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渡河  作者: 氷見野
足は生えているか
1/4

その一

 道端に自生している野生のニラは、私より余程たくましく生きている。

 コンクリートの蓋がされていない側溝の、経年劣化で欠けた縁からにょきり、にょきりと図太く生えて、大人の膝丈にも届かぬ短い茎の先端に、線香花火を模した白い花が乗っかっている。濃い緑に、陽を浴びる白。晩夏の涼やかなそよ風に揺すられて、宙を泳ぐ金魚みたいに優美であることのえもいわれぬ趣に、私はただただ、己が無力さを噛み締めつつも、そよ風の心地良さを吸い込むばかりである。


 サイズダウンした彼岸花に見えなくもない装いをしているそれらをじぃっと凝視しては、アスファルトについた膝が吸着してしまったみたいに動かせず、私はちっとも立ち上がることができずにいた。生憎、見ず知らずの土地であるので、しかも人通りのまったくない寂れた住宅地のどこかなので、例え私がここで行き倒れようと野生のニラを鷲掴みにし口に含んでしまおうと、声をかける酔狂な人間などいやしないだろう。


 そもそも、ニラが自生すること自体、一時間ほど前に知ったばかりであった。


 中型の雑種犬を連れた老人が、四、五歳くらいの孫らしき少年と散歩をしていた。リードに繋がれた白と茶の混じった毛色の犬は、老人のゆったりとした歩みに合わせる心優しい犬であるようだった。通り過ぎる際、明らかな余所者である私にも人の良さげな笑みで「こんにちは」と会釈する。少年も、警戒心は拭えずとも、尻すぼみになる声で挨拶をくれた。碁盤の目状のような幅広の道での出来事だ。


 すると少年は、用を足そうとする犬のリードをくんっと引く。「サイゾー、だめだよ。犬はニラを食べたら死んじゃうんだよ」私は思わず振り返った。

 少年の紅葉のような小さい手が、こまやかな花を咲かせる大群に身を寄せようとした飼い犬を、見事、封じ込めている。私の興味はそれでなく、住宅地の一角に堂々と根を張っている、生鮮売り場でしか目にすることのない筈の野菜にのみ注がれていた。


 私はここではないもっと、ずっと遠くの都心からやって来た余所者である。山を切り崩し、そこに模型をどかんと乗せたかのような住宅地や、改札もなければ駅員すら駐在していない無人駅も、呼吸や足音の残響がひとつずつくっきりと自分の鼓膜に刻み込まれる感覚も、何もかもが初見であった。それなりに栄えた町で暮らしていたのだから、道端にニラが生えることも、咲いた花が可憐で儚げな色形をしていることも、知らずに生きてきたのだとしても不思議ではない。


 老人たちが去ってから、なるほど一時間も経つのか。


 私は群生するニラの前に膝をつき、写真に収めるでもなく、スケッチするでもなく、食い入るようにニラを見つめている。物珍しいからでもあったが、実際は、立ち上がる気力がなかったのだ。ここ数日まともな食事もせず、体力も気力も底を尽いた。当て所なくふらりふらりと歩き回り、一体自分がどこにいるのか。地名の読み方すらまるでわからない遠方までやって来て、とうとう足が止まってしまったのである。


 植物はたくましい。私より健やかに、伸びやかに生きている。幾度なく日暮れを迎え、いずれはくたりと萎れて雪に埋もれてしまうというのに、次の春、夏と順序立てて蘇る。それに比べて私ときたらなんと情けない。このままみすぼらしい浮浪者へと成り果ててしまうのかもしれない。そんな想像が、涼風に吹かれながら私の脳裏に浮かんではまた、あっさりと消えていった。


「……もし」


 背中を丸めていた私に、影が被る。


 とん、と肩を叩かれた。控え目な力と、小雨が葉を叩くようなしっとりとした声。振り返ると、白いレースの日傘が視界を埋めた。青空を遮り、私を覗き込んでいる小さな顔。特別飾るでもなく、自然な色合いを乗せた化粧と、今にもこぼれ落ちてしまいそうな熟れた実にも似たくちびるが、私を釘付けにする。


「どこかお悪いのですか? ご気分が、優れませんか?」


 古めかしく、奥ゆかしい。そんな口調も、白鼠の着物やこっくりとした紫紺の帯という出で立ちによく似合う。齢は私とあまり変わらないだろう。なのにずいぶんと丁寧な物腰をしている女に目を奪われたまま、疲労が蓄積している脳は思考を止めていた。

 片側だけ編み込んで、それごと後ろに詰めている髪は赤みがかっている。後れ毛を奥へ奥へと撫で付ける指は長く、先端を飾る爪の桃色がやけに官能的であった。兎にも角にも女は美しく、この世のものとしておくにはあまりにも非現実的であるような、どことなくファンタジックな連想を抱かせる、突き抜けた美貌を体現していた。


「あの、もしもし?」と女性が小首を傾げる。


 白い肌にぽつぽつと浮かぶ汗を一瞥し、私は出来得る限りの愛想笑いを浮かべた。しかし、まともな食事にすらありつけていない体たらくであるからか、作り物の笑顔すら上手にできた気がしなかった。口の端が引き攣るような感覚がする。


「すみません。その、声をかけてくださる方がいるとは思わず……」

「あぁ、それは失礼いたしました。この辺ではお見かけしないお顔でしたもので、もしご気分が優れないようでしたらこのまま見て見ぬふりをするわけにも、と思いまして」

「それは……ご面倒をおかけしたようで、申し訳ない」


 私の目が、地面の土を掃う箒のような動きを繰り返しているからか、彼女の気遣わしげな視線にはさらに慈愛がこもり、それが余計に私を惨めにさせる。どこか地方の小さな住宅地で、ろくな荷物も持たない薄汚れた風貌をした男が道端に蹲っているのだから、何かしら理由があるであろうことも想像に難くない。だからきっとこれは同情なのだ、惨めな私を「可哀想に」と憐れんでいるのだ。大きなお世話だ、と心が尖った。


 ところが、一方的な反感は速やかに消沈していく。


「卵焼きはお好きですか?」


 不意を打つ問いかけに、私はまたもや思考停止を余儀なくされた。


「……は?」

「わたし、料理は得意なのですけれど、卵を使った料理だけがどうしても苦手なのです。あれは、火加減と、速さの勝負でしょう? わたしのような鈍臭い女では、手際が悪すぎるようで出来があまり良くありませんの」

「……はぁ」


 さらに彼女は、しゃがんでいる私に目線を合わせるためなのか、着物の裾に土が付着するのも構わずに、ゆったりとした動きで足を畳んだ。差し出す傘で二人の頭上に日除けを作りながら、不貞腐れている男の心腑を手のひらで掬うみたいに、そっと覗き込む。近づいた距離の分だけ、彼女がまとう香水が鼻の頭をくすぐっては流れていく。薔薇だろうか。決して強すぎない気品溢るる主張が、女の麗しさにぴたりと当てはまるようだった。


 そのくせ、卵料理の難しさを語る口調や瞳には、どことなく幼稚な、ワルツを真似ては拙く踊る娘さんのような無邪気さを湛えている。何を言い出すのやら、次なる一手が予想できぬ奇妙な相手に、私は戸惑いを隠せない。

 こうも毒気を抜かれてしまうと、彼女の一挙手一投足に意識が囚われる。卵焼きがどうしたというのか、話題の先を知りたいがために耳を傾ければ、従順であろうとする意思が肌で感ぜられたのか、女は告げた。


「作り過ぎてしまった卵焼き、お食べになりませんか?」


 初対面の男に対する誘い文句にしては、ずいぶんと所帯じみている。

 しかし私は頷いてしまった。腹が空いていたからだ。

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