。
あるいは
全く健康そのもので、
育ちも氏素性も申し分なく、
肉体頑健、病院なんか行ったこともない?
性格は、明るくて明朗で 外交的、社交好き。
そのうえ、大金持ちで豪邸に住んでる。
車は外車を3台乗りこなしてる?
そういう人が
そもそも俳句などやるだろうか?
まあ まず やらないとは思うが、
余興で
お遊びでなら 万に一つは?
やるかも知れないが
でも、
本当は、、そういう人は
俳句なんかやっちゃいけないのだ。
というのは
俳句とは 俳句の本質とは、
そもそも
ハグレ者の文芸?だからなのだ、そもそも、
俳聖、芭蕉は伊賀の?下級武士でそれも辞めてしまって、その後は
放浪三昧の 一所不在の 何してるか誰も知らないような風狂人?
或いは巷でよく言われるように、
忍者だった?というような正体不明な人物だし
一茶などは、、まさに詐欺師まがいの破落戸だし、
近代俳句の創立者である、子規は肺病で寝た切りの廃人同様だし、
そしてその子規にうまく?取り入り?子規の後継者ですと
勝手にその業績をすべて自分のものにしてしまい
挙句、、、俳句という文芸をお花やお茶のような家元制度に悪用して?
ホトギスなどという俳句雑誌を創刊して、金儲け制度に転用した虚子など、、別の意味で?まさに破落戸な大悪党です。
虚子が確立した今に通じる近代~現代俳句とは、
俳句の宗匠制度、、 (えらい宗匠がいてその下に弟子(門人)がいるという、、。)
俳句の御家流・家元制度 (上納金を師匠に収めて弟子になる。段位の認定金を払う)
流派制度 (いわゆる「師系」という、その流派の俳句しか認めない)
徒弟制度 (だんだん段位が上がっていって、やがて
在籍年数で同人?巻頭俳句、、無審査、、、
いずれは「会主」になりその俳誌を受け継ぐ)
俳句結社制度 (俳句雑誌の発行による収入確保。食える俳句)
そういういわば俳句の商業化、、堕落化?の張本人が高浜虚子なのです。
私から言わせれば、いわば大犯罪者??(別の意味では大功労者)なのです。
俳句で食っていけるようにしたという点では、大功労者でしょうね。
虚子はそれまでのいわば、日陰者でしかなかった俳句をいわば表舞台の日の当たるものにしたということでもあるからです。家元制度を作り、流派とか、師匠とかそして俳句雑誌の発行による食える?俳句へ。
ハグレモノ俳句から、お体裁のいい「ミンナノ俳句」にした?ということでしょう。
それにしても、
俳句とは特異な文芸ですよね?
例えば、、
トルストイに師匠がいますか?
トルストイはその師匠の忠実な後継者(弟子)です、その師系なんです、
その師風を守り抜きます、なんて言いますか?
例えば小説家が
私は誰が「師匠」で、誰それの「俳風」の流れで忠実にそれを継承して、
誰それの「師系」です、伝統を守ります、、、なんてありえますか。
そもそも、、
文学はその人独自のオリジナリティーこそが命でしょう。
俳句はそれを真っ向から全否定。
師匠がいて
排風があり
師系の伝統維持、、、って
こりゃあ。もう文学じゃあないですよ。
伝統芸能
華道
茶道の世界ですよ。
俳句は文学じゃあありません。
俳句とは
特異な?というかまさにお花とか、伝統芸能、お茶の家元制度の世界です。
俳句を伝統芸能化した、、ということです。
本来の「文学」とは似て非なる世界なのです。
そもそも、忠実に流派を引き継ぐだけの伝統芸能と、独自性こそがいのちである文学は、全く相反する世界の筈です。
文学が、家元制度の伝統芸能でないことは言うまでもありません。
ということは?師匠の流派を忠実に継いでゆくような俳句というものは、、もはや文学ではないということなのです。、本当の文学とは独立独歩オリジナルだからです。師匠のマネだけするようなものは文学ではないからです。平然と?「私の師匠は誰で、、私はその忠実な後継者です」と名乗って恥じない俳句とは、いったい?なんでしょうか?
それではこんな「たとえばなし」をどうぞ
「ある俳句結社の師匠(宗匠)と弟子の会話」
師匠「きみ、いいかね、うちの流派ではこういう俳句は認めてないんだよ。
わが師系はね。あくまでもこういう俳風じゃあないんだよ」
弟子「お許し下さい。二度としませんから」
果たして?これが純粋な「文学」といえますかね?
普通の意味での「文学」ではないことだけは確かです。
俳句とは、、
「文学」ではなくて、、むしろ、、お花とか、お茶のような、日本舞踊や、能狂言のような伝統芸能により、近いものなのです。というか、、そのものです。
でも?
実は俳句ってそもそもはこうじゃなかったんです。
先ほども言いましたが
ハグレ者文芸だったのです。
世間から見捨てられて
完全にマイナーで
そういうのもののための最後の拠り所、それが俳句だったのです。
いろんな障害のために、文学の王道である小説も書けない
だから俺は俳句という「日陰者」文芸に命を懸ける、、という、、
そういうものが俳句の本来の姿だったです。
さて、、では本来の俳句であるべき独自性のある本物のハグレモノ的な俳人といえば、、
どういう人がいたでしょうか?
村上鬼城 春寒やぶつかり歩くめくら犬
種田山頭火 どうしようもない私が歩いている
尾崎放哉 咳をしてもひとり
石田波郷 雪は豊かに静かに疾し屍室
田上菊舎 よしあしに渡り行世や無一物
などがいますよね。彼らはみんなそれぞれ深い闇を抱えて生きたハグレ者俳人です。
ここでは彼らのそれぞれについてあえて述べませんので
(詳しくはググってお調べください)
商業主義に毒されず弟子も持たず?
ましてや、自分の俳句同人誌も発行せず、
自分の俳句結社も作らず、
孤高の俳句の境涯を貫いた真の風狂人です。
いわば、、食っていけない俳句?ですね。
これがそもそもの俳句の王道?なのです。
まあ、ざっくり言ってしまえばですよ。
俳句なんてのは
そもそも
大酒のみとか アウトローとか
放蕩者とか 落伍者とか
ならずものとか、、、 病気だとか 障害だとか、
人生の深い闇を心から知ってるものがやるべきものなんです。
東大でて医者やってて
金持ちで 超健康で、
社交的で、
ヒマで
外車乗り回して
そういう人がなんのはずみか?
よせばいいのに俳句なんか作って、
小器用にこざかしく、お体裁よく
作った俳句なんて
そんなもん
つまらんものなんです。
虚子門下の花鳥諷詠俳句にそういうのが多いですね?
まあ個人名を出しては失礼かもしれんが
ホトトギス門下の『婦人俳句会』の女流俳人なんて
私に言わせればどうでもいいような俳句でしょうね。
極論すればこのようなありきたりの生活日常雑詠俳句が
あたかも俳句の王道であるかのような誤解?を
俳句界に与えた罪は深いですね。(と私は思うのです)
さて、、、今、現代、
俳句雑誌を見ても、
今そこにあるのは
健康で暇を持て余している人が
まさに暇つぶしに、作ったであろう様な
『健康的な小器用な俳句』
しかありませんね?
でも、、そんなものはホントウノ俳句じゃあないのです。
あまりにも体が健康で
心も健康で、、、、、外交的で、金持ちで、外車乗り回して。
そういう人は俳句なんか作っちゃあいけないのです。
そういう人は
登山とか、水泳とかそういうスポーツ系でもしたほうがよいのです。
俳句はならずもので
放蕩者で 病気で、社交下手で
山頭火のような、生活破綻者で
しかも
深い心の闇を知っているものの
最後の逃げ場所?としての文芸なのです。、、、
つまり「ハグレもの文芸」なのです。
それが俳句なんでしょうね。
そう私は思いますよ。
なんせ 俳句の、俳は「ヒトニアラズ」と書きますからね (笑)
そもそも俳句とはなんでしょう?
それは高等な?言葉遊びです。
高等遊芸?といってもいいでしょうね。
なぜならば、、、そもそも、、、たった17文字でいったい何が表現できますか?
という根本的な大疑問が厳としてそこにはいつもあるからですよ。
それって?たった17文字で森羅万象を表現してみなさいって?
ムリでしょ?
それはつまりは
高等な言葉遊びですよね?
という素朴な疑問です。
ですから?
俳句とは
その本質は
①どれだけ言葉の貯蔵があるか、
ボキャブラリーが豊富かということと、
②その言葉をどう選び出すかという作業?
そしてその選びだされた言の葉を
③どう配列するかというテクニック?
その3要素に尽きるわけです。
これが
これこそが
俳句のからくり(たねあかし)なのですね。
俳句ってこれしかないのです。
この3つの作業をどれだけ
うまくこなせるか
うまく盛り上げられるか
うまくごまかせるか?
それだけと断言してもいいでしょう。
トリックを見破ってしまえば?
実に味気ないことですが
これだからこそ俳句の
高等遊芸であるという
秘密?が露呈するわけですよ。
これだから伝統芸能化して流派とか師系とかできるんです。
ま
これに付随して
放浪とか
病気療養とか
貧困などが
加味されれば
あなたももう
今日から
立派な俳人ですよ。
さっきの3要素はあくまでも
実作上のテクニック?ですから
当然、、、
それに伴って
実生活の
原体験も必須です。
詠うべき
読むべき
素材が皆無では
俳句自体も作れませんものね?
それが
放浪であり
病苦であり
貧困だというわけです。
そもそも
俳句なんてやくざ者の文芸?ですよ。
芭蕉は忍者?ともいわれる世をはばかる正体不明の影の者だったし
子規は寝たきりの病人だったし
山頭火は、酒と放浪と俳句をとったら何も残らないような人生破産者だったし、、、
みんな日陰者ばっかりですよ。
だから、、
健康でお金持ちでスポーツ好きなんて人はやらないんですよ。
というかやっちゃいけないんですよ。俳句なんかは。
誤解を恐れずに?極論するならば
俳句とは
人生破産者が
その鬱憤を
17文字という高等遊芸にあえて?身命をかけてまで?
吐露した?言葉遊びの極致?であるということですよ
本来は俳句なんていう価値ないものに?
入れ込む?
一身まで賭ける?
それこそまさに粋の?極みでしょう?
いかにも破落戸、、風狂の極みですよね。
これこそが俳句の王道なんですよ。
だから、、
健康的な体と健康的なお考えの人が
俳句なんか作ってもちっとも、面白くもなんともないんですよ。
つまらない俳句しかできないんですよ。
有名大学出て
医者とか
大学教授とかで
俳句の宗匠になってる人っていますよね。
こういう人の俳句は全くつまらないです。
できすぎていて
わざとらしくて
嫌味たっぷりで最悪ですよ。
やっぱり?
俳句って
貧乏で
病気で
世捨て人で
放浪していたような人のものが
面白い?んですよ。
これは短詩系であるということで
おのずと実生活が直に
投影されるというか
それしかないというか
それが俳句ですから
金持ちで
医者で
東大出で、、外車乗り回して。
そんな人の句は
なんの実生活上の裏付けもないので
浮いちゃって?
ハリボテのトラでしかないんですよ。
偽物
作り物でしかないんですよ。
面白くもなんともないんですよ。
まさに
こういう方の俳句新しいぶった?俳句(新興俳句?)はですね。
内容の深みもなくて、浮いたような言葉遊びそのものです。
技巧的で
わざとらしくて
ただ、意表をついて
絢爛な言葉で驚かして
でも?それだけです。
豪邸に住んでいて
たらふくうまいもん食っていて
愛人が5人もいて?
世にもうらやむセレブ職業?が本業で、、
そんな人が金と暇にあかせて
なんのはずみか?俳句を面白半分で作ってみても、、
いくら言葉の技巧凝らしすぎた句を
作ってみても、
耳目衆人を一時的には
驚かせて人気俳人?にはなるでしょうが
それだけです。
実体験がないので
浮いちゃっていて
時代の腐食作用には
耐えられないんです。
あっという間に忘れ去られて
おしまいですね。
だから、、
俳句って
しょせん
その人の身の丈の句しか作れないんですよね?
俳句はその俳人そのものの分身というか
だから
俳句って
破落戸者の、、、風狂者の、、無頼漢の、、、放浪者の
文芸だというんですよ。
放浪の俳人や
世捨て人の堂守の俳人や
剃髪した放浪の尼さん俳人や
そういうのはあり得ても
金持ち医者俳人とか
セレブ社長俳人とか、
大学教授俳人なんてのはそもそもがありえないんですよ。
そんなのは
ニセモノ俳人でしかないんですよ。
というかそんな人の作るハイクモドき?は
いやらしい虚飾と
わざとらしい粉飾に
満ち満ちていて嫌味でしかないんですよ。
そう思いませんか?
おまけ
老婆心ながら本当に「文学」をやりたいなら
最初から俳句なんかやっちゃだめですよ。
まずは、全力で、長編小説を書きなさい、全身全霊を込めてね。
小説こそが文学の王道ですからね。
だって俳句ってのは、力の抜けた?
脱力系の?
寝たきり老人でも作れる?
そういう遊芸的な?文芸ですよ。
放浪の果てに、野垂れ死に寸前でも作れる、それが俳句です。
そんなものに、これから、
文学でもやろうっていう有志の方が、はまってはダメです。
俳句なんてのは、、文学の王道をまずは全身で取り組んでから
そうしてその人が、年老いて寝たきりにでもなってから始めても十分なんですからね。
というかむしろ、そのほうが良いのです。
脱力系の?
とろーんとした?
まったり系の?
そういう力の抜け殻みたいなのが俳句では最高なのです。??
だって
そうでしょ?
あまりにもエネルギッシュな、ボディビルみたいな?パワフルな体育会系の俳句なんて
気味悪いだけですものね?
俳句とは?本来が草食系なんですよ。肉食系の俳句なんてありえないんですよ。
最期に行き着いた先が俳句で一向にかまわない
というかそのほうが良いということです。
最初から志すものなんかじゃやあないということです。
俳句なんて言うものはね。
そういう意味では
「天才少年俳人」なんて
気味悪いキマイラ?みたいなものでしかないということです。
少年ならほかにすることがいっぱいあるでしょう。
小学生が?俳句だって?
俳句なんかやってる場合じゃないですよ。
この俳句少年はバカなのか?
、、と思うのは、私だけでしょうか?
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