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渡河  作者: 氷見野
足は生えているか
3/4

その三

「……いただきます」

「はいどうぞ、召し上がってください」


 まるで、真向かいに座する女神に拝礼するかのような信心深い面持ちで、私は手を合わせた。満足げな淑女に促されるがままに箸へと手を伸ばし、不恰好な卵焼きをてっぺんから頂戴する。折り畳む過程で失敗したのか、所々焦げていたり一部分が剥げていたりと確かに綺麗な形ではなかったが、一呼吸挟んでから頬張り、卵の風味と甘さとほのかな出汁の絶妙なバランスが口内をたちまち侵食してしまったので、その瞬間の私は、幼子のように目を輝かせていたことだろう。


 すきっ腹に、実に響いた。


 焦げ目は少々苦い。しかし、含んだそれを咀嚼するたびに、まろやかな味が不快感などものの見事に消し去ってしまうのだ。「不細工でございましょう?」婦人はそうして自らの失態を恥じているようであったが、私は即座に否定した。見た目ではなく中身が大事であるとは、料理のみならず異性にも言えたことではあったが、確かに、味は極上だった。


 それからは、雑念が消えた。


 私は無我夢中で箸を動かしていた。どれくらいぶりにこれほど長く、人と相対しているのか。言葉を交わすことなど造作もない、空気を吸うように当然の行為であったのに、いくら見ず知らずの他人とはいえ、こんなにも緊張するのだとは知らなかった。そのぎこちなさごと、自覚のあった懈怠を拭うべく、与えられた食事で胃を満たした。


 女はただただ、私の様子を見守っているらしかった。


 道端で拾った動物を愛護する眼差しと似ているだろうか。なるほど、私は餌付けをされているのかもしれない。それとも、長い間顔を見せていなかった孫が訪ねて来たので、嬉々として持て成す祖父母の心境に近いのか。何にせよ、じっくり観察されながらの食事はある意味緊張の連続であったが、相手は相手で時折のんびりと湯飲みを傾けているので、この貴婦人は本当にただ、害心など微塵もなく私を歓待しているだけなのだなと納得したのである。


 すっかり名前を聞きそびれてしまっている。


 味噌汁を味わいながら、タイミングを探す。黄金比率のように美しい三角を描いていたおにぎりも、隅で出番はまだかと待ちくたびれていた沢庵も、山となっていた卵焼きすらも完食し、残るはこの味噌汁だけというときに、私が声をかけるより早く彼女が立ち上がってしまった。「少々お待ちくださいませ」折り目正しさに、私の問いが割り込む隙は見受けられないのだから困ったものである。


「ごちそうさまでした」

「はい、お粗末さまでした」


 彼女が戻るとほぼ同時に、箸を置いた。


 生きている心地がしていた。半死人のようにふらふらと歩き回り、つい先日までは具体的な将来をスケジューリングしては仕事に精を出していた人間とは似ても似つかぬ堕落ぶりが、思わぬ救済により人生の張りを一時的にでも取り戻しているかのようで、嗚呼、これこそ生の実感であるのだと確信した。


 すると女は、ふんわりと微笑みながら言った。


「では、お風呂の用意が整いましたので、ご案内いたします」

「……は?」


 それは俗に言う、隙の生じぬ何段構えとやらか。

 まったくもってその意図が理解できぬと、私の表情はまさしく疑念を呈するそれであっただろう。だが彼女は意にも介さず、新築物件をプレゼンテーションする腕利き営業のごとき吸引力で、瞬く間に私を客間から移動させてしまった。


 何度か廊下を曲がって、脱衣所に案内され、


「お召し物もお洗濯いたしますゆえ、乾くまでこちらをお使いください」


 のびのびとした檜風呂に浸かっている間に、シャツとジーンズが掻っ攫われ、


「あぁ、着付けでございますね。では、僭越ながらわたしが」


 代わりに使えと貸し与えられた浴衣の着方がわからずにいれば、脱衣所の引き戸をがらりと開けた彼女が、躊躇なく踏み入り黙々と着付けを始めた。腰に手を回せば、女性らしい弾力のある身体が密着し、加えて相手は美貌の貴婦人である事実も相俟って緊張が倍に膨張した。直視できずに目を背けてしまったのだが、それに気づいたのか、すぐ近くでくすりと笑われてしまった。情けない話だ。


 ……いやいや、そうではない。そうではないだろう。


「あ、あの!」


 再び、今度はさっぱりと汚れが洗い落とされた私を先導しどこかへ歩き出す女を、初めて強く呼び止めた。伸びた背筋が強い語気で僅かに震え、するり、とカードをめくるように滑らかな所作で振り返る。


 こうして向かい合えば、改めて彼女の美しさが眼を焼いた。

 呼吸のひとつさえ、絵画の中の出来事であるかのように艶麗だ。まつげに縁取られた瞳は大きく、虹彩に映り込む私をもっと近くから覗いてしまいたくなるような瑞々しさである。これがもし、男を誘惑する魔女や妖怪の類であったとしても、騙される男が阿呆なのだと今までの私なら唾棄していたところだが、最早人のことをどうこう言える立場ではなかった。騙されてしまいたくなるのだ、身を委ねたくなるのだ。


 だとしても、私には少なからず意思があった。

 剥がれ落ちそうな良心が、彼女に問う。


「世話になっておいて今さらなのですが。私は、貴女にここまでしていただく義理がない」


 女はじっとこちらを凝視する。

 私の心根を掻き出そうとしているのだろうか。一瞬言葉に詰まるが、私は続けた。


「私の服を洗濯してくださったのなら、本当に、何も持たない裸一貫であることはご承知の筈。私は貴女の親切に払う対価を持ちません。財布もなければ、身分証明書すらないのですから。ここで貴女を突き飛ばし、逃げ出すこともできます」

「はい」

「……っ、だから。貴女は少し、無用心すぎるのでは、と……その」

「でも、わたしの卵焼きを食べてくださいましたから」


 交差していた女の視線が、一度だけ斜め下に逃げた。ふっと小さく口の両端を吊り上げて、すぐにまた、慈母然とした温和な双眸が戻ってくる。


「確かに、見ず知らずの殿方に対しては少々用心が足りぬところではありましょうが、ああして、お料理を心から喜んでお食べになる方には、悪感情など持てませんわ」

「それは、私がたまたま……」

「はい、たまたま、ですわ。あなたがお優しい方で良かった」

「だから、そういう話ではなくて……ああ、もう」


 私はくしゃりと前髪を混ぜ、上空を仰ぐ。


 万が一、招いた男が暴漢であったのなら、彼女のような細身の女性などあっという間に組み敷かれてしまうだろうに。この人にはそういった危惧がないのだろうか。屋敷には彼女以外に人の気配がないので、いつもこんな調子で呑気な生活をしているのだろうか。次々と浮かんでは、他人事であるのにも関わらず心配になってしまって、目の前で無邪気に語るこの人を叱り付けたい衝動に駆られた。いや、ご馳走になるどころか、風呂や浴衣まで借りた私が偉そうに言えた義理ではないが。


 こちらのもやもやとした葛藤を、女は見抜いているらしい。ひとしきり、くすくす、くすくす、と上品にほころばせてから、袖の袂の後ろを前へと持ってきた。開いている箇所を白魚のような指がつまんで、そこにもう一方の手を入れる。


 取り出したのは、四角に畳まれている白地のハンカチだ。


「あなたは、無粋な真似などいたしませんわ」


 百合の花が縫われたそれが、ひとひらずつ花びらを剥くようにして開かれていき、やがて、純白の布の上にちょこんとそれが現れた。心臓が掴まれたみたいに、ぎゅっと唸る。


 指輪があった。


 ……惨めだ。裸一貫のつもりが、どうやら自分は未練がましく、持っていたらしい。

 彼女はそれを後生大事に抱えるようにして、包んでくれている。


「このような物を手放せずにいるのですから」と切なげにまつげを揺らす婦人の手により、そろり、と私に返還された。拳の中に握り込めば、彼女は言うのだ。


「先ほど確信いたしまして、わたしは本当に嬉しくなりました。きっと何か事情がおありでしょうに、それよりもご自分のことのようにわたしを案じてくださいますし。ね、ほら、悪い人ではない」

「それは結果論で、都合の良すぎる解釈ですよ」

「でも、事実でございましょう?」

「気力がないだけで、隙を窺っているのかもしれない」

「でしたらもっと、甘言を吐いてわたしを油断させようとなさる筈」


 ああ言えばこう言うを嫌になるだけ味わったのも初めてである。


「……貴女は、食えない女性ですな」と、当惑しながら言えば、ころころと鈴の音が鳴るばかりであった。妙にすっきりとした、敗北感にも等しい気の抜けようであり、握っていた拳もいつの間にやら力が緩んでしまっていた。


 古びた蝶番のようなぎこちなさや不安感が洗い落とされてしまえば、私の態度や言葉にも普段の冷静さが帰って来る。視界の霧は晴れている。胸中に溜まっていた憂慮を丸ごと外へ追い出すためにごっそりと息を吐いて、そうすれば、そばに立つ彼女とも、ようやっと正面から向き合うことができたように思う。


「改めまして」


 百合の花だ。漠然と、そう感じた。

 私に差し伸べられた手も、肌の色も佇まいも。

 まさしく百合の花のようであるのだ。


「わたし、久御山(くみやま)紗枝子(さえこ)と申します。以後、お見知りおきください」


 楚々とした貴婦人が、恭しく頭を垂れた。

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