お好み焼きと追跡者④
お好み焼き屋を出て夕暮れの商店街を歩く頃には、三人ともすっかり満腹になっていた。
「あーもう、お腹パンパン」
「美味しいからつい食べ過ぎちゃったね」
「美味かったよなぁ、また今度来ようぜ」
「腹減った……」
一人だけまともに食べられず絶望している者もいた。
「なぁ、どうして俺はあんなところで寝てたんだ?」
「寝不足じゃない?」
琴葉がぶっきらぼうに答える。どうやらノックアウトされる直前の記憶が飛んでいるらしく、目を覚ましてからの悠司は困惑気味だった。
「ええっと、確か成績の話をしてて、それから……石油王が――」
「なぁ、今度はもんじゃも食べてみようぜ!」
「そうだね!お好み焼きも美味しかったし、きっと美味しいよ!」
涼馬と由衣菜はあからさまに悠司の注意をそらそうとする。
「あっ」
悠司が何かに気付いたかのように小さく声を上げる。涼馬と由衣菜は「あちゃー」と顔を見合わせた。記憶を取り戻したに違いない。
「思い出した!」
興奮気味に悠司は言う。
「確かメニューに海鮮焼きそばもあったよな!俺大好物なんだよ!今度は絶対食おうぜ!」
悠司の顔はこれ以上ないほどに晴れやかだった。
そのあまりの晴れやかさにイラッと来たのか、琴葉が無言で竹刀袋のヒモを解いた。それを見とがめて由衣菜は「まぁまぁまぁ」と制止にかかる。
一方の悠司はそれに気付かないようで、スタスタと先に歩いて行ってしまう。本当に能天気な奴である。
その時、涼馬はふと不穏な視線を感じて振り返る。視線を感じたのは後ろにいた由衣菜と琴葉の更に向こう、たった今涼馬たちの歩いてきた方向からだった。しかし、夕暮れの商店街は割と人通りも多く、その正体はわからない。そもそも視線自体、涼馬の勘違いかも知れなかった。
「ん?どうしたの涼馬くん?」
由衣菜が不思議そうにたずねる。
「いや、なんでもない……」
そう答えると、涼馬は再び前に向き直って歩き始める。脳裏には、昨晩の出来事が思い出されていた。
もしこれが勘違いでなければ、視線の主はおそらく昨晩の追っ手、もしくはその仲間だろう。目的は復讐か、そうでなければ涼馬にはその意図は分からなかった。そもそも昨晩の一件自体、相手の思惑が分かっていないのだ。
どっちにせよ、このまま帰るわけにはいかない。ここはまだ商店街の中であり人通りも多い。そんな場所で堂々と危害を加えるような真似はしないであろうが、商店街から出て寮までの道程は人通りも少なくなる。そのタイミングになって襲われれば、由衣菜たちも巻き込んでしまうことになりかねない。
本来なら何とか撒くことを考えるべきかもしれないが、この人数ではそれも不可能だ。涼馬はとにかく、標的である自分が別行動を取ることを考えた。
先ほどより警戒しながら歩いていると、やはり背後から不穏な視線を感じた。とっさに振り返ると、建物の陰にサッと隠れる人影がちらりと見えた。もはや尾行されていることは疑いようがない。
涼馬は覚悟を決めた。
「ごめん、俺お好み焼き屋に忘れ物したっぽい」
わざとらしくポケットを探りながら、涼馬は言った。
「え、大変!取りに戻らなきゃ」
由衣菜が慌てた様子で言って、騙している涼馬は若干心が痛んだ。
「いや、大丈夫走って取ってくるから。先に歩いてて!」
そう言うと、涼馬はみんなの反応を待たずにもと来た方向に走り出した。
先ほどの建物の陰からはまだ人影は出てきていない。つまり、涼馬が引き返してきていることも確認できていないはずだ。
涼馬はなるべく追っ手から死角になる位置、最も建物側の壁際を走る。
作戦は、考えていない。しかしここは商店街で人通りも多い。被害者の側である涼馬にとっては非常に好都合な場所だ。
とにかく相手の不意を突き、出来れば正体を突き止める。それが叶わなくても追い払うことが出来れば好都合だし、もし揉みあいになってもこれだけ人がいれば誰かが仲裁してくれたり警察を呼んでくれるだろう。
ごちゃごちゃ考えていても仕方ない。やるしかないんだ。涼馬は自分にそう言い聞かせて、追跡者の潜んでいる建物の陰へと、死角から飛び出す形で踏み込んだ。
「きゃっ」
「へっ?」
覚悟していたのと全く違う展開に、思わず涼馬も声を上げる。
黒ローブの怪しげな狂信者か、もしくは屈強な男が潜んでいると思われた建物の陰に隠れていたのは、制服に身を包んだ女子高生だった。
「え、あっ……君は……!」
一瞬の後、涼馬はその娘が昼間食堂で会った桐谷詩音であることに気付いた。詩音は驚きのあまり両手を口元に当て、元々大きい目を更に大きく見開いていた。
涼馬の脳みそが、今までにないほどに高速で回転する。これはどういうことだ?彼女は偶然ここに居合わせた?いや、それは考えにくい。この物陰は目的もなしに足を踏み入れるような場所ではないし、今日初めて顔を会わせた彼女とこのような形でまた顔を合わせることになると言うのは偶然では説明がつかない。それに涼馬は確かに尾行犯が涼馬の視線を避けてこのもの影に身を潜めるのを見ていたし、その前から感じている視線を考慮しても彼女が涼馬を尾行していた本人だと考えるのが自然だ。おそらく何らかの理由で涼馬の後をつけていた彼女の気配を、涼馬が昨晩の事件と結びつけて過剰に警戒してしまったと言ったところだろう。しかし一体どのような理由で?今日初めて顔を合わせた、それもあのような奇妙な形で逃げられた相手に後をつけられるような心当たりは涼馬にはなかった。そもそも逃げられた原因が分かっていないことを考慮すると、その理由と今の状況に何か関連性があるのかもしれない。まさか、本当に悠司の言っていたように彼女は悠司に一目惚れしていて、実は尾行の相手は涼馬ではなく悠司だったということだろうか?もしそうだとすると涼馬は他人の恋路を邪魔してしまったことになり、他人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られて死んでしまうことになる。こんなことで死ぬのは御免だ(ここまで約0.5秒)
涼馬の脳みそがフル回転している間に、詩音は涼馬の脇をすり抜けて商店街の方へと走り去ろうとする。涼馬は焦った。このまま逃げられては事実関係が闇の中だ。それにもし別に尾行犯が存在していたとすると、彼女はその姿を見ているかもしれないのだ。
「ちょっと待って!」
慌てて叫びながら、涼馬は慌てて詩音の手首を掴んだ。
「えっ」
そして気付いた。涼馬の掴んだ彼女の手首にきらりと光るブレスレット。十字架の意匠のブレスレット……
昨晩の光景が脳裏をよぎる。暗闇の中、炎に照らされた追っ手の右手首、そこでギラリと光ったあのブレスレットを、涼馬は忘れていなかった。
その光景は恐怖と共に涼馬の脳裏に焼きついており、目の前の光景とピタリと重なる。
思わず硬直した涼馬の腕を振り切って、詩音は商店街の人ごみの中に消えて行った。涼馬は追うことが出来なかった。
近くで見ていたらしい通行人が涼馬を見ながら何やらヒソヒソと会話をしていたが、そんなことを気にしている余裕は全くなかった。
涼馬はそのまま、乱暴に振り解かれた右手がジンジンと痺れているのを感じながら、長い間その場に立ち尽くしていた。