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2021/08/11 大幅に修正しました。
ロキが目を覚ましたのは倒れて1週間ほど経った頃だった。目を覚ました当時、家中が大騒ぎになったのは言うまでもない。前髪が煩わしくて、カチューシャで上げて対応をしていたら、アーノルドみたいとアリアには言われた。
「ロキ!」
「ロキねえさまああああああ」
最初に飛びついてきたのはフレイとトールで、スカジとスクルド、アーノルド、コレー、メティスときて、最後にプルトスが見舞いにやってきた。かわるがわる訪れる家族にロキは笑みを浮かべて言葉を交わしていたが、プルトス相手には固まった。
「――???」
「なんだよロキ、釣れないな。これでも一応異母兄だぞ、僕は」
まさか見舞いに来るとは思っておらず、とロキが言えば、プルトスは小さく息を吐いて、傍の椅子に腰かけた。少し居座るつもりらしいと分かったロキは余計驚く。
「馬鹿。1週間の間に何もなかったと思うのか」
「この1週間程度で変わるなら今までの数年間はなんだったのかと」
「うぐ……!」
痛い所を突かれたと言わんばかりの反応だ。まあ、ロキにもプルトスの言わんとすることはわかる。ロキが1週間も動けなくなったのは初めての事で、しかもそれまでで寝込んでいた時だって、プルトスの目の前でどうこうなったことは一切なかった。今回は原因が明らかにプルトスにあったことから反省を促す効果が得られただけだろう。
「まあ、いいんですよ。プルトス兄上が加護に振り回されているのは知っておりますし」
「……それについてなんだが」
プルトスとここまで長い時間同じ空間に居たこともほとんど無く、ロキは感情を大きく表す時以外プルトスに一人称を聞かせることもほとんどなかった。そも一人称は“私”ひとつで事足りていて、演技派だったロキの素顔をプルトスが知らなくてもおかしくは無いし、見せよう、知らせようともしてこなかったのだから、プルトスもまた興味を持つことも無かったと思われる。
けれど今ここにはプルトスとロキしかおらず、プルトスは居座っていた。ロキは正直あまりプルトスの前で令嬢としての態度を崩すのはよろしくないと思っている。一瞬一瞬ならば対応できる、抑え込める違和感は、プルトスを前にした瞬間ピークに達してしまって、また体調を崩しそうだ。もうこれはプルトスにいくつか質問をして、後から思い切り泣こう、とロキは思った。
ロキは今までプルトスに思ったことをガンガンぶつけていたので、プルトスからしたら、穏やかな兄弟の中でロキだけが噛みついてくる凶暴な妹だっただろうから。
プルトスに対する歯に物着せぬロキの物言いは、ロキ自身があまりよくないと思っているからこそ、こうしてロキは気を遣っている。せめて、理由なく不快にならないように。
プルトスがロキを気遣わしげに見ていたとしても、ロキは気が付かないのだ。自分のことでいっぱいになっているから、ではなくて。
そも、嫌われていると思っているからこそ、相手の機微に気付けない。
今までに男の口調で話したことが全くなかったわけではない。それでも精神と肉体の性別が噛み合っていないことを、プルトスにどうこう言われるのは嫌だった。きっとそんなことになったら、もう。
「――なあ、ロキ。お前、身体と精神の性別が合ってないんじゃないのか」
「……」
ロキは目を見開いた。そんな顔するってことは、そういう事なんだな、とプルトスは小さく呟く。ロキは身体を固くした。プルトスとロキの接触を避け続けた結末がこれなら、神とやらはとても残酷だ。
ふと、ロキの姿が、少年に見えて、プルトスは目を見張る。
「……プルトス兄上」
たっぷりと時間を空けてから、ロキが問う。それは漸く、ロキがプルトスをしっかり見た、ということの表れでもあり、今までロキがプルトスを見ていなかったことを示していて。
ロキがプルトスに何も問わないのは、ロキ自身が見たくない現実を突きつけられる可能性から逃げているからで。つまりここで口を開いたら最後、ロキの人生における大きな覚悟を決めなければならないということで。
「――間違っているのは、俺ですか?」
ロキの部屋に一層強く光が差し込む。逆光になったロキの顔。拙い問いかけを、プルトスは大事に胸に仕舞い込む。受け止めて、受け入れた。消え入りそうな弟を、この手でまず繋ぎ止めなければ。
「お前は、間違ってない」
プルトスはロキの手を握る。ロキは驚いたようだったが、プルトスには別の声が聞こえた。
――やめてくれプルトス兄上、あんたが穢れる。
聞き覚えのある声なのに、誰の声かわからない声だ。幻聴だ。この声の持ち主はまだ、プルトスの目の前には居ない。
「……穢れたりなんか、しないよ」
「?」
ロキには届かなかったその呟きは、何時かの彼へ。プルトスはロキの目を覗き込む。ラズベリルの瞳の中に、青い光がチラついた。
「ロキ、少し考えたんだけれど、僕はお前の身体がおかしいと思う。さっきから、僕の中ではお前の事、弟、だと思ってる」
「……プルトス兄上がそう言うなら、本当にそうなんでしょうね」
可笑しいことを言っている自覚は多分、ロキもプルトスにもあるのだ。プルトスの言葉ということは、恐らくだがまだ加護の判断が多分に含まれた回答のはずだ。生まれつきの身体が最初から狂っている、という判断に違いなく、それはつまり、ロキがどれだけ頑張ったところで無駄という事にも違いなく。
何より、ロキの精神が男である、ということを、肯定された気がして。
ぽろ、ぽろと大粒の涙が溢れる。
「ロキ!?」
「……ごめん、なさい。弟だと、言われたのが……安心、してしまって」
プルトスは突然泣き出したロキに驚いた。けれど、安心した、という言葉にもっと驚いた。だってそれはまるで、自分の精神を、否定されるのが当然だと思っていたということの表れで。その可能性を確かに唯一持っていたのがプルトスだったことは、プルトスにも分かる。フレイがロキに構い倒していたのも、もしかしてロキが家にいる間ずっと不安を抱えていたからだったとしたら?
(なんで……僕に否定されるのがそんなに怖いんだよ)
ロキから見ればプルトスは加護に振り回されている憐れな異母兄、であって、自分を否定していい人ではないはずで、今までの化け物呼ばわりであるとかプルトスを責める材料はいくらでもあるのに、責めるどころか認められて安心した、なんて。
絶対的な善悪の線引きを持つプルトス神の加護が悪と判断したものは、間違いなく世界にとって悪なのだ。プルトス神の加護持ちに、精神が男であることを否定されたら、それはすなわちロキの今の人格の否定になることに、この時のプルトスは思い至っていなかった。
「これって何か、症例があるんですかね」
「分からない。聞いたことはないけれど」
「元気になったら一緒に調べてくださいますか、プルトス兄上」
「わかった」
プルトスの言葉にロキは苦笑する。正直、この兄から自分についての肯定的な意見が返ってくること自体を期待していなかったものだから、嬉しいというか、面映ゆいというか。ロキのそんな表情を見て、プルトスは口元を緩めた。
「……ロキ、僕はお前が望む答えを出せたみたいだけど、なかなかやばいこと聞いて無かった?」
「ああ、俺の性別そのものが間違ってると言われたら、俺の精神が間違ってるのか、身体の性別が間違ってるのかって聞くことになってたでしょうね。俺の精神が間違ってたら、俺の存在そのものが悪ってことになります」
「ねえロキ、僕9歳だよ。弟の人生を背負わせないでくれるかな??」
「ははは」
「はははじゃないよ!! プルトス神の加護ってそんなに危なっかしいものだっけ!?」
「善悪の判断基準が絶対的ですからね。間違いを悪とするなら、俺の存在を許すことはできなかったはずです」
プルトスはロキの顔を見つめ返す。ロキが転生者で、自分たちより頭が回ることはわかっていたつもりだった。プルトスが思っている以上に、ロキはプルトスを大事に大事にしていたようだ。傷つけないように、苦しまなくて済むように、ロキがプルトスを避けたり、加護の事を批判しないようにしたりして、ロキ自身の存在否定をプルトスに口走らせないようにしていたのではないか。
プルトス自身、ロキの存在否定などしたら流石に気付いただろうなとは思うのだ。メティスだけでなく、フレイやスカジでも怒ったことだろう。ロキがうまく立ち回ってプルトスを守っていただけで、それによってロキ自身がずっとジリついていたと考えれば、ロキは本当に、愚かというか何と言うか。
「……ロキ、お前はもっと自分の身を守った方が良いよ」
「そうですか?」
プルトスは溜息を吐いた。ロキをちゃんと見ていたら、きっと今回のロキの1週間の寝こみも無かっただろう。今回ロキを傷付けたのは間違いなくプルトスで、ロキの半身が血を吹き出しながら斧槍に変じたことは事実で、ロキが晶獄病という難病を発症していることを知らされたプルトスがどれほど落ち込んだかなんて、ロキには知らせられない。ロキはきっと自分が悪いとか言い始める気がしたプルトスだった。
ロキの頭を少し撫でてやると、こうして触れるのは初めてですねと、赤子の頃から化け物と呼ばれ続けてきた妹が微笑んだ。
♢
「初めまして、ネイヴァス傭兵団第3部隊隊長デスカル・ブラックオニキスだ。よろしく」
「ネイヴァス傭兵団第3部隊副隊長アツシだ。よろしく」
ロキの体調が落ち着いた後、アーノルドが呼んだという傭兵と顔を合わせた。予定より少々遅れてしまったけれども、ロキの体調を優先しろと言われていたらしく、遠慮なく傭兵2人を客間に泊めていたようだ。
「フォンブラウ公爵アーノルドの子、ロキと申します。よろしくお願いいたします」
スクルドとアンリエッタが傭兵とロキの面会に立ち会う。ソファに沈んだ赤毛の女、デスカルと、木の椅子を所望した青い髪の男、アツシ。ロキは先に2人が上位者と呼ばれるものであることは聞いていた。
上位者とは、精霊の支配者。精霊の王のその上にある存在であり、神にも等しいエレメント。精霊と異なり、その属性以外の力も使うことができ、神と呼ぶ宗教派閥も存在している。
「んじゃ、アーノルドいないし早速本題に入ろうか。俺は面倒な話し合いは苦手だ」
「私も苦手です。ありがとうございます」
「いいって。人間のやり方はどうにも合わん」
一人称は俺だが体つきから明らかに女性であるデスカルは、踊り子らしい。狭い布面積の服ではあるが、上からジャケットだけ羽織っているのでそこまで扇情的には見えないのがなんとも。
「ではまず、アーノルドからの依頼内容だが、ロキ、お前さんの晶獄病をどうにかしようってことと、質問に答えることとを仰せつかってる。俺たちが来るまで、というか俺たちに会うまでに、お前さんの中で何かわからないことはあったか? 特にお前さん自身の体質について」
こちらのこと分かってるんじゃないか、とロキが思ったのは致し方ない。デスカルのペリドットの瞳が、こちらを見透かしてくるようで、精霊とは皆こうなのだろうかとロキは思った。
「……そうですね、私は自分で思ったよりも病弱だったようですが、どんな病を発症しているんでしょうか?」
「……晶獄病と浮草病だ」
デスカルから聞く病名は初めて聞くもので、ロキは自分の知識にはないその“浮草病”の方を気にした。
「浮草?」
「“浮草病”だ。前世の記憶を引き継いだがために起きる、転生先の世界に根付けなくて魂が消耗する病だ。……お前、自分で根っこ掘り出しちまってるのな」
デスカルが何のことを言っているのかがよく分からないが、ロキが今までに生きてきて何かやらかしているらしいということは察せられる。
「……私が自分で根っこを掘り出してるってどういうことですか」
「お前元々転生自覚なかったはずだもん。ダヌアがそんなとこしくじるはずがない。お前さん、外部要因で生まれがねじ曲がってるぞ」
この答えだけで、ロキはプルトスの言葉がやっぱり正しかったことを確信する。外部要因で生まれがねじ曲がっている、身体が間違っている。スクルドも何か理解したようにアンリエッタと顔を見合わせた。
「デスカル殿、この子が生まれた時の産婆が、最初性別を取り違えていたのだけれど」
「どこの産婆だい? この国? 西? それともイミットの国?」
「イミットね」
口を挟んできたスクルドをロキが見上げる。デスカルは少し考えて、口を開いた。
「猫、だな」
「シュレーディンガー?」
「そ」
デスカルの言葉にロキが反応できたというだけで、デスカルにはロキがひとまずどれくらいの学力レベルにあった者なのかが分かったようだ。姿勢を正してロキとスクルドに向き直る。
「ロキ、お前さん性自認は男だったな?」
「ええ」
「変化魔法だろうなぁ。ちゃんと見ときゃよかったな」
デスカルはまた少し考えて、ロキとスクルド、そしてアンリエッタを見る。
「ロキ、お前さんは間違いなく男だよ、本体は」
「プルトス兄上が、今の私の姿への違和感を、身体がおかしいのだと断定しましたよ」
「ああ、プルトス神の加護ちゃんと働いたか。ロキ神の加護とガッチャンコするからな、あれ」
アツシがロキをじっと見つめて、手を伸ばす。ロキはアツシの手に手を掴まれて、驚いた。金属のようにひんやりとしているのだ。
「どした、アツシ」
「魔力操作をさせないと、特性が死にそうだ。ちょっとオレにやらしてくれ」
「ロキ様の魔力を扱えるのですか?」
アツシの言葉に鋭くアンリエッタが反応する。アツシは小さく頷いた。
「属性は一通り扱えるし、同じ鍛冶関係だしな。封印ほぼ吹き飛んでるし、この子妖刀と神刀混じってるだろ。しかも特殊個体っぽいし、もっと大事に扱いなさいよ」
「ロキ様が特殊個体ですか!?」
「目に干渉色入ってるべ? ここまで綺麗なドラゴンブレスは初めて見るなあ」
「まあ! 上位者から見て宝飾品に見えるほどということは――!」
ロキは訳が分からなくなった。もっと人刃という種族について調べておくべきだったかもしれない。アンリエッタも興奮して話にならなくなり始めているし、と思っていたら、デスカルがロキをアツシの膝の上に乗せた。
「ロキ、アツシに魔力を循環させてもらいな。竜の坊や、じゃなかった、ドウラの封印が転身で壊れたんだ。今の君は魔力が駄々洩れ。質が高い魔力だからもったいないよ」
「あ。はい。もったいない以外に何か効果があるんですか?」
「湯屋の婆みたいに触らなくても物が動かせるようになります」
「やります」
俄然ロキはやる気が湧いて来たようだ。アンリエッタと喋りながらアツシがロキの魔力操作を手伝い始め、デスカルはスクルドと共にアーノルドへの報告資料の作成を始めた。