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2021/08/08 大幅に修正しました。
「父上! ロキは!?」
廊下を走り、父親に飛びつく少年の影。アーノルドは振り返る。
アーノルドが帰ってきたのは、メティスから指示を受けたガルーが早馬をとばして一刻後の事だった。アンリエッタがその場にいたので事なきを得たが、未だ予断を許さぬ状態にロキは置かれ続けている。
フレイが顔を出したことでアーノルドも多少冷静になったのか、小さく息を吐いて、フレイに向き直った。
「ロキは眠っている。ひとまず休んでいれば大丈夫だ」
「……本当ですか?」
「……ああ」
アーノルドの沈黙が、フレイを不安にさせる。フレイはロキの状態を悟ってしまったようだった。子供は大人の嘘を案外見抜いてしまうもので、特に、アーノルドもそうだが、この国の貴族は割と嘘が苦手だった。
「……ロキが起きたら、教えてください……」
「……わかった」
とぼとぼとフレイが部屋へ戻っていく。父親の邪魔になるだけだと、フレイは悟っていた。最も賢き神の加護を受けているだけあって、フレイは聡明だ。パニックに陥ってフリーズしてしまったスカジ、気を失ってから未だ目を覚まさないロキ、泣いていて手が付けられないトール、コレーに近付くなと騒ぎ始めて収拾がつかなくなったプルトス、気絶したコレー。大人がフレイのきょうだいたちに手間取っている間に、フレイだけが気持ちにある程度整理を付けてしまったようだ。
♢
大人たちが忙しなく動き回っているのをドア越しに聞きながら、フレイは1人、部屋の隅に蹲った。
――ロキが右半身から血飛沫を吹き出しながら、腕が伸びてあらぬ方向へ曲がり、斧へと硬質化した。
フレイの目には少なくともそう映っていて、ロキが悲鳴を上げることが無かったのは、ロキ自身がパニックになっていたからだと理解できたのは、少し落ち着いてからだった。
ロキは自分の異常に気付いてフレイたちから離れ、そしてああなった。
フレイはロキが倒れ、気を失う直前に、ロキと目が合った。微かに浮かべていたあの色は、多分悲しみだった気がする。フレイはロキが悲しむ理由が分からなかった。
ロキは今もまだ目を覚ましていないらしい。いつ目を覚ますのかもわからず、ただ、帰ってきたアーノルドの言葉だけが耳に残る。
――転身だなんて! 最後に転身できた世代から、もう5代も下っているんだぞ!
ロキのあの腕の斧化は転身と呼ぶらしい。それは悪い事なのだろうか?
フレイは落ち着くために自分の部屋にある書籍を調べ直してみたけれど、転身に関してはどこにも載っていなかった。
結局ロキはフレイたちが食事に呼ばれ、入浴を済ませ、眠って、起きてを3日分繰り返しても目を覚まさないままだった。
スクルドも帰ってきて、悲鳴が上がって、メルヴァーチ家の人間が呼ばれて、ゼオンがロキを診察して。大人にしか分からない話が沢山飛び交い、フレイはただロキの無事を祈る。
フレイが冷静になってから気付いたのは、ロキは自分たちに嫌われることを危惧したのではないかという事だった。フレイは勉強は手につかず、ロキの症状を抑えるためにアンリエッタとアーノルドの伝手をすべて使って魔術師を呼び、家の中は大人が忙しなく動き回っていた。
ロキが倒れた日の晩に傭兵2人組がやってきたのだが、彼らもアーノルドとアンリエッタの要請に応えてロキの症状の緩和のために動いているらしい。フレイは精霊に聞いて知った。
ロキは精霊が見えなかったから、治療は難航するだろうと、精霊は教えてくれる。フレイの脳裏に浮かんだのは、シェロブの前に出て行った妹の姿。たった数年の間に、フレイは2度目の、妹を失う恐怖と戦っていた。
世界樹があの子を死なせないから大丈夫、と精霊が言う。しかしフレイには世界樹などという伝説上の存在に縋ることができなかった。何もできない自分が何より恨めしく、すぐロキに駆け寄って、大丈夫だと言ってやることができなかったことが悔やまれる。ロキはきっとそれを何よりもあの瞬間欲していたのではないか。
プルトスはあの時怒っていた。健康体なフレイたちだけであればまだ良かったかもしれないが、あの場には朝から熱を出していたというコレーが居たことを、フレイは覚えている。プルトスは茶会で機嫌を悪くしたところに、嫌っているロキが出迎えに出てきたことで余計喧嘩の態勢に入っていただろう。そこにコレーが来て、ロキがコレーの傍に居ることに耐えられず、ロキに魔力をぶつけた可能性が高い。
その結果、ロキはああやって転身を引き起こし、現在まで目を覚ましていない。どちらが悪いかと言われれば、明らかにプルトスが悪いと皆は言うだろう。
けれど、ロキだけは、プルトスに謝る気がするのだ。
『出迎えに出てごめんなさい』と。
精神的には大人だと言っていたロキ。きっと、彼は、プルトスの暴挙を加護に振り回されたからだと言い繕ってプルトスを許すだろう。でももしそれで許されてしまったら、プルトスはそれこそ立つ瀬が無くなってしまう。アーノルドの中ではメティスよりもスクルドの方が優先順位が高いことをフレイは知っている。
フレイは自分の双子の兄にあたるプルトスと、妹であるロキがどちらも変わらないくらい自尊心が高いことを知っている。ロキに自身を抑え込ませたら、もう何も言ってくれなくなることも、プルトスがいつまでも加護に振り回されるだけの子供ではいられないことも、分かっていた。
蹲ったフレイの傍を、火の精霊が飛び回る。子供ながらに必死に頭を回しているフレイには、精霊を気にする余裕はなかった。
ロキは何も悪くない。プルトスがもっと頑張らなくちゃいけないはずなのに、どうしてロキが我慢してしまうのだろうか、と、フレイは思う。
フレイは立ち上がった。プルトスに話をしに行かなければ。
お前はこのままではだめだと、ちゃんと言ってやらなきゃ。
♢
プルトスは自室のベッドに潜っていた。
3日前に、プルトスはメティスに連れられて茶会に参加した。今まではプルトスの加護の力が強すぎるからと言って、家の中での練習に留まっていたのだが、王立学園への入学を控えたプルトスにはもう時間がなく、加護をどうにかする前に実践に入ることになった。
行きたくないと伝えたが、我儘は言っていられないわよとメティスには言われてしまったので行くことにしたのだ。そもそもフォンブラウ公爵家の人間である以上逃げられる問題ではない。それくらいはプルトスだってわかっている。
結果は散々だった。いや、プルトスが何かしくじったわけではないし、加護に振り回されて周りに手を挙げることも、声を荒上げることも無かった。何より、メティスが本当は茶会が好きであることも見せつけられた。プルトスは自分が嫌だからと母の楽しみを奪うのは気が引けたのだ。今までもずっとプルトスのために気を張っていてくれた母に、これ以上の迷惑を掛けたくないとは、常々思っていた。
何が酷かったかというと、プルトス自身が自分の価値観に合わないものを受け止めることが、とても苦痛だったのだ。プルトスは、誰かの悪口も、媚びを売る態度も嫌いだった。上手く煽っておだてて自分たちの都合の良い人形にしてやろうという魂胆が見え透いた大人の言葉も、さりげなく混じるフレイを貶める言葉も、プルトスにとっては等しく“悪”だった。
プルトスは別にフレイが継嗣なのはそれでいいと思っているし、水しか扱えない自分がフォンブラウの火炎公爵など継げないことは分かっているのだから、何故長男であることを理由にプルトスを公爵家の継嗣のように言うのかが理解できなかった。何でこの程度の事も分からないのか。
誇らしく思っている異母弟を蔑む言葉に耐えた後は、家に帰宅した。ピリピリしていたことは認めよう。朝からコレーは体調が悪かったから茶会に行きたくなかったけれど我慢して茶会に参加したし、茶会でプルトスよりも優れているフレイの事を蔑む言葉にめちゃくちゃに言い返すことだって我慢した。
なのに帰ってきたら、そんな大事なフレイの傍に、魔力が膨れ上がった化け物が居たのだ。今にも近くにいるフレイやその妹弟を傷付けそうな魔力に驚いて、威嚇した。
コレーが出迎えてくれる。ああ、早くあの化け物を排除しなければ。そこにお前が居るのはいけないことだ。
魔力をぶつけた結果、弾かれるようにフレイたちの傍からその化け物は離れた。ああよかった、と思うと同時に、あれ、と、違和感を覚える。
ロキ様、と化け物を呼ぶアンリエッタ。へたり込んだ化け物に手を貸そうとするガルー。駄目だ、それに触ったら皆が穢れる!!
プルトスは確かにそう思ったのだ。結果、茶会に参加して上機嫌だったメティスから引っ叩かれた。どうして叩かれたのか理解できずフリーズしたプルトスに、メティスはあの化け物がプルトスの妹であると言った。ありえないと、あんな妹は知らないと言えば、叱られた。どうして。
でもプルトスがこうして、布団を被って沈んでいるのは、その一番の原因は。
――化け物に魔力を叩きつけたことを悟ったフレイの、絶望した顔。
コレーが気絶したことより、トールが泣き出した事より、スカジが呆然としてしまったことより、ホールが血に塗れたことより、フレイの表情の方が、プルトスに現実を突きつけた。
冷静になったプルトスが血に濡れたアンリエッタと抱えられている化け物を見やると、そこに居るのはプルトスに見えていた化け物ではなく、恐らくこの家で一番大事にされているであろう銀髪の妹だった。いつもは厭味ったらしい言い方ばかりしてくるはずのその口が、今日は何も言わなかったことが気になって、アンリエッタを見やると、何か叫んでいた。病気? 発作? どういうこと?
(ああ、何でも分かっている気になって、本当は現実を認識できていなかったんじゃないだろうか)
プルトスの頭に、そんなことが浮かんだ。
今の今まで、プルトスを子供扱いする人など居なかった。正しくは、たった10歳の子供として扱われることは少なかった。
加護持ち故に大人の目線に近い所で物事を理解するものだから、皆の感覚が合わなかったのかもしれない。少なくともプルトスに分かる物事の言い方をして、プルトスに分かるように言葉を投げつけて来ていたのが、プルトスが嫌っていたロキだったことに、今気付いた。
プルトスは、ロキに何かしてやるべきなのかな、と考える。何かしてやる以前に普通に接してやれとメティスからは言われるかもしれないが、プルトスはまだそこまで考えは回っていないようだ。
ふと、ドアがノックされた。魔力の色を見て、フレイだと気付いたプルトス。フレイは許可を得ずに部屋に入り込んできた。
「プルトス、話せるか」
「……」
フレイがこんな事をするなんて初めての事で、プルトスはベッドから体を起こした。フレイは近くの丸椅子を寄せて座る。
フレイの真剣な表情に、プルトスは、彼がロキの味方をしようとしていることを悟った。とうとう双子の弟すらプルトスの傍を離れていくのだ。唇を噛む。
「プルトス。お前には、ロキはどう見えていたんだ?」
「――へ?」
いきなり糾弾されると思っていたプルトスにとって、フレイの言葉は不意を突くもので。しばし思考は停まり、その後頭を回し始めて、フレイの問いに答える。
「……靄の掛かった、赤い眼の何か、だ。人の形をしてはいるけれど。身体の何処かが武器の形になったりしていて」
「それで化け物って呼んでたのか」
「人間は武器の形になったりしないだろう!」
プルトスは言ってからしまった、というような表情をした。アンリエッタは半身を武器に変じたロキの状態を理解していた、つまり説明が付く何らかの理由をロキは抱えていたということで。
メティスが、同じ血がプルトスにも流れていると言っていた。つまり、父親であるアーノルドの血統がそういう血筋である可能性が高い。フレイの方を見ると、フレイはプルトスに苦笑を向けた。知っているのだ、知っていたのだと理解するのに時間はかからなかった。
「……父上って、なんて種族なんだ?」
「人刃というらしいよ。かつては武器の姿に変じる魔物だったらしい」
魔物出身の種族は多いが、プルトスはその自覚がなかったのだ。フレイは知っていただけで。ロキは特に魔物の血が強く出ているのだろう、と理解したプルトスが口を開いた。
「フレイ、もしかして、ロキは魔物の血が」
「かなり濃く出ている個体だろうね」
転生者だからそこが打ち消されているだけで、魔物の血が濃ゆく出ていて、加護持ちで、神子って、それだけで、生きてるのもかなり辛いと思うよ。
フレイの言葉に、プルトスは瞑目した。転生者の成熟しかけの精神力で、全部抑え込んだと、フレイは言っている。プルトスの態度も、ロキが我慢することの一つだったのだろう。
流石に理解できる範疇の話になってきて、プルトスは自分の頭の整理を始めた。そしてふと、気が付いた。
「……え、フレイ? ロキって転生者で僕らより精神的には年上だったりするの???」
「……え、プルトス知らなかったのか???」
「誰も教えてくれなかったんだけど???」
「……」
周りがいかにプルトスとロキの接触を断っていたかが伺えるところだ。転生者であるということは聞いたことがある、程度のプルトスの認識に、フレイが愕然とする番だった。いや、何となく、事情は分かるのだ。プルトスはロキが倒れてメティスから打たれるまで、本当にロキを毛嫌いしていた。
「……皆、プルトスがロキを嫌っているから、ロキをプルトスから遠ざけようとしたんだろうな」
「……何で?」
「プルトスはずっとロキの事を指差してあれだのこれだのそれだの化け物だの言ってたからなあ」
「……」
プルトスはベッドに倒れ込んだ。フレイの言葉を聞いて、記憶を辿って、漸くロキに対する自分の言葉がとんでもない刃物にしかなっていなかったことに気が付いた。目元を腕で押さえて、悔しい、と小さく呟く。
「……ロキに、せめて謝らなくては」
「そうだな」
「今、あの子は部屋に?」
「ああ」
プルトスが身体を起こし直して、ベッドを降りようとする。フレイはプルトスが今からロキの所へ行こうとしていることに気が付いて、何てこと無い様に事実を述べた。
「プルトス、ロキなら今はまだ会えないよ」
「! 何で?」
「ロキはまだ目覚めていないよ」
「へ」
少し間の抜けた声が出た。フレイの言葉を理解するのに少し時間がかかったプルトスは、考えて、分かって、理解して、蒼褪める。
「まだ目覚めていないだって!? 重症じゃないかっ……!!」
「いや、加護持ちの魔力なんてぶつけられたらそうなるだろう。ロキは光属性に弱いらしい。プルトス神は光属性を持っていただろ?」
フレイはまだ知らないことなのだが、プルトスの魔力に中てられた後遺症と呼ぶべき火傷がロキの肌に残っている。ロキがその傷をこの兄たちに見せることは今後ほとんどないのだが、プルトスの方がロキのダメージを正しく理解した。
「どうすれば良いんだよ! このまま目覚めない可能性だって……!」
「アンリエッタ先生と上位者の傭兵が頑張ってるって聞いているよ。専門家に任せた方が良い」
フレイは少し落ち着いていた。プルトスの所に来たからだろうが。
「俺はただ、お前に、今のままじゃダメだって、言いに来ただけなんだ。もう、分かっているみたいだけれど」
ロキは目覚めていなくても、当然のように時間は過ぎ去っていく。プルトスの部屋にフレイの侍女とプルトスの従者が夕食の支度ができたことを知らせに来た。
ロキが目を覚ましたのは、この日からさらに4日経過してからだった。