その四
紗枝子さんは、私を「若さん」と呼ぶ。
「こうして浴衣姿を拝見しますと、まるで小料理屋の若旦那のようですわ」
だから若さん、なのだそうだ。
もといた場所を思い出してしまうので、本名を明かすつもりはとんとない私だった。それを察してくれたのだろうか、それとも端から私の個人情報には興味がないのか。ただ私が「悪党ではない」と確信を得さえすれば満足なのか。はてさて、本当に意図の読めぬ女性だが、こちらにしてみればありがたい。少々出来すぎた呼び名でも、照れ臭さが勝つとはいえ良い響きだ。
食事をいただいた客間から臨む庭園は、手入れが行き届いている。敷き詰められた玉砂利の上には飛び石、それを辿れば水鉢と鹿威し、ひしゃくまで用意され、池では鯉がちゃぷんと水を跳ねる。風流だ。
縁側でぼんやり風に当たりながら静謐な庭を堪能していると、席を外していた紗枝子さんが現れた。私の隣でしずしずと膝を折り、同じように庭園へと眼差しを向けている。それを横目で一瞥し、どうしても気になってしまって、訊ねてみた。「ここは、何という町ですか?」と。
「ここは、ひのくら市と申しますの」と彼女は答えた。
ひのくら。耳に馴染みのない地名だった。
「ここ数年で、市町村合併を何度か繰り返して今の名前になりました。わたしの暮らすここもかつては小さな隣町で、合併前は瑞野辺町という名でございました。ですから今も、ひのくら市瑞野辺町、とそのまま」
「みずのべ……字はどう書くんですか?」
「瑞々しいに、野原の辺りと書いて瑞野辺です」
「ひのくらとは?」
「市名はひらがなですわ。今時の流行りに合わせたのかもしれませんわね」
……確かに。複数の市町村合併の際には、ひとつの市にイメージが偏り併合したという印象を植え付けないため、地域を広範囲に捉えることができるよう地名を改めるそうだ。ひらがなであるのも、難読漢字や地名の足し算では硬い字面になるため、親しみやすさを優先するとも聞く。この辺りは、町名を残しているようだが。
しかし、紗枝子さんいわく、ここはA県であるらしい。私が暮らしていた県から数百キロと距離があり、地名に覚えがないのも当たり前の話であった。自棄を起こした自覚はあったが、そんな遠方まで足を伸ばしてしまったのかと考えると、やはり彼女との邂逅は奇跡的であるとしか言えまい。「田舎の人間が親切であるかどうかは人によりけり」まさしくその通りで、現状は偶機の産物だ。拾われた私は幸運であり、拾ってくれた彼女のすべてが捕捉できているわけではないにしろ、この人の恩情には感謝が尽きない。
萎れていた気力が、水を得て調子付く朝顔みたいに張りを取り戻していくのを、腹の底に感じた。草臥れていた葉が起き上がって、ごろりと寝転ぶつぼみが徐々に持ち直してくる。現実への回帰は御免蒙るところだが、意識が外側へ向くようになれば、私自身が置かれている現状の奇抜さが目に付くようになる。
「ついで、と言ってしまうと申し訳ないような気もするのですが」そう切り出すと、紗枝子さんがくるりと振り返った。まばたきのたびに揺れ動くまつげが、天界から垂らされた救済の糸を髣髴とさせ、意図せず背筋がしゃんとするようだった。
「こういったことは、よくあるのですか?」
問いかけると、紗枝子さんが首を傾げた。
私は、なるべく失礼がないようにと慎重に言葉選びをしながら、再度問う。
「見ず知らずの人間を家に招くというのは、普通抵抗があるのではと。貴女は逆に、手際が良すぎるように思えましたから……もしかすれば、以前にもこうして、通りすがりの人間を介抱した経験がおありなのでは?」
道端で行き倒れそうな不審者を、自宅に連れ帰り食事でもてなして風呂まで貸す。ここまでの流れは、まったく滞りなかった。まるで、何度もそうして流浪の何者かを招いているかのように、動きが洗練されていたのだ。手馴れてはいるが毎日ではないといった具合に、あるいは定期的に起こり得る出来事ではないかと推察したのである。
すると紗枝子さんは、ああ、と納得した面持ちで手を合わせた。ぱん、と空気が破裂する軽快な音の次には、あっさりと首肯する。
「週に何度か、ございますね」
……まさかの週単位。開いた口が塞がらない。
「それは……週に何度も、私のような浮浪者が現れるのですか?」
「いやですわ、若さん。ご自分を浮浪者だなんて」
「似たようなものです」
「ふふ。ご心配なさらずとも、わたしとて、誰彼構わず声をかけて回っているわけではございません。そうではなくて。若さん、逆ですわ」
「逆、とは?」
紗枝子さんの夢見るような眼差しは、私を捉えてはいなかった。
「わたしからではなく、あちらさんから訪ねてきなさるのです」
それはどういう意味か、となおも問いかけようとしたときであった。
「奥様」
割り込む声が鼓膜を打つ。まるで階級の高い貴族が嗜むコーヒーのように、味わい深い風味を思い起こさせる上品なバリトンボイスをしている。何者かと正体を探せば、庭に立つ背広姿の老紳士を捕捉した。白髪交じりのオールバックに、左右対称でたくわえられた髭、白い手袋を身につけたいかにも運転手風な男である。
これほど大きなお屋敷に住む女性だ。専属の運転手を雇っていても何ら不思議ではないのだが、むしろここまで、彼女以外にまったく人の気配が感ぜられなかったのだから、そちらを気味悪がるべきなのだろうか。
「逸島、どうかなさって?」
訊ねられ、老紳士は私に一瞥寄越すでもなく、ここには紗枝子さんだけが存在しているとでも言うように、彼女から視線を外すことなく答えた。
「表門に、いつものこれが」
「いくつ?」
「今日はまだこれひとつです」
「まだお昼を過ぎたばかりですものね。わかりました、それをこちらへ」
「かしこまりました」
逸島氏が一礼する。次に、呆然とする私と目を合わせ、ひげの下の口をにこりと持ち上げた。これといって理由もなく、いや、不審人物であることは明白なのだから、てっきり警戒されるばかりだと思い込んでいた私は肩透かしを食らった気分である。しかも、さらに老紳士は私にまで深く頭を下げ、「失礼いたします」とわざわざ一言添えてくださったのだ。出来すぎている、何もかも出来すぎていると、このタイミングで再度痛感させられた。
「こちら、運転手の逸島です」敷石を伝ってこちらへやってくる紳士の正体は、予想に違わず専属の運転手であったらしい。だが、私は氏の詳細よりも、どうしても目に付いてしまうそれに意識を奪われてしまっていた。
「……あの、それは」
「化粧ポーチのようですわね」
「それは、わかりますが……」
ブランドのロゴがタイル状に描かれている女性もののポーチである。逸島氏はそれを紗枝子さんに手渡すと、黙礼を挟んですぐさま庭から去って行く。澱みのない足取りで遠ざかる背広を見送っている間にも、紗枝子さんはポーチを表裏と引っくり返し、側面や底などをじっくり観察していた。さすがに中を覗こうとまではしなかったのだが、なぜか、ふむ、と何もかもを知り尽くしたかのような悟った顔つきで頷いたので、私の好奇心が否応なく加速する。
この女性は、危険ではないが、妖しいひとだ。そうに違いない。
けれど人というものは、際に立ちたがる性を、誰しも内包しているものではないだろうか。断崖絶壁の縁、高層ビルの屋上の外側に張り出しているへり、そんな場所にそろりと足を伸ばしては、遥か下の光景を一瞬でも記憶として脳に刻みたいという危険な願望を、スリルを切望しながら自制する常識的感性と抱き合わせているものではないのか。
日常では決して感じ得ぬ匂いがした。すんと鼻を鳴らせば、婦人の香水に混じって芳しい非日常がまとわりついてくるようで、だから私は、誘蛾灯におびき寄せられた蛾のごとく擦り寄って、身を乗り出して、「それをどうするのですか?」と訊ねた。
奇妙な奥様は答えた。
「わたしは、どなたかの落し物をお預かりしているのです」
「落し物……?」
「ええ」
彼女はポーチを撫でる。
「週に何度かこうして、落し物が届くのです。ですから、確かに慣れておりますわ。何しろ、此処にはよく、流れ着く方がいらっしゃいますもので」
言われてみれば自分も、流れてきたようなものではないか。
これはいよいよ浮浪者呼びも板についてしまうのではあるまいな。不名誉ではあるが反論し難い現実を意図せず直視してしまったかのような居心地の悪さが態度に出てしまったのか、おそらく眉根を寄せて小難しい顔になっているだろう私を、彼女の衣擦れにも似た品のある笑い声が撫でて通り抜けていった。