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スクルドは馬車の外に出て、覗き込んできていた蜘蛛を見やった。目は2つある。ブラッドサイス・スパイダーの特徴である赤い前脚。スクルドは自分とブラッドサイス・スパイダーを置いてウルフたちが馬車を追って行ったのを見て、目の前の子の蜘蛛を早々に叩き切って、子供たちの所へ行かなければと決意を固くした。
スクルドがレイピアを構えると、ブラッドサイス・スパイダーは威嚇体勢を取る。なんだかんだ糸を出すので剣士としては立ち回りがし辛い魔物であるブラッドサイス・スパイダーは、その体躯の大きさもさることながら、比較的暗所での行動に慣れているせいもあって、初心冒険者キラーとも呼ばれる。
ぎょろりとこちらを見る赤い瞳に、スクルドは地を蹴り切り掛かる。ブラッドサイス・スパイダーはスクルドの突進を赤い前脚で受け流し、スクルドの身体を撥ね上げる。スクルドは空中に氷で足場を作って体勢を立て直す。ブラッドサイス・スパイダーの赤い刃が飛んできた。
ブラッドサイス・スパイダーが腹の先をスクルドの方に突き出したのを見て、スクルドは距離を取った。びゅ、と糸が吐き出され、魔力で固定したはずの氷の足場が引き摺られて空間を離れる。これがあるからこの魔物は厄介なのだ。
フォレストウルフたちが追って行った子供たちの方を気にしてしまうのは、致し方ない。けれどここでブラッドサイス・スパイダーをスクルドが処理しなければ、護衛の数が極端に減っている子供たちを乗せた馬車は余計苦戦することになるだろう。
スクルドのドレスの裾が赤い刃に触れて切り裂かれる。スクルドは宙に氷を作り出し、ブラッドサイス・スパイダーにぶつけた。
「【アイシクル】」
ブラッドサイス・スパイダーがそれを赤い前脚で捌いていく。スクルドが息を吐く間もなく突撃した。魔術を続け様に放ちながら、レイピアでブラッドサイス・スパイダーの腕を掠めつつ胴に刺し傷を残していく。刺し傷から霜が降りて、ブラッドサイス・スパイダーの動きが鈍っていった。
ブラッドサイス・スパイダーのタフさに舌を巻きながら、スクルドは虚空から投げナイフを取り出し、魔術の氷の中に混ぜた。ブラッドサイス・スパイダーが明確にナイフだけを重点的に弾くために動いた。氷の刃がブラッドサイス・スパイダーの大きな腹を突き破る。ヨヨヨ、と耳慣れない声で鳴きながら、ブラッドサイス・スパイダーがふらついた。
「【グロウアイス】」
スクルドはすかさずブラッドサイス・スパイダーの腹に突き刺さっている氷を大きな氷に成長させる。ブラッドサイス・スパイダーの身体が崩れ落ちる。スクルドはぎょろりとした目玉を切り落とし、腹を凍り付かせて、踵を返した。
――どうか、無事でいて。
未来が見えないことも、アーノルドが誘い出されたかのような魔物の動きも、自分さえも誘い出されたのではないかという嫌な予感も。
狙われているのがロキであるという嫌にはっきりとした確信があって、スクルドはトップスピードで馬車が走ったであろう道を追った。フォレストウルフの匂いを追って行けば馬車につくことが予想できる。
スクルドはヒールをものともせずに駆けていく。せめて森を抜けていてくれたら良いと思いながら。
♢
時は少し遡る。
「副団長! フォレストウルフが追って来てます!」
獄炎騎士団の副団長であるアンドルフと、新米騎士であるラファエロという青年の2人がこの馬車の護衛だった。やられた、と思った。間違いない、この魔物たちは人間の意思で動いていて、狙いは恐らくアーノルドとスクルドを子供たちから引き離すことだった。
「いや、フォレストウルフだけではないな」
「別のが来てるんですか」
「ああ」
この気配は、虫系の魔物だと思うが、とアンドルフは独り言ちる。さっきまで並んでいたのが蜘蛛の魔物だったことを考えると、今並走してきているのは同じ蜘蛛系の魔物の可能性が高い。
「ラファエロ、馬車の屋根に上って魔物を減らせるか」
「はい!」
ラファエロは馬に乗っていなかったため御者席に居た。軽装の鎧は弓兵のもの。軽快に屋根へ上がり、虚空から弓を取り出し、魔力で矢を形成して、並走を狙うフォレストウルフを射抜く。
ギャンッと悲鳴を上げたフォレストウルフが取り残され、他のフォレストウルフを巻き込む。ラファエロはその間に他のフォレストウルフを射抜いて行った。フォレストウルフはウルフ系の魔物にしては持久力のある捕食者層であるため、人間が相対すると被害は免れない。一般的な馬ならそれにビビッて逃げ出したりコントロールを失うものなのだが、フォンブラウ家が抱える馬はそんなヤワなものではなかった。
先回りしていたらしい前方から飛び出してきたフォレストウルフの頭を蹄が踏み割る。馬車の車輪が骸を踏み散らす。中に乗っているはずの主人らの子供たちが心配だ。赤子の鳴き声が微かに聞こえるのは、中に乗っている戦闘メイドのサシャがどうにかあやしているのかもしれない。
せめてトールが爆音で泣いてくれたら何とかなるのだが、生憎とトール神の加護持ちはちょっとやそっとでは力を揮わないし、なんならまだ生まれたてということもあって暴走の危険すらあった。魔力も使えないはずの現状で、どうにかこの場で解決策足り得る人物など、初めからいないのだ。
アンドルフはアリアを置いてきたことを後悔した。アリアは間違いなくロキを守ろうとしただろうし、そんじょそこらの魔物のコントロールくらいなら奪えるくらいの力は持っていた。
フォレストウルフの数が減ってきたところで、ラファエロが声を上げる。
「副団長!! こいつ目が4つあります!!」
「シェロブか!」
振り返る余裕もない。ラファエロの言葉にアンドルフは追いかけてくる魔物を特定した。4つの瞳を持つのは、あまり視力がよくない蜘蛛系の魔物なのだが、シェロブは触れたものすべてを喰らうことで知られる暴食の魔物であり、見ることができるかどうかなんてどうでもよいのである。
「サシャ!」
「何でしょう」
窓から声を掛けると、サシャが答えた。
「追い付かれる! 迎え撃つぞ」
「承知しました」
アンドルフの傍に金色の炎を纏う少年と少女が現れる。
「イフリート、イフリータ、結界を」
『はーい』
『がんばるねー!』
馬車に赤い光が纏わされ、アンドルフはそれを確認して、ハルバードを取り出した。ラファエロがシェロブに弓を弾く。風を切る音がした。
「うわあ!」
ラファエロが悲鳴を上げる。シェロブが馬車を突き始めたのだ。アンドルフによって喚ばれた最上級火精霊であるイフリートとイフリータが張った火属性の結界すら物ともせず、馬車を前脚で突き回す。馬車が左右に揺れているのは、シェロブが車輪ではなく馬車本体を突いているせいだ。
――そう。とっくに追い付かれていた。
「くそ!」
アンドルフは初めてシェロブを振り返る。そして蒼褪めた。
――何でこんなものが追って来ている?
シェロブかこれ? といっそ冷静に疑問を抱いた。だって身体がそんなに大きくないのに、光を反射しない闇色の身体だ。シェロブはもっと赤っぽい蜘蛛らしい色をしているというのに。冷や汗がどっと噴き出る。鍛え抜かれた騎士を脅かすほど、追いかけてくる魔物は強かった。
『痛いっ!』
『きゃあ!』
イフリートとイフリータから悲鳴が上がる。アンドルフは自分の見通しすら甘かったことを理解する。この個体はきっとまだ、シェロブのままである。けれど、これはきっと。
「副団長! 魔法来ます!」
「サシャ、フレイ様、スカジ様、衝撃に備えて!」
ロキ、トール、こっち、と震えたフレイの声が聞こえた。ラファエロの言葉に違わず、馬車が宙に撥ね上げられ、アンドルフの身体も持って行かれる。慣性の法則に従って吹き飛んだアンドルフの身体と、弓兵故に軽く、吹き飛ぶ前に衝撃を受け流したラファエロの舞う身体。ラファエロは新米ではあるが、機転が利く。騎士然としていて身体の重いアンドルフと組むには、最適だった。
「このぉッ!」
【フレア】
物理的な鏃に魔術を乗せてシェロブに放つ。赤毛のラファエロが得意とする火を纏わせた矢は、シェロブの前脚で容易くかき消され叩き折られた。
「わっ!」
地面に降り立つ直前でシェロブに脚をひっかかれ、ラファエロは着地に失敗する。地面に叩きつけられた馬車。アンドルフがかろうじて撥ね上げられる前に切り離した馬たちはどこかへ行ってしまった。赤子の苦し気な泣き声。トールが泣いている。聡い子ばかりだから、現状がどれだけヤバい状況かもわかっているのだろう。
サシャは多分、叩きつけられてひしゃげた馬車の中だ。シェロブがラファエロではなく馬車を見ていることに気付いて、ラファエロは残り少なくなっている魔力をかき集めて魔術を組み立てる。
フォレストウルフが居ないことだけが、現状がまだましだと思える唯一の状況。
精霊に魔力を取られたアンドルフは気絶したのか、ピクリとも動かない。スクルドもアーノルドも先輩の騎士たちもいない。聞こえるのはシェロブのヨヨヨという不可思議な不協和音と上のきょうだいに口や鼻を押さえられてしまっているであろうトールの声――トールの声が止んだ。
(まずい)
色々とヤバい。表現がこれしか見つからない。シェロブの目を狙って攻撃していたが、叩き落とされてばかりで役に立たなかった。火が効かないならと風を混ぜる。消費魔力は膨れるが、何もせずにいるよりはまし。
ぴく、とラファエロは一瞬動きを止める。そして迅速に動き始めた。
風の魔力を練り上げて、ぎり、と弓を引き絞る。シェロブもラファエロの最後の攻撃と見てか両前脚を高く掲げた。
「余裕ぶっこいてんじゃねえぞ雌蜘蛛ッ!!」
平民特有の口汚い言葉でシェロブを罵って、ラファエロは矢を放った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
2021/05/31 加筆修正しました。
2022/06/26 改稿できてなかったです。大変申し訳ありません。