ダイヤモンドダスト④
夢を見ている。
これは夢だとわかる。
繰り返し見た夢だから。
繰り返し見た景色だから。
四方を見回しても、すべてが同じ水面と、同じ空で覆われている。
それ以外は何もない。
どんよりと曇った空と澄み切った水面の境界は曖昧で、その境目を探すうちに引き込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。
彼女はそこに立っていた。
波打つ豊かな黒髪を風になびかせながら、その女性は優しげに手を差し伸べていた。
かつて母だと思っていた女性。
今の僕は、それが母でないことを知っている。
どうしてそんな勘違いをしていたのか、それは本当に不思議だった。
彼女に向けて、一歩踏み出す。
重たい。
膝までを濡らす水はコールタールのように、一歩一歩に絡みつき、押し返す。
それでも、額に汗を滲ませながら、片足ずつ前に押し出していく。
どうして僕は、母ではない女性に、ここまでして……
彼女の顔を見る。ずっと僕に向けられていた、その笑顔を。
そこで僕は、初めて気付いた。
どうしてこんなことに……今まで……
「お母さん……?」
僕の言葉に、彼女は微笑みを返した。
僕の記憶にはない、僕を生んでくれた女性は、心から優しげに。
そうだ、簡単なことだった。誰だってそれを見れば、自然と分かるんだ。
この笑顔は、母親の笑顔じゃないか。
彼女の指先に向かって、自分の指を思い切り伸ばす。
手と手が触れ合う。しっかりと、繋がる。
彼女は僕を抱き寄せる。強く、しかし優しく、抱きしめる。
「やっと気付いてくれた」
初めて聞いた母の声は優しく、ゆっくりと心に染み入る。
やっとわかった。この夢の意味が。
繰り返し見てきた、この夢の意味が。
母さんは気付いて欲しかったんだね。
僕の中にいることに……
ありがとう、もう気付いたよ……
顔を上げると、母はいなかった。
曇っていた空は晴れ、水面はキラキラと美しく輝いていた。
涼馬からレオに向かって伸びていた水柱は、次第にその力を弱めつつあった。
どうせ最後の悪あがき、そろそろ力を使い果たす頃だろう。レオはそう高を括っていた。
だからその時、瓦礫で築いたシールドにぶつかる水流が、一気に強くなったことには多少動揺した。
だがその程度のことで、自分の絶対的な優位が揺らぐことはありえない。そう言う慢心が、シールドの向こう、見えない範囲で起っていることへの注意を怠らせた。
強くなり始めた水流はそのままその強さを増していく。やがてそれは、レオの片手で防ぎきれる域を超え始めた。
「どうなってんだ! あいつのどこにそんな力が!」
レオは困惑しながら慌てて両手でシールドを強化する。
「お前、一体何を!」
瓦礫のシールド越し、レオの見えない場所から攻撃を仕掛けている涼馬に向かって、レオは叫んだ。
「俺は……俺は……!」
涼馬はゆっくりと顔を上げる。一瞬意識が飛びかけ、何度も見た夢の世界に引き込まれていた。
正確にはそれは、夢ではない。涼馬の内側で起ったこと。
最後の魔力を搾り出そうとした涼馬は、無意識に自分の中の回路を極限まで開放しようとしていた。そしてようやくその回路の、ごく一部しか使われていなかった回路の奥底に眠っていた、母の存在の残滓に触れた。
そして涼馬は理解した。自分の母親が、誰よりも強い因子を持ち、水の女王の異名をとった女性だったことを。
自分の中には、その血が流れていることを。
半分、いや、十分の一も開かれていなかった涼馬の回路は、今やその全てに水のマナをめぐらせ、完全に支配していた。
純然たる水の支配者。失われた家系の遺児……
涼馬の身体はその全身が、もはや水を操るために存在した。
「俺は……自分の力で……」
レオへと伸びた水柱は、涼馬の手元から次第に凍り付いて行く。そしてそれはレオのシールドまで達すると、強固に築かれたその分厚い壁を、一瞬にして凍りつかせた。
「な、なんだよそれ! こんな……無茶苦茶な!」
「大切な人を、守るんだああああああ!」
いつの間にか、涼馬の右手には再び氷の剣が握られていた。涼馬は地面を蹴る。身を躍らせる。
そして自分の作り出した氷の柱ごと、レオのシールドを叩き斬った。
粉砕。
涼馬の剣に触れるそばから、氷の柱は、そしてレオの張ったシールドだったものは、小さな氷の粒となって空中にキラキラと舞い上がった。
「ぐああ!」
レオはそのまま吹き飛ばされ、地面に転がった。仰向けに倒れたレオの上に、細氷がキラキラと降り注ぐ。
「クソッ……」
悪態をつきながら起き上がろうとしたレオの前に、涼馬は立ちふさがり、氷の剣を突きつけた。
「お前の負けだ」
そう言う涼馬に、レオは反撃しようと思った。攻撃を放とうと、右手を伸ばす。
しかし、涼馬の全身から溢れ出る圧倒的なマナのその大きさに、レオはもはや反撃の意志を失った。レオの本能が、とても敵わないとそう告げていた。
それに最後のシールドで、レオは魔力を大幅に消費していた。その状態では今の涼馬に対して勝ち目がないことは、考えるまでもなかった。
「由衣菜を返してもらうぞ」
落ち着いた声で、涼馬はそう言った。
「涼馬!大丈夫!?」
その時、ようやく防火装置を解除できた詩音が二人の戦った大きな部屋へと足を踏み入れ、その惨状に言葉を失った。
地面はいたるところが抉られ、そこらじゅうに瓦礫の山が出来上がっていた。壁にも数え切れないほどのヒビが入っている。そして極めつけはその異常に低い室温。そして、キラキラと空中を舞い落ちる細氷だった。
「何よ……これ……」
唖然としながらも、詩音は奥の台に寝かされた由衣菜とそれに歩み寄る涼馬、そして部屋の中央に倒れたレオを確認し、何とか状況を飲み込もうとした。
「あいつが、やったって訳……?」
そうとしか考えられなかったが、詩音にはそれがどうしても信じられなかった。
詩音はレオに駆け寄ると、手早く後ろ手に縛り上げて拘束した。魔術師に対してはあまり効果的な拘束方法ではないが、何もしないよりはマシだ。
「結局、あんたの目的は何だったの? どうして彼女まで連れ去ろうとしてた訳?」
「彼女まで? 何を勘違いしてるんだ?」
「えっ?」
詩音はレオの言いたい事が分からずに困惑する。
「だからこう言ってるんだよ。神無月由衣菜を連れ去ること自体が、僕たちの主な目的だったって」
「そんな、一体どうして!?」
「今に分かるよ。ほら、そろそろ目覚める」
レオが顎で示した先では、ちょうど涼馬が由衣菜を抱き起こしたところだった。
しかし、その様子はおかしかった。由衣菜の救出に成功し、喜んでしかるべきはずの涼馬の顔は、困惑で固まっていたからだ。
「どうしちゃったんだよ、由衣菜……」
「我は由衣菜ではない。彼女は今、我の中で深い眠りについている」
由衣菜の姿をした少女の声は、あまりにも感情というものを欠いていて、とても人間のものだとは思えなかった。
「冗談よせよ、こんなときに!」
「信じる必要はない。我はただ、己の責務を果たす」
そう言うと、由衣菜は完全な無表情のまま、涼馬の胸を人差し指でトンッとつついた。たったそれだけ、たったそれだけのことで、涼馬は勢い良く後方へと吹き飛ばされていた。
あまりに突然のことに声も出せず、涼馬は壁に叩きつけられそうになる。しかし、その寸前で後方に水のシールドを張り、何とか自分の身体を受け止める。
「ちょっとどういうことよあれ!」
詩音はレオの襟首を掴んで揺さぶる。自分の目の前で起きたことながら、未だにそれは信じられない光景だった。由衣菜の振るった力は、明らかに超能力者のそれだった。しかし、その大きさは尋常ではなかった。それは詩音の知る限り……人知を超えていた。
「やっぱり目覚めたね。僕らの戦闘、いや、あの真木原涼馬の強大な魔力にあてられて覚醒するんじゃないかと思ったんだ。こうなってしまった以上は僕らの計画も完全に失敗だよ。目覚めた彼女を連れ去ることはもはや不可能だからね……」
「目覚めるって、どういうことよ!はっきりと言いなさい!」
「そんなに知りたいのなら教えてあげるよ。神無月由衣菜、彼女は敷島研究所で敷島喬一郎の意志を継いだ一派が作り上げた、人造の超能力者だ」
詩音は言葉を失う。
「僕らの目的は、究極の超能力者である彼女を確保し、分析し、超能力者を知り尽くすことだったのさ。ワクチンを作るには病原体が必要だろう?それと同じさ」
「そんな……じゃあ普段の彼女は――」
「さぁね、どっちが元々のものなのかは、僕も知らないよ。ただ研究所の職員は自分達の目の届く範囲で彼女を育て、兵器として完成させようとした。その為に殺戮マシンとしての彼女の人格は封印され、人当たりのいい彼女の人格で学園生活を送らされていたのさ」
それは吐き気がするような酷い話だった。
「彼女は魔術師を強い奴から順番に殺していくようにデザインされているんだ。だから僕らの戦闘で強力な魔力を発揮した涼馬くんに反応して覚醒してしまった。君も早く逃げないと、涼馬くんが死んだらその次は僕か、君の番だ……」
涼馬が死んだら、その言葉に詩音は慌てて涼馬の方を振り向く。彼は着地した壁際に立って、由衣菜と向かい合っていた。
「目を覚ませよ由衣菜!どうしてお前がこんなこと――」
「黙るが良い。我はただ貴様を、魔術師共を殺すためだけに存在している。大人しく命を差し出せ、魔術師」
そう言うと由衣菜は右手を前に掲げた。その掌からは信じられない威力のバレット、いや、バレットと言う形を取ることが出来ないほどの無色のマナの激流が噴出し、由衣菜の周囲を吹き荒れるようにして涼馬にも襲い掛かった。
「うああああああ!」
涼馬はとっさにシールドを張り、それに対抗する。全身の回路が解放された今の涼馬は、全力で自分の周囲にシールドを巡らすことでその力の奔流に何とか逆らうことが出来た。
見えない力と力の拮抗で、空間が歪む。純粋なエネルギー同士がぶつかり合い、その境界でバチバチと音を立てる。涼馬のシールドに弾かれ、外へと零れ出した無色のマナの濁流は、地面や涼馬の背後の壁へとぶつかり、それらを粉砕していく。少し離れた場所にいた詩音とレオは、巻き込まれないように慌てて遠くへ退避せざるを得なかった。
「ほぅ、魔術師風情が良くやるな」
由衣菜は相変わらずの無表情で言った。
「由衣菜の顔で……そんな喋り方をするなああああ!」
じりじりと後ろに押しやられようとする涼馬が、気合を入れるように大声で叫んだ。そして涼馬は更に強くシールドに魔力を送り込むと、一歩、また一歩と由衣菜に向かってじりじりと歩を進めていった。
「愚かな。これが彼女の顔だと……貴様が由衣菜と呼ぶ者は我の一部に過ぎない。この顔も……身体も……紛れもなく我のものだ」
「違う!」
涼馬は否定する。そんなことは、認められない。だって……
「お前、笑い方も知らないんだろうが!」
「何だと……?」
「由衣菜が! その顔の本当の持ち主が! どれだけ幸せそうに笑うかわかってんのか!」
「何を愚かなことを……」
「愚かなのはお前の方だ!」
眉一つ動かそうとしない由衣菜に向かって、涼馬は少しずつ、少しずつ、その距離を詰めていく。
「由衣菜がどれだけ嬉しそうに笑うか! 不満そうにむくれるか! 恥ずかしそうに頬を染めるか! お前は何も知らないだろうが!」
「何を言っているのだ貴様は……」
由衣菜の表情は少しも動くことはなかったが、彼女の放つ無色のマナの流れは、微かに乱れていた。
「お前なんかより由衣菜の方が、ずっとその身体に馴染んでるって言ってるんだよ! そんな借り物みたいな使い方しかできないくせして、偉そうなこと言ってんじゃねぇ!」
「貴様……よくもぬけぬけと……」
「由衣菜はみんなに必要とされてんだよ! お前みたいな表情も感情もない奴と違ってな! みんなに愛されてんだ!」
「愛されてるだと?」
「そうだ! 琴葉や悠司やクラスのみんなも! 美羽や、それから俺だって! 由衣菜のことが好きなんだよ! 優しくて友達思いで真面目で努力家で料理が好きで食べるのが好きで甘いものに目がなくて好きなもののことになるといつもより口数が増えてちょっとおっちょこちょいで小さなことでも良く笑う由衣菜のことが大好きなんだよ!
涼馬の胸に、様々な由衣菜の姿が浮かぶ。コロコロと良く変わる表情が浮かぶ。そして、あの日見せた儚げな笑顔が……
声が聞こえた。幻聴かもしれない。だが、涼馬には驚くほどはっきり聞こえた気がした。
彼女が、呼んでる。助けを……求めてる!
「由衣菜を返しやがれええええええ!」
激流を成していたマナの流れが目に見えて乱れ、涼馬は一気にその距離を詰める。
「馬鹿な……我が表に出ている間に目覚めるはずは……」
そのマナの乱れは、涼馬の言葉への動揺によるものだけではなかった。由衣菜の人格が、眠っていたはずの人格が、涼馬の言葉に反応してもう一つの人格を圧迫し始めていた。それは本来は、絶対にありえないことだった。
そうして生まれた隙を、涼馬は見逃さなかった。最後の間合いを詰めた涼馬は、由衣菜の掲げた右腕より内側、マナの奔流のない台風の目へと飛び込んだ。
そして涼馬は、由衣菜を強く抱きしめた。
「由衣菜! 戻って来い! 俺は、お前と一緒にいたいんだ!」
抱きしめられた由衣菜は一瞬硬直し、そしてその直後、まっすぐ伸ばされていた彼女の腕は脱力するようにダラリと垂れ下がった。吹き荒れていた無色のマナの嵐が、次第に収まり、少しずつ辺りは静寂を取り戻していく。
そうして、その場所、台風の目にあたる場所に、二人は残された。
由衣菜の腕が、力なく垂れ下がっていたその腕が、ゆっくりと涼馬の背中に回される。
「ありがとう、涼馬くん……」
彼女の声はもう、無機質で無感情なものではなかった。
「私……帰ってきたよ……」
彼女を抱きしめたままの涼馬からは見えなかったが、由衣菜の顔には、いつもの優しい笑顔が戻っていた。
「涼馬くんのお陰で……帰ってこられた……」
「由衣菜……よか……った……」
安堵した涼馬はそのまま意識を失い、由衣菜の腕の中で崩れ落ちた。
「え、涼馬くん!?」
慌てた由衣菜は思わず声を上げた。突然意識を失った涼馬を地面に横たえ、名前を呼びながら必死で揺さぶる。
そこに、マナの嵐を避けて遠ざかっていた詩音が、慌てて駆け寄ってくる。
「ちょっと、大丈夫!? 彼どうしたの!?」
「分からない! 急に倒れて!」
由衣菜は泣きそうな顔で言う。
「嫌だよ……涼馬くん、死んじゃやだ……!」
ボロボロの姿で意識を失った涼馬を前に、由衣菜は思わず涙をこぼし始めた。詩音も必死で涼馬を揺さぶり、名前を呼ぶ。
しかし、そんな由衣菜たちをよそに、意識を失った涼馬はスースーと穏やかな寝息を立て始めた。
「えっ……」
二人は驚きと安堵と、それから呆れの混じった声を漏らす。
「もしかして……寝ちゃってるの?」
「そう、みたいね……」
由衣菜はしばし唖然としていたが、やがて涙を拭いながら思わず笑い出した。
「もう……心配したじゃない」
そう言って少しむくれながら、涼馬の寝顔を指先でツンツンとつついてみる。
のんきな英雄は相変わらずすやすやと、随分と気持ち良さそうに眠っていた。