第七話
序章終了。次から第一章です。
八月二三日午前八時四三分
日本国 新東京都
大統領官邸 大統領執務室
「さて国会審議はもう五日目だ……」
「はい」
椅子に深く腰掛けている前島大統領の呟きに秘書官は単純な言葉で返す。その声は単なる確認のためであり自分の主人は答えを今のところ望んでいないことを内務大臣時代の付き合いからよく分かっていた。
「ここが正念場だな。そう思うだろ?」
自分は問いかけられていることを悟った秘書官は深く頷く。頭の中で浮かび上がっていた言葉をそのまま口にする。
「大統領閣下の言う通りです。今日は物資統制法案の採決日ですからね」
前島大統領は薄く笑って頷く。その微笑みには疲労の色が見えた。
「そうだ。この事態に素早く対応できるかできないのかこの日にかかっている。様子はどうなっている?」
「野党は徹底抗戦の意思を崩さず、各地で大規模な抗議デモが行われる予定のようです」
「国民の世論は相変わらず統制や戦闘に対する警戒は根強いのか?」
「シーサーペントとブルーハピネス号の一件で多少は賛成に傾きましたが相変わらず平和な頃に対する執着が根強いです」
やれやれとため息を前島大統領はつく。心の底から平和であることにしがみついている国民と彼らの世論を背景にして政権の足を引っ張ろうとしている野党に対し呆れているように見えた。
「困ったものだ。平和だった頃は一週間前に終わってしまったのだが……」
「統一から約一〇年。その年月がかつて当たり前であった戦争状態であるが戦闘は起きていない、いつ燃え上がるか分からない日々がいかに異常であったことを気づかせるのには十分でした。今の国民の大多数は一次大戦後のフランス人と同じ心理状態です」
第一次列島戦役に至るまでの間、西日本と東日本の境界線で睨み合い、裏では激しい諜報戦や工作戦を繰り広げた。その戦役後も戦闘はなかったものの戦争状態であったために互いに不信と憎悪を抱きながらの睨み合いは続き、『東日本潜水艦漂流事件』と『大統領官邸襲撃未遂事件』と『西東緊張』を経て『第二次列島戦役』で頂点に達し『第三次列島戦役』で終息した。
世界はそうではなく国内でももめ事は多かったが、統一以前と比べるといつ戦争になるかという緊張はなく若者がある一定の期間兵士となる必要はなくなった。やっと平和と呼べるときがきた。国民のなかで平和が極めて稀であった時代を知っているものが統制など戦争機械であった頃の祖国を今思えば悪夢であったかつての日々に忌避するのは当然のことであった。そういう連中が、第二次日米同盟と交戦権の放棄や軍縮の実行を主張する一部の野党に同調し根強い支持層になっている。
「平和だと思えば平和ということだな。嘆かわしい。まあ私自身もそうだったからな、馬鹿にすることはできん」
「返す返す痛かったですね。天候不順による大凶作の可能性があるとイロコイニア帝國からは食糧の輸出量の増加は不可能だということやもしかすると国内もそうなる可能性が浮上したことは……」
日本の穀物地帯である東北地方と北海道では転移してから空が雲に覆われることが多くなり日照量が激減したようだ。それに加えてイロコイニア帝國から届けられた例年にない異常気象が各地で多発しているという不吉な情報。もし豪雨や台風などの災害に襲われれば凶作になる可能性が出てきた。ここは異世界。何が起きるか分からない。たださえ、ゴタゴタしている国内状況やリン・カリ鉱石の一件で精一杯なのに関わらず。
「それらでなおさら逼迫することになった。できるだけ早く統制に置かなければまずいことになるしアメリカに付け入る隙を与えることになるぞ。何とかしなければ」
追い詰められているせいか鬼気迫る表情を浮かべる前島大統領に、秘書官は一歩後ずさりしそうになる。その表情に何の言葉をかければいいのか分からくなってしまった。
「大統領、もうそろそろ議場にお越し下さい」
「分かった」
外から聞こえてきた声に、前島大統領はいつも通りの表情に変わり力強く立ち上がって歩き始めた。
「よし、戦場に行くか」
国会に出席するときにはいつも言っている台詞には一切の異常はなく。いつもの調子に戻ったと秘書官はホッと安堵した。ただ、国会に向かう道中で外を見つめながら小さな声で呟いていた『箱庭……』という言葉がなぜか気になった。
◇
九時〇六分
日本国 紀伊半島付近の海域
沿岸戦闘艦『すずらん』甲板上
呉基地から出港した呉地方隊に所属している三隻の軍艦が和歌山にある日本最大の半島である紀伊半島和歌山沿岸部を航行していた。
沿岸戦闘艦『すずらん』、フリゲート艦『まつ』『たけ』。課せられた任務は所轄の沿岸部の哨戒であり異世界の怪物が潜んでいないかを探り確認された場合は駆除し漁場を保護し漁業従事者に危機が及ばなくするための予防を目的としていた。
雲など何も遮るものがない大空。強い日差しが海面と艦に降り注ぐ。その光が『すずらん』と花の名が冠せられた沿岸戦闘艦のステルス性を重視した特徴的な艦形を目立たせていた。
『ききょう』型沿岸戦闘艦。この艦は米海軍の“野心作”であったフリーダム級やインディペンデンス級と似た存在だ。第二次列島戦役時、青森沿岸から侵入した東日本の工作員が大々的に行った破壊工作に煮え湯を呑まされ掃討に苦労したのを契機に、東日本や朝鮮国の潜水艦や潜水艇の察知と排除、それらがばら撒いた機雷の掃討、潜入工作員やフロッグマンの侵入を水際で阻止するのを目的として、『はつはる』型駆逐艦並みの対潜に特化し沿海域での戦闘を想定して設計された。
余談だがこの開発においてアメリカからの支援を一切受けずアメリカ由来のこの戦闘艦を西日本独自で開発された。ミニフリゲート艦とも呼べるこの艦はF-1とA-1から始まった国産兵器の系譜の最先端の一つに位置するものであった。また、兵装には様々な新要素を潤沢に取り入れられており試験艦の要素も兼ね備えていた。
対潜戦用の兵装をした『すずらん』は搭載しているセンサーと飛行中、潜水中の無人兵器、さらに些細な異常でも見逃さないように人の目を使って目を光らせていた。
「異常はないか?」
「はっ、海面は静かなものです」
「分かった。シーサーペントのこともある。ここの海はどうやら地球と違って安全ではないようだ。完全に把握するまでは極度に警戒して越したことはないからな」
シーサーペントやドラゴンの存在は海洋には地球では伝説や未確認生物とされていた生物たちが生息している可能性が高いことを示していた。奴らには排他的経済水域や領海の認識はない。今のところは起きてはいないが人間とその生物とトラブルを起こすのは確実だろう。そうと言って奴らを恐れて被害が出るからと言って漁師たちに自分たちの生業を廃業しろと言えない。どう対処するべきか、国防海軍と海上警備隊など海域の安全を保障する責任がある部署は頭を抱えさせていた。
「しかし、こう警戒し過ぎると気が張りすぎて頭が痛くなりそうですよ」
「そう言うな。交代まであと少しだ、頑張れ」
「了解……」
すると、双眼鏡を目に当てていた見張員の顔色が変わった。
「海面に異常あり!! 何かが泳いでいます。数は一〇〇以上……数え切れません」
「何だと……本当だ」
海面には何かがあった。よく見ると双眸だ。しばらくするとカエルやサンショウウオのような顔をした生物が海面から顔を出し浮いていた。相当な規模で『すずらん』を見つめていた。しかもその数は徐々に増えていく。その集団のなかには人間のような姿もいたものの、大半はどこかの神話生物に似た姿をしていた。この光景は『すずらん』乗組員たちを戦慄させ精神を摩耗させた。
「何と!!」
人が乗れる位の大きさのある魚に乗る一人の男性が驚きの声を漏らす。彼の名はエレム。海に住み定住はせず海流に乗って移動する遊牧民のような生活形式をしているヒト種――トゥルシア人だ。
彼らは大陸とアパライア大陸に住む者たちからは海の民と呼ばれ、地球の歴史で例えるならば匈奴やフン族の如く恐れられている海を住処としている複数の種族からなる集団に属している。
大陸沿岸に侵攻するべく、偵察隊の指揮官としてトゥルシア人海騎兵一二〇人と奉仕種族で水中生活に適応するために得た醜い姿が特徴のシェケレシュ族潜水兵四五〇匹を従えこの海域にいた。
そこで突如見たことのない陸地と海に浮かぶ物体を発見して困惑していた。
「こんな位置に陸地はあったか?」
「いえ。前にここに来たことがあるものからはなかったと聞いております」
副官も困惑していた。部下たちも動揺している。シェケレシュ族共は自分たちには理解できない声で語り合っていた。
「現れたということか、実に奇妙な」
「あれは何でしょうか?」
「大きな船だな。イロコイニアや尖り耳のものではないな。木製には見えないな」
その船はイロコイニア――陸人や尖り耳――エルフ族が作り保有している船よりも長く大きかった。船の色も違う。見たことのない色をしていた。自分の常識が及ばない姿に強い警戒心が湧き上がる。
「もしや鉄の船では?」
「まさか。我々の先祖が戻ってきたといいたいのですか?」
「そんなことを言っておりません。“古きひと”は単なるおとぎ話です。もしいたとしても捨てた故郷に今さら戻ってきませんよ」
元は別世界の住人であった陸人より前にこの世界に生息していた、生命を作るなど神に等しい力を持っていた古きひとならばこんな船を難なく作れるかもしれない。まだこの船の正体が分からないので断言することはできなかったが。
「いかがなさいます?」
「放っておけん。シェケレシュで針路を塞いで半包囲しろ。あと本隊に連絡しろ」
「分かりました」
包囲の指示が角笛から発せられる音によって全体に伝えられる。最初に動いたのは海騎兵で次にリーダー格のシェケレシュ族の指示により動き始めた。
「それと兵士どもの手綱をしっかり握っておけ。得体の知れない連中だ、こちらから戦端を開けば何をするか分からん」
部下に厳しく命じたエレムは船を見つめながら緊張したかのような声を密かに漏らす。
「さて……どうなるだろうな?」
日本が転移してから一週間が経った。だいぶ時間が経ったのに関わらずこの国は未だに混乱のさなかにありどの進路で進めばいいのか決めかねていた。そんな日本の都合も考えずに、地球という箱庭でしか通用しないルールなど知らぬと言わんばかりに、統一したルールがなく流れた血はまだ乾かぬ過酷なこの新世界は戦乱や試練を列島の後継者にもたらすのであった。