第四話
八月一九日午前一〇時二七分
津軽海峡上空
『ブルーハピネス』付近の空域で飛行していた一機の二式水上戦闘機。
水上観測機が敵機を撃墜するなど意外な活躍を見せたことで実行されていた本格的な水上戦闘機の開発が難航したことにより中継ぎ役として零戦一一型をベースにして設計され実戦では船団護衛や基地防空などそれなりに活躍したこの水上戦闘機のコックピットにて、両手は操縦桿とスロットルを握り両足はフットレバーの上に乗って操縦している水原昇飛曹長は困惑していた。
「何だ……ここはどこだ? 一体どうなっているんだ?」
彼は所有をめぐって激戦が繰り広げられているガダルカナル島に向かう部隊の上空護衛のため水上機母艦『千代田』から離陸し部隊上空を飛行していた。しばらくして軽く眩暈がした後に部隊を見失って空と海の色が変わっていることに気づいた。視界の片隅に捉えていたソロモン諸島の姿が消え辺り一面海であった。
訳も分からず周囲を見渡してみると、ある光景が目に入る。羽の生えたトカゲが飛行していたのだ。我が目を水原飛曹長は疑った。西洋のおとぎ話に登場するドラゴンそのものなのだからだ。頬を強くつねってみる。痛い。どうやら白昼夢ではなく現実のことのようだ。
「どうなっているんだよ。訳も分かんねぇ」
理解の範囲外にある状況におかしくなりそうだ。考えれば考える程に頭に熱が籠っていくような感覚を得てしまう。考えるのはあまり得意ではなかったからなと意味不明なことを内心で呟く。
「うん!?」
無意識に視線を合わせていたドラゴンの動きが変化した。
左に旋回し降下を開始。向かう先は一隻の船舶であった。この船を襲撃するつもりのように見えた。その姿に、B-17重爆撃機が輸送船に攻撃され轟沈されてしまう彼にとって苦い過去の情景がフラッシュバックする。守りきれなかった後悔と思い出させた元凶に対する怒りなど様々な感情が渡来し歯ぎしりをした。
「ここはどこだが知らねえが……」
エンジン・スロットルを全開にした。栄エンジンが今まで以上の唸り声を出す。そして降下を開始する。位置エネルギーが速度に変化していき機体の速度はみるみるうちに速くなっていった。
「癪に触ることをしたんだ、生きて帰れると思うな!!」
水原飛曹長は忘れようとしていた努力を無駄にさせたドラゴンに対して怒りをぶつける。頭に血がのぼってこいつを撃墜することしか頭になかった。
視界一杯となったドラゴンに向けて機銃を発射した。二〇ミリ弾と七.七ミリ弾の火箭がシャワーのように殺到する。だが感づいたのかドラゴンは素早く上昇を行い火箭は空を切った。発砲を中止し反射的にバックミラーを確認すると――姿を消したドラゴンがいた。予想通り後ろに周りこまれたようだ。
頭にのぼっていた血が下がり始めた。急速に。
「くそったれ!! 攻撃の邪魔をしたな」
龍騎士のジェニヒラ・ミールは鉄の鳥を罵る。自身の尖った耳を激しく動かし怒りを露わにしていた。いきなり現れたよそ者に好き勝手されていることは彼のプライドを大いに傷つけていた。
海神を殺したこの地に住む人間に報復するためこの地の偵察を行うために派遣された艦隊の龍母艦から発艦し偵察を行っているなかで木造ではない鉄でできた大きな船を発見した。この地の船だと判断した彼は攻撃を行おうとしたが、鉄の鳥のこざかしい攻撃により失敗した。
「まずお前からやってやる」
舌なめずりをしながらジェニヒラはそう宣言した。速度を上げて鉄の鳥に接近しここだと思った瞬間に攻撃の指示を下す。相棒であるドラゴンは大きく口を開けて口と鼻から激しく息を吸って――炎を吐いた。
一撃で終わるだろうと無意識に思い込んでいた。あの両翼の下に雪の上に滑るような道具を大きくしたものを付けている鉄の鳥は見るからに鈍重そうだ。さっきは奇襲を受けたが後ろの頭上を取っている負ける理由がない。
しかし、鉄の鳥は攻撃を難なく回避し炎はむなしく空を切った。
赤い炎の明かりが水原飛曹長は照らし出した。そのまぶしさに片目を閉じる。
攻撃を外したドラゴンがみるみるうちに距離を詰めてくる。炎が命中しないなら噛み砕こうと目論んでいるようだ。何とか突き放そうとするが無駄と言わんばかりに、バックミラーに映されるドラゴンの凶悪な面が大きくなっていく。
「向こうの方が少しはやいな。だが!!」
ドラゴンが大きく口を開いた瞬間、水原飛曹長は操縦桿とフットレバーを巧みに動かす。すると機体は回転し噛みつき攻撃は空ぶった。それだけに終わらずドラゴンの後ろを取った。
「やれるもんなら、やってみな。空飛ぶトカゲ野郎」
今度こそやってやると思いながら撃つ。だがまたも避けられた。しかも後ろに回られてしまう。
「くっそ、しつこいな」
ジェニヒラは苛立っていた。鉄の鳥が蠅のようにすばしっこく動き回るので上手く行かず一度ならず二度まで攻撃を受けたことにはらわた煮えぐり返りそうだ。
「ちょこまかと動き回って、だがもうここまでだ!!」
鉄の鳥は海面スレスレまで追い詰められもう逃げ場はない。
勝ちを確信したジェニヒラは吼える。
「落ちろ、蠅!!」
炎を吐く指示を下そうとした瞬間、相棒が苦鳴の声を漏らす。何が起きたのかと周囲を見渡すと右翼が吹っ飛んでいた。姿勢が崩れ落馬ならぬ落龍しそうになるが全身に力を込めて何とか免れる。
両翼など数か所に赤い丸が付いている鉄の鳥がジェニヒラの頭上を通過した。
「も、もう一機いたのか……」
呆然とした声を漏らしていると後ろから鉄の鳥から発する音が聞こえてきた。後ろを振り向くと追い詰めた筈の鉄の鳥がいた。いつの間にか周り込んでいたようだ。
鉄の鳥はみるみるうちに接近していく。
右翼が深手を負ったことでまともに動くことができなくなった相棒に避ける術もなかった。死神の鎌がジェニヒラの首筋にかかっていた。
まだ操者であるジェニヒラ自身も思考が麻痺しており逆転されて以降、相棒に任せるままでいる。指示を求める相棒の動作が頭に届いてはなかった。一度も逆境に立たされたことのない者が追い詰められたときに出る症状であった。
思考をやめた者から死ぬのが戦場である。俺は死ぬのか。こんな地で人間に殺されるのか、神の生まれ変わりであるエルフ種の生まれで、そのなかのエリート中のエリートの誉れある龍騎士である俺が!! 心の中であらんばかりに叫びながらジェニヒラの意識は強い衝撃と共に暗転した。
「助かったぜ」
水原飛曹長は目の前で飛行している二式水上戦闘機一機に感謝の言葉を送る。
するとこの戦闘機がついてこいという合図を送ってきた。取りあえず今はその合図に従うことにする。どれくらいの時間が掛かるのかは分からないが母艦である『千代田』に戻れるだろう。
襲われていた船を見る。傷一つついていなかった。無事に航行している。
ここはどこなのかは艦に足をつけてから考えることにしよう。今は生きていることと名も知らぬ船を守りきったことを喜ぼう――水原飛曹長はそうすることにした。
午後一〇時五六分
日本国 新東京都
大統領官邸 大統領執務室
「それで『ブルーハピネス』は無事なのか?」
大統領官邸に戻り、『ブルーハピネス』関連の報告を待ち侘びていた前島大統領は報告を行いに来た秘書官に向かって船の無事を開口一番に問いかけた。
「はい。幸いにも軽傷者だけで死者は出ていないようです」
「そうか……」
その言葉に不幸中の幸いだったと安堵するのと同時に、死傷者が出なかったことを残念がる自分が存在していることを前島大統領は感じていた。
死者が出ていた場合はシーサーペントの一件と合いまわせて国民に異世界で生き抜く覚悟を決めることを意識づけ、日本国が異世界のサバイバルに邁進させる世論作りのために利用するつもりであった。
しかし思惑通りにはいないようだ。危うく被害が出かかったことは国民に強い衝撃を与えることになるが死傷者が出るのと比べてインパクトが欠けてしまう。それら二件だけでは複数の意見に分裂し混乱しきっている国民の世論を纏める決定打にはならないだろう。
いくら他民族の血が混ざろうとも、死者が出ない限り自らの行いを変えることがない位に腰が重いという日本人の特徴は変わることはなかった。むしろ一〇年の平和がより一層ひどくなったように思えた。
考えているうちに自分の碌でもなさを感じるが、これが政治家というものだと自分自身を言い聞かせる。
「『ブルーハピネス』を襲った下手人は分かったのか?」
取りあえず世論作りは保有にすることにして、別の気がかりを問うことにした。
「現場に到着した哨戒機が撮った写真です。『ブルーハピネス』を襲おうとしたドラゴンはここから発艦したようです」
一番上の写真は、攻撃を受けたのか炎上している複数の帆船が映されていた。帆船らのなかで一番大きく甲板上にヘリの離発着のようの長方形状の板が四つ取りつけてありその板の上にはドラゴンと思われる生物が死んでいた。この船は傾斜しておりあと少しで転覆しそうであった。
「帆船か……派手にやられているな。誰の仕業だ? 国防軍が反撃したのか?」
「いえ。哨戒機乗組員の証言によると撮った現場に達したときには既にこうなっていたと」
次の写真をご覧くださいと秘書官に促されるまま、次の写真を見ると四つの艦の姿が確認できた。隊列を組んで航行している。
どこかで見てきたことがあるなと思いながら前島大統領は訝しげな表情を浮かべた。
「これらは何だ?」
「水上機母艦『千歳』、『千代田』、『瑞穂』、『日進』のようです。帆船の艦隊をやったのはこの四隻と一緒にいた駆逐艦の仕業だと思われます」
前島大統領は思い出した。若い頃、軍事系の雑誌で見たことがあった。だが帝国海軍の艦艇だった筈だ。なぜそんなものか?
「名前は聞いたことはあるが、全て旧日本軍の艦艇ではないか? 本物なのか?」
「残念ですが本当のことです。これほどの規模が世界に流れ着いたのは初めてです」
「初めてではないだろう。我が国はどうなんだ?」
「……その通りですね」
この世界は空間が不安定なのかときどき別の世界のものが流れ着くらしい。とは言って過去の事例を見る限り殆どが単独で多くても一〇人位だ。艦隊ならば複数の艦艇からなるだろう。帝国海軍の艦艇であるならば一隻に数百人を超す規模だろう。そんな数が一度に流れ着いた事例は我が国以外に聞いたことがない。
考えているうちに秘書官の口から出た駆逐艦が引っかかってくる。水上機母艦以外にもいるようだ。
「どれだけの規模だ? 見る限り相当だと思えるが?」
「水上機母艦が四隻、軽巡洋艦が三隻、駆逐艦が八隻です。それが青森近海にいます」
「全く、厄介事が雨のように降ってくるな」
想像以上の規模に開いた口が塞がなかった。
難題が一向に解決していないのに関わらず、厄介な事案が否応なしに自分のところにくる現状に、前島大統領は深いため息をついた。