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渡河  作者: 氷見野
足は生えているか
2/4

その二

 出来栄えは、お世辞にも良いとは言えない。

 焦げていたり、端がめくれていたり、形そのものが崩れていたりと、どこかしら不恰好なものばかりが所狭しと並ぶ。大皿にこんもりと盛られたそれは、いくつ卵を消費して作られたのだろうか。人生二十七年、卵焼きで形成された山を目にするのは、まぎれもなく初体験である。


 だがそれより奇異であるのは、卵焼きの他に、おにぎりが三つ、さらにほわほわと湯気が立ち昇る味噌汁まで用意されている状況に他ならない。おにぎりが鎮座する細長い皿の隅には、当然の配慮と言わんばかりに沢庵まで乗っている。空腹で身に力が入らぬ私にとって、荒野に降る恵みの雨にも等しい。けれど、行きずりの男を自宅に招き入れるのみに留まらず、こうして甲斐甲斐しく食事まで用意する女の意図を、どうしても、探らずにはいられなかった。


 しかも、女の自宅というのがまた、規格外甚だしい。


「……広い」


 広いのである。


 平屋の日本家屋であった。塀により外周がぐるりと囲まれ、冠木門を潜ってから母屋の玄関までの道すがら、左手には由々しき日本庭園が和の彩りを演出している。小さな住宅地に建つ一軒家にしてはどう考えても規模がそぐわない。今にもお手伝いさんなる者が現れ、先導する彼女を「奥様」だの「お嬢様」だのと呼ぶのではないか。そんな可能性を裏で想像しながら、そわそわと落ち着きのない胸中をひた隠しにし、女の案内に従ったのである。


 そして通された客間は、何畳の空間をぶち抜けばこうも広く長くなるのかといった具合にとにかく大きい。座卓は丁寧に磨かれ埃ひとつ見当たらないが、こうも余裕ばかりある空間に添えられていると、人形遊びの小道具のように見えてしまうのだった。


 私は、せっかく用意された食事にもなかなか手が伸びず、ただひとつ、冠木門の横に貼り付いていた縦書きの表札を思い出していた。滑らかな天然木に刻まれていたのは、「久御山(くみやま)」という、これまた資産家や華族などのイメージを髣髴とさせるいかにも格式高そうな苗字であった。今のところ家政婦は目撃していないのだが、なるほどこれはまさしく上流階級の家柄であるに違いない。苗字だけで、勝手な判断を下す私である。


 では、かように育ちの良さげな妙齢の婦人が、なぜ私のような浮浪者まがいを拾ったのであろうか。払える金など一銭も持たぬ、正真正銘の役立たずであるこの私を。むしろ、これだけの豪邸に住まう女性ならば、金品になど目もくれぬのではないか。だとすれば、代金を要求するとして、金銭でなければ労力か。肉体労働でもさせようという腹積もりだろうか。


 何にせよ、私はさして興味もなく、自暴自棄であるがゆえに頓着もないのである。金がないのなら働けと理不尽な要求をされようとも応じることに抵抗はなく、万が一あの美しき婦人が公の場では口にできぬような趣味の持ち主であるとして、私がその餌食になってしまうやもしれぬとなった場合でも、それはそれでどうとでもしてくれと、投げやりになっていたのである。


 いっそ怪奇、猟奇な展開すら、今の私ならば受け入れるかもしれない。例えば件の卵焼きすら、こっそり毒でも仕込まれて、次に気がついたときには見知らぬ牢獄であったとしても、血みどろの診察台の上で拘束されていたとしても、私は構わなかった。


「毒など入っておりませんよ?」

「……っ!?」


 私の肩がぎくりと持ち上がる。


 お盆に急須と、二人分の湯飲みを乗せた彼女があまりにも穏やかに、かつ巧妙に指摘するものだから、探偵小説に登場する犯人の窮地とはまさにこうして心乱れるものであろうかと、共感を抱かざるを得なかった。


「あの、そうではなく」言い訳がましいと自覚がありながらも、やっとこさ弁明を口にしようとすれば、女はふるふると頭を振るのである。


「お疑いになられるのも、当然でございますよ。人によっては、顔も知らぬ他人が作った料理を口に含む行為に抵抗があるものでしょう。ほら、スーパーのお惣菜や、手巻き寿司とか。正直な話、わたしも苦手だったりするのです」

「は、はぁ……」

「日常にさえそうしてこまやかな反発があるのですから、何か理由あって此処へいらした方であれば、どのような懸念があったとしてもちっとも不思議ではございません」

「なんというか……貴女は、面白い例えをする方ですね」


 これが持って生まれた気質なのであろうか。とことん、こちらの毒気を抜くのが巧い女性である。とはいえ、よく知りもしない相手を疑い、しかも身勝手に流されようとしていた自分が、さらに彼女を上っ面だけで値踏みしようとしている。恥じ入るばかりであった。

 私のしょぼくれた心を察知したのか、目が合うと、婦人はくちびるでにこりと優美な曲線を描いてから、座卓を挟んだ向かい側で膝を折った。するするとした音を立てる衣擦れが、緊張感を撫でて解きほぐす手のひらのように思えた。


「よく、田舎の人間は親切だ、と仰いますでしょ?」


 茶筒の蓋が、小気味良い音を鳴らした。


「外からいらした方に料理を振る舞ったり、道案内のために車をお出ししたり、逆に助手席に乗り込んでその場所までお付き合いしたり。一宿一飯のお世話をしたり。テレビではよく、そういった方々にスポットを当てていたりするものですけれど、あれはまぁ、人によりけりなのですわ」


 私は脳裏に、田舎を題材にした番組を思い描いた。


「実際のところは、それほど優しくもありませんの。これまた昔からよく、田舎の人間は余所者を嫌う、とも言います。自分らの生活、風習を外部の手で乱されることを善しとしない。ですから番組でのあれは、あくまで地方の印象を良くするためだけに編集された、都合の良いエンターテイメントであるのだと、わたしは常々感じております」

「……まぁ、それは、そうかもしれませんが」

「もちろん、あの通り親切な方もいらっしゃいます。なので、人によりけりなのです。親切な方もいれば、不親切な方もいる。しかもこのような物騒なご時世ですから、物事や人の顔の裏をお疑いになって、自衛のために警戒なさることもまた必要でしょう」


 茶葉を詰めた急須を傾けると、象の鼻のように伸びる注ぎ口から、薄緑色のお茶が湯飲みへと落ちていく。ゆるやかな滝が、器の中に小さな泉を生み出す。


「そうして、わたしの振る舞いに他意があるのではと身構えてしまわれるのも、然るべき人の性であると存じます。ですからわたしも、害意はないのだと誠心誠意堂々としておりますゆえ、どうぞ、お食べになってくださいな。それともやはり、見ず知らずの女の手料理は、苦手、でございましょうか……?」

「いえ、そういうわけでは」

「然様でございますか」


 溜飲が下がるとでも言うように、女はほっと息を吐く。


「お茶もどうぞ」


 両手で包み込みながら、ほかほかに温まった湯飲みを渡された。茶葉の風情ある香りが湯気を這い、飲め、と誘う。私はそれに惹かれるがままに縁へと口を寄せ、かさついた喉へ熱を流し込んだ。気管から肺の隙間を潜り、胸の中一面に染みていくみたいに伝わるぬくもりが、疑心暗鬼になっている私の凝り固まった思考を溶かしていった。

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