第一章 ―真夜中の逃走劇―
「それじゃあ、他に何かあるものはいないか?よし、ならばHRは終了、みんな気を付けて帰れよー」
このクラスの担任、水沢洋子がそう手短に締めくくると、解放された生徒たちは思い思いの放課後を過ごし始めた。
「バイバイ洋子ちゃん!」
「洋子ちゃんさよならー」
「おう、気を付けて帰るんだぞー」
生徒たちも気軽に挨拶して教室を出ていく。
彼女、水沢洋子は教師とは思えないほどの気さくさで、生徒からの人気も高い。それゆえ生徒からも「洋子ちゃん」と呼ばれ親しまれている。
その反面、厳しくしなければならない局面ではきちんと厳しくするという教師としてなかなか良く出来た人間である。
涼馬は慣れない環境の最初にこの先生のクラスになってとても助かったと思っていた。むしろ、クラスを決める際にその点にも配慮してもらえたのかもしれない。
ただ彼女は一つ大きな問題を抱えていた。教師としては優秀だが、女としての魅力は壊滅的だと言う事だ。
と言っても、見た目はむしろ美人といわれる部類であり、黙っていれば言い寄る男も少なくない。しかし、彼女には決定的に「女子力」と言われるものが欠けており、勝気で男勝りな性格が災いして誰もがアタックをかける前に幻滅、撤退していくのだった。
当の本人は恋愛になど一切興味がない様子で(それがまた問題なのだが)、現状を全く気にする様子はないが、むしろ周囲からこのまま行き遅れとなることを危惧する声が上がり始めていた。
「おーい涼馬、この前言ってたお好み焼き屋行こうぜ!」
涼馬が帰り支度をしていると、HRから解放されてのびのびとした悠司が鞄を肩に引っ掛けながらやって来た。
「あ、それってもしかして、商店街に新しく出来たところ?」
涼馬の隣で帰り支度をしていた由衣菜がすかさず食いつく。彼女はとにかく美味しいものには目がないのだ。
「そうそう、あそこ美味くて安いって評判なんだよ!早く行かないと並んじゃうぜ!」
「じゃあ私も行って良い?」
「もちろんだぜ!ほら、涼馬も早く支度しろよーお前も行くんだろ?」
「うーん、俺は良いけど……」
「けど、何だ?」
「後ろの御方がね」
「ん、後ろ……?ひぃっ」
悠司が後ろを振り返ると、不気味な笑顔を顔面に張り付けた琴葉が悠司の背後で仁王立ちしていた。
「悠司くーん、課題はどうしたのかなぁ?」
猫なで声で琴葉が言う。
結局悠司は洋子ちゃんの課題を間に合わせることが出来ず、先ほどの授業で泣きながら土下座していた。そしてその涙と鼻水でどろどろの土下座顔を見て、流石の洋子ちゃんも(若干引き気味で)期限の延長を承諾してくれたのだった。
おそらく、その一連のやり取りも悠司はもう忘れているのだろうが……
「いや、ほら、夜は長いじゃん?お好み焼き食ったらすぐ帰るし、それからやれば楽勝?みたいな?」
悠司のみっともない言い訳に、琴葉の笑顔がピクピクと震える。
由衣菜も「あちゃー、これは中止だね……」と苦笑いで言う。こうなった琴葉に何を言っても無駄なのは重々承知なのだ。
「あ、そうだそうだ、真木原、まだいるかー?」
洋子ちゃんの能天気な声により、不穏な空気が一時破られる。
教室を見回していた洋子ちゃんは涼馬を見つけると「いたいた」と安心したように涼馬に近づいてきた。
「よかったまだ帰ってなくて」
「どうしたんですか?」
「今日の放課後、お前を研究室に呼んでくれって頼まれてたんだ」
「小野寺さんのところですか?」
研究室から涼馬に連絡が来るなんていうのは、間違いなく小野寺さん関係だった。
「ああ、そうだ。多分また妹さんの経過診断だろう。まぁ行けば分かるよ」
「わかりましたー。じゃあ悠司、そういうことで」
悠司に軽く手を振って、涼馬はその場を後にする。
「涼馬くん、お好み焼きは今度行こうねー」
由衣菜も少し残念そうに手を振る。相当お好み焼きを食べたかったらしい。
「おう、今度行こうな」
涼馬は軽く手を振り返すと、ラボのほうに歩き始めた。
「烏丸、お前は何をぐずぐずしてるんだ。早く帰って課題を仕上げないと今度こそ単位は出さないからな」
「う、うぃーっす……」
「それじゃあ悠司くん、さっさと帰りましょうねー」
そう言うと琴葉は例の笑顔を張り付けたまま、悠司の襟首をつかんでズルズルと引きずって行った。
後には悠司の「あああああ……」と言う情けないうめき声がこだましていた。
涼馬は学園側と研究所側を結ぶ二階の渡り廊下を歩いていた。
もともとここ敷島学園は敷島研究所のあった場所に学園を付設する形で作られたもので、研究所側に行くと少し建物も古くなる。
研究所があった土地に作られた為、敷島学園は外部からのアクセスが悪く、全寮制の学園になった。
しかし、研究所の所有者であった敷島財閥は、学園の付設に合わせてグループ傘下の企業を誘致し、その後のグループ外企業の参入も経て今では学園都市が形成されている。
おかげで外界からは多少隔絶された環境にありながらも、学園都市内で生活に困ることはなく、むしろ学生生活には充実した環境が提供されていた。
渡り廊下の先は一応研究機関であり、セキュリティは厳重になっている。涼馬は渡り廊下を渡り終えた受付で要件を伝えてから、研究所棟に足を踏み入れる。
研究棟に入ると、流石に少し雰囲気が変わる。学園棟の側は新しい建物であり、研究機関の付属施設と言う事もあって近未来的なデザインが特徴的だが、研究棟の方はどちらかと言うと落ち着いていて、無機質な印象を与える。学園内のようなにぎやかな若者の声が聞こえることもなく、白衣を着た研究員が多く歩いていることもあって、綺麗に整備された最新鋭の病院のような雰囲気も感じさせた。
途中入学の特殊な境遇の上、研究所職員の小野寺さんのお世話になっている関係で涼馬は頻繁に研究棟に足を踏み入れているが、未だにこの雰囲気に慣れることはなかった。学園側と違って大人の職場である研究棟では、学生服姿の涼馬はどうしても浮いてしまうのだ。
早く要件を済ませてしまおうと、少し早歩きで涼馬は階段を登る。小野寺さんの研究室は三階にある。何度も足を運んでいたので、今更迷うことはなかった。
三階に上がって左に曲がると、すぐに「臨床超能力研究室」と書かれたドアが見える。そこが小野寺さんの研究室だ。
早速涼馬がドアをノックしようとしていると、遠くからタッタッタッタッと小気味良い足音が近づいてくるのが聞こえた。
「お兄ちゃーーーーーーん!」
涼馬が振り返るとほぼ同時に、綺麗に結ったツインテールを揺らしながら駆けて来ていた少女が大きくジャンプ、そのまま空中を綺麗な放物線を描いて涼馬の胸に飛び込んできた。
「がっ」
3メートル以上も大きくジャンプしてきた妹の美羽を涼馬は何とか受け止めるが、その勢いに後ろに倒れそうになる。
もちろん、美羽のジャンプは脚力だけで行われているのではない。ジャンプする瞬間、念動力で自分の身体を押し上げ、その飛距離を大きく伸ばしているのだ。
昔から美羽には涼馬を見つけると飛びついてくる癖はあったが、超能力に目覚めてからは日に日にその飛距離が伸びており、涼馬はそろそろ受け止める自信がなくなっていた。
「こらっ!危ないから飛びつくなって言ってるだろ!」
「えへへ、ごめんなさい」
地面に降ろされながら美羽は一応謝るが、反省している様子は一切なかった。
「お兄ちゃんも、小野寺さんに呼ばれたの?」
「ああ、やっぱり美羽もか」
小野寺さんから呼ばれる時は、だいたい二人一緒に呼ばれるので、今日もそうだろうとは涼馬も思っていた。
そのとき、涼馬が先ほどノックしようとしていたドアがガチャリと開いた。
「ああ、やっぱり君たちか。やけに騒がしいと思ったんだよ」
中から出てきたのはふちの太いメガネに豊かな口髭をたくわえ、小太りに白衣の研究員、小野寺だった。
「あ、ごめんなさい。こんな場所で騒いだりして……」
涼馬はとっさに謝る。
「いやいや良いんだよ。むしろここは静か過ぎるくらいだからね。君たちが来ると賑やかになってホッとするんだ」
眼鏡の奥の優しそうな眼を、更に優しげに細めながら、小野寺は言う。
「立ち話もなんだし、さぁ入って入って」
そう言って小野寺は二人を研究室に招き入れると、自分は部屋の奥にある綺麗に整頓された机の方に向かった。
研究室の中は研究所らしく物は多いが綺麗に整頓されていて、小野寺の几帳面な性格がよくうかがえた。壁に備え付けの棚には超能力関係の書籍がズラリと並んでおり、部屋の反対側には大きなモニターや実験器具のようなものが綺麗に整列している。
涼馬と美羽は小さく「失礼します」と言うと、いつもの通り部屋の中央に置かれたテーブルの手前側に並んで座った。
「さて、二人ともそろそろここの生活には慣れたかな?」
「ええ、それなりに」
「美羽もです!」
「そうか、それは良かった」
小野寺はうんうんと頷く。
「今日来てもらったのは主に涼馬くんの能力の診断の為なんだけど、美羽ちゃんの定期診断も、どうせなら一緒にと思ってね」
「僕の診断ですか?」
涼馬は少し意外そうに言った。てっきり自分の方がついでだと思っていた。超能力は最初に発現してからしばらくの間不安定になったり、最悪の場合暴走してしまうようなことが稀に起こる。そのような事を防ぐために、発現間もない超能力者は定期的に診断を受けることが奨励されている。
涼馬の超能力は発見が遅れただけで、入学時の検査では完全に不安定期を脱していることが分かっていた。なので、二人で呼び出された時はたいてい美羽の付き添いで、ついでに簡単な超能力の習熟度チェックをしてもらっていた。
「涼馬くんの今までのデータを見ていて、少し気になることがあってね。なぁに悪いことじゃないから、気楽にちょっとした調査に協力して欲しいんだ。良いかな?」
「それはもちろん構いませんけど……」
日頃の恩もあって、涼馬は小野寺の頼みを断ろうとは思わなかったが、やはり「気になること」と言われると、何となく居心地が悪い。
それに、超能力者として優秀だと評価される妹の美羽ではなく、出来そこないの自分が調査の対象だと言われると、どうしても少し戸惑ってしまう。
「ありがとう、助かるよ!それじゃ、美羽ちゃんの定期診断の方を先に片付けちゃおうか」
そう言うと、小野寺はデスクチェアから「よいしょ」と親父くさい掛け声とともに腰を上げ、モニターと実験器具の方に歩み寄った。
「それじゃあ美羽ちゃん、いつもみたいにここに座ってねー」
美羽は「はぁい」と返事をすると、モニターの隣に置かれた椅子の上にぴょこんと飛び乗った。
美羽がきちんと座ったことを確認すると、小野寺はいつもの様に電極を美羽の頭に張り付けていく。それが完了すると、モニターにいくつかのグラフや数値が描き出された。
その数値の意味は素人の涼馬には全ては分からないが、一番大きな心電図のようなグラフが、超能力を使っているときに高まるPSY値を表していることは分かった。
「はいそれじゃ、このボールを浮かせてみて」
「はぁい」
美羽の見つめる先で、小野寺の手の上に載っていたピンポン玉のような小さなボールがすうっと空中に浮かんだ。それと同時に、モニターに表示されているPSY値のグラフがぐっと数値を高めた。
「はいじゃあ、しばらくそのままで」
小野寺はモニターの数値を見ながら、何やら記録を取る。その間ボールの位置を維持する美羽の表情は、普段はなかなか見られないほどに真剣だ。PSY値のグラフは微妙に上下しながらも、基本的に同じ値を示し続けている。
「よし、じゃあゆっくり降ろして」
小野寺に言われて、美羽は小さく「ふぅ」と息を吐きながらゆっくりとボールを小野寺の手に降ろした。それと連動するように、モニターのPSY値もゆっくりと下がり、ボールが着地するのと同時に元の値に戻った。
「うんうん、完璧だね。もう完全に不安定期は脱したかな。前よりもずいぶん安定してる」
「えへへ」
褒められた美羽は照れたように笑う。
それから、いくつか同じような小さなテストを受けて、美羽の定期診断は終わった。
「じゃあ美羽ちゃんお疲れ様。定期診断は今回で最後かな」
美羽に張り付けた電極を外しながら、小野寺が言う。
「やった!じゃあもう美羽も一人前の超能力者ってことですか?」
「そうだね。実技の授業でも安定してるって聞いてるしね」
電極を外し終わった美羽は、「やったー」と嬉しそうに笑いながら椅子からぴょこんと飛び降りた。
「さて、それじゃあ次は涼馬くんの番だ」
「はい」
目の前で妹の優秀さを見たばかりの涼馬は、少しばかり気が重くなるのを感じながらモニターの前の椅子に座った。
涼馬とすれ違う時に、美羽が小さくこぶしを握って「頑張って!」と激励してくれる。
他の人がすれば嫌味っぽくなってしまうかもしれないが、美羽の無邪気さはそれが心からの応援だということを感じさせ、涼馬は「ありがとう」と小さく微笑み返す。
涼馬が椅子に座ると、美羽の時と同じように小野寺が手際よく電極を装着していく。
「それじゃあ、まずは美羽ちゃんの時と同じようにこのボールを浮かせてみて」
小野寺は先ほどのボールを目の前に差し出す。
涼馬はそれに意識を集中し、なるべくスムーズに空中に浮かばせようとする。
小野寺の手の上でボールはぶるぶると小さく震え、それから不安定ながらもゆらゆらと空中に浮き上がった。それと同時に、モニターのPSY値も小刻みに震え、上昇する。しかし、その値は美羽のものと比べても明らかに低く、不安定に上がったり下がったりしていた。
「はい、そのまま止めてみて」
涼馬は言われた通り、ボールを空中でとどめようとする。しかし、それは動かすよりももっと精密なコントロールを要求する。ボールは美羽の時とは違い、上下左右にゆらゆらと揺れながら、何とか落下しない状態を保っていた。それに対応するように、モニターのグラフや数値も複雑に上下しているようだった。
その様子を見ながら、小野寺は「ふむ、やっぱり……」などとつぶやきつつ、何やら詳細に記録を取っている。
長い間の集中は涼馬にとって負担になり、次第に額に脂汗が浮かんでくる。だが、美羽が特別に優秀だからこそ安定した制御が出来るのであって、この学園に来た当初の涼馬のと比べると、これだけの制御が出来ているだけでも驚くべき進歩だと言えた。
「よし、ありがとう。もう降ろしていいよ」
小野寺がそう言うと、涼馬は何とかボールを小野寺の手の上に着地させた。勢い余って掌から転がり落ちそうになるボールを、小野寺が「おっと」と捕まえる。
「なるほどねぇ……やっぱりそうかもしれない……」
小野寺はたった今取ったデータを睨みながら、なにやらぶつぶつと呟いている。
涼馬はモニターに映し出された、たった今計測されたばかりの自分のPSY値のグラフに目をやる。それは美羽のものと比べてあまりに不安定で、ぐちゃぐちゃな印象を受けるものだった。ここに来た当初より超能力の制御は多少マシになった気がするが、このグラフの不安定さは全く変わっていない気がして、少しガックリとする。
一体いつになったらまともな超能力者になれるんだ……そう考えるとドッと疲れが湧いてくるように感じる。
「ああ、グラフの方はあんまり気にしなくていいよ。涼馬くんの力がかなり安定してきてることは確かだからね」
涼馬がグラフをじっと見つめていたことに気付いたのか、小野寺がフォローを入れる。
そうは言われても、やはり乱れた波形を示すグラフから受ける印象はどうしても良いものではなかった。
「さて、それじゃあ本題だよ」
小野寺は実験器具のようなものの一つを乗せたキャスターつきの台を、ガラガラと引っ張ってきた。
それは先ほど美羽の診断にも使っていた器具で、涼馬が今まで見た事がないと思ったものだった。構造は非常に単純で、箱のような機械の中にバネと重りがぶら下げてあり、箱の真ん中あたりには赤い線が一本、横向きに引かれている。
「使い方はさっき見てたから分かるかな?僕が合図したら、この重りを念動力でひっぱって赤い線のラインまで引き下げて維持して欲しいんだ。出来るかい?」
「はい、多分」
涼馬は多少不安げに答える。やっていることは基本的にボールの時と変わらなかった。
「じゃあ、早速やってみようか」
小野寺が合図をして、涼馬は重りに意識を集中した。バネは思ったよりも固くて、軽いボールを浮かせるよりもより集中力が必要だったが、何とか赤い線のあたりまで引き下げる。
涼馬はどうにかそのままの位置で重り維持しようとするが、どうしても重りは上下左右にブレてしまう。先ほどまでと違い、明確な目印があるため、そのブレがより大きく感じられてもどかしい思いが募る。
「位置は大体で良いから大丈夫だよ。とにかく、維持しようとしてくれれば良いからね」
涼馬のもどかしさを感じたのか、小野寺はフォローを入れつつ、何やら真剣なまなざしで計器と向き合っていた。時折漏らす「やっぱり……これは……」と言う声も、集中力の限界と戦う涼馬の耳には入っていなかった。
「よし、ありがとう。もう良いよ」
小野寺に言われて、涼馬はようやく解放される。
同じく解放された重りが、箱の中でぶらぶらと揺れていた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
心配そうに見守っていた美羽が、すかさず涼馬に駆け寄り、汗を拭くためにハンカチを差し出した。。
「ああ、大丈夫だよ、ありがとう」
涼馬はそれを受け取って、極度の集中で額に浮かんだ玉のような汗を拭う。
「本当にありがとう涼馬くん。お陰で貴重なデータが取れたよ」
小野寺は今取れたばかりのデータに夢中で、心ここにあらずと言う感じで涼馬に言う。
「小野寺さん、結局これは何の検査だったんですか?」
涼馬には、今まで行われていたボールを浮かばせるような調査との違いが全く分からなかった。
小野寺は少しの間涼馬の言葉も耳に入らないという感じでデータとにらめっこしていたが、はっと気付くと涼馬の方に向き直った。
「ああごめんごめん、まだ確信がなかったものだからね。でもこれでやっと確信が持てた。今説明するね」
そう言うと小野寺は慌てて手元のパソコンを操作し、モニターにグラフを表示した。
「美羽ちゃんも、そこに座って良いよ」
小野寺に言われ、美羽も涼馬の隣に腰掛けた。
モニターには上下二組、合計四つのグラフが映し出されていた。左側の二つは見慣れたPSY値のグラフだが、右の二つはそれとは微妙に違っている。
上の組は形が非常に整っており、対照的に下の組は波形が非常に乱れていた。
「何なんですか、これ?」
美羽は不思議そうに訪ねる。
「これはね、PSY値と実際に重りに働いた念動力のグラフだ。上が美羽ちゃんで、下が涼馬くんになってる」
小野寺は上のグラフ、次に下のグラフと指差す。
分かってはいることだが、こうして改めて並べられると涼馬は自分の波形の乱れ方に改めて悲しくなる。
「そしてこれをこうして、重ね合わせる」
小野寺がキーボードをカタカタと操作すると、左右のグラフは一つに重ね合わされた。
「そして最小値と最大値を揃えて、右側のグラフを引き伸ばすと……」
モニターの上で微妙な重なり方をしていたグラフが上下に引き伸ばされて変形していく。
「あっ」
涼馬はやっと上下の違いに気付き、声を上げる。美羽のグラフはピッタリと重なったのに対し、涼馬の方は二つのグラフが全くかみ合っていなかった。
「これって……」
「端的に言うと、涼馬くんのPSY値と超能力は何故か連動していないんだ」
小野寺はそう言うと、コーヒーを一口飲む。
「どういうことですか?」
涼馬は戸惑いながら訊ねる。
「わからない」
あっけらかんと答える小野寺に、涼馬は拍子抜けする。
「今までこういう事例は見たことがないからね。だからこそ今まで気付かなかったんだ。画面に表示されるPSY値さえ見ていれば、超能力の出力が分かるんだって思い込んでいたからね。そしてそれは、大抵は正しかった」
調子を整えるように、小野寺はコーヒーをもう一口啜る。
「これに気付いたのは、涼馬くんのこれまでのデータを整理していた時だ。君の超能力の制御は大分安定してきているのに、PSY値の不安定さは最初の頃とほとんど変わっていなかった。診断の間が毎回長く開いていたから、なかなか気付かなかったけどね」
そう言われて、涼馬は先ほど「グラフの値は気にしなくて良い」と言われたことを思い出した。
「そして決定的だったのが、前回の診断のときのグラフだ」
小野寺がキーボードを操作すると、モニターに新しいグラフが表示される。
「これが前回の涼馬くんのグラフなんだけど、何か気付くことはないかい?」
「いえ、特には……」
涼馬には、いつもの不安定なグラフにしか見えなかった。
「まぁ無理もないかな。じゃあ前回の診断の時、一度ボールを弾き飛ばしてしまったのを覚えているかい?」
「ああ、ありました」
「ああ言うとき、普通はPSY値のグラフは大きく跳ね上がるんだ。瞬間的に大きな力が働いているわけだからね。でも、このグラフにはそれがない」
確かに、グラフは上下に不安定に揺らいではいるものの、大きく跳ね上がるような部分は見当たらなかった。
「それでもしかしてと思って、今日確かめてみたわけさ」
「どうしてこういうことが起きるんですか?」
美羽が不思議そうに訊ねる。
「それもまだはっきりとは分からないね。超能力研究はとても新しい学問だし、医学や心理学との連携でPSY値みたいな指標が出来上がったのもごく最近の話なんだ」
確かに、超能力者自体が世界的に認知されるようになったのも、ここ数十年の話だと聞いている。
「でも、考えられる可能性は大きく分けて二つだ」
そう言うと小野寺はピースをするように、指を二本立てて突き出した。
「一つは、PSY値の定義自体が間違っていること。もしかしたら、PSY値の変動は副作用みたいなもので、直接超能力とは関係ないのかもしれない」
「え、でも美羽の場合はきちんと連動していましたよね」
「そうだね。でもある二つの数値の間に間違った因果関係を見出してしまう、と言うことは珍しいことではないんだ。だけど美羽ちゃんの場合にこれだけ綺麗に一致してると、それは確かに考えにくいんだけどね……」
小野寺は肩をすくめる。
「そしてもう一つの可能が、涼馬くん、君が超能力者ではないということだ」
「そんなっ!」
美羽が動揺したように口を挟む。
「でもお兄ちゃんもちゃんと超能力を使ってるじゃないですか!」
「まぁまぁ落ちついて」
小野寺は慌てて訂正する。
「言葉がまずかったかな。正確には僕たちの知っているタイプの超能力者ではない、と言うことだよ。もしかしたら涼馬くんは、他の人と違うやり方で超能力を使っているのかもしれないんだ」
「違うやり方……」
涼馬は小さくその言葉を繰り返した。
「そうだ。例えば二台の車が走っているとする。片方はガソリンで走る普通の車、もう片方は電気自動車だとしても、外からでは区別がつかないだろう?」
「ああ、なるほど……」
涼馬にも、だんだんと小野寺の言いたい事が分かってきた。
「だからもしかすると涼馬くんは、他の超能力者とはちょっと違う性質を持っているのかもしれない。むしろ今まで、従来の基準で測っていたせいで正当に評価されていなかったのかもしれないんだ」
小野寺は力説する。
しかし、正直なところ涼馬はまだ半信半疑だった。今までずっと超能力に関しては苦労してきたのだ。どうしてもこの話は虫が良すぎるように感じてしまう。
そんな涼馬の疑念を察したのか、小野寺はフォローを入れる。
「まぁもちろん、これはまだ仮説だよ。でももしこの仮説が正しいとしたら、超能力学にとっても大きな一歩になるかもしれないんだ!」
そう語る小野寺は、キラキラとした純粋な目をしていた。
「だからこそ、これからそれを確かめたいと僕は思ってる。研究に協力してくれるかい?」
そんな風に訊ねられたら、涼馬も「わかりました」と言うしかなかった。小野寺に恩があると言うこともあるが、何より涼馬自身、その仮説が正しいのかどうかははっきりさせたかった。
「ありがとう!いやー、良かった!」
小野寺は大げさなくらいに喜んだ。しかし小野寺の喜びようも最もで、学説に大きな影響を与えるかもしれない研究を出来るということは、研究者にとっては何より嬉しいことなのだ。
一方で美羽はと言うと、未だに「自動車の例え」がよく分からずにうんうん唸っていた。
「それじゃあ、流石に疲れただろうし今日はここまでと言うことにしようか」
勢いをつけて椅子から立ち上がると、小野寺は実験器具の片付けにかかった。
「新しく検査をするにも、いくつか仮説を立てないといけないからね。また準備が整ったら連絡するよ」
「分かりました」
そう答えながら、涼馬は自分の喉がカラカラに渇いているのに気付いた。 今の今まで気付かなかったのは、それだけ話に集中していたからだろう。
「あの、何か飲み物いただけますか?喉が渇いちゃって」
「ああごめんごめん、何も出してなかったね。お水でも良いかな?」
小野寺は慌てた様子で流し台に向かい、コップに水を注いで戻ってきた。
そのとき、片付ける途中だった機器のコードに足を引っ掛け、小野寺が大きく前のめりにつんのめった。
「わっ」
小野寺の手にしたコップから、勢い良く水が飛び出す。その先には美羽が座っており「きゃっ」と怯えたように身をすくめる。しかし、いつまで経っても水が降り注ぐことはなかった。
「えっ?」
戸惑ったように目を開くと美羽の目の前、空中で水がゼリーのように静止していた。そしてそれはぶるりと一瞬震えると、吸い込まれるようにコップの中に戻って行った。
その場にいた全員が狐につままれたような気がした。
「え、今のは美羽ちゃんがやったの?」
小野寺に訊かれて、美羽はふるふると首を横に振る。
「それじゃあ涼馬くんが?」
「え……あ、多分、そうなんですかね……」
涼馬は自分でも戸惑ったように、反射的に美羽の方に伸ばしかけていた手を閉じたり開いたりしてみる。不思議と現実感がなく、先ほど目の前で起こったことが自分でやったことなのかどうかも曖昧だった。
「すごいよ!すごいよ涼馬くん!」
戸惑いから一気にハイテンションになった小野寺は、興奮したように言う。興奮しすぎて、手元のコップから水が零れていたが、本人は全く気付く様子はなかった。
「液体の制御はとても難しい技術なんだよ!形が不安定で、力をかけにくいからね。熟練の超能力者でもあんなに完璧に制御できる人はほとんどいないんだ!」
確かに、そのようなことを涼馬も授業で習った気がした。
「でも、とっさのことだったので自分でもよく……」
もう一度同じことをやれと言われても、出来るとは思えなかった。
「大丈夫大丈夫。一度でも起こった、その事実の方がずっと重要だ。ますます仮説に説得力が出てきた!」
涼馬と美羽の不思議そうな顔を見て、小野寺が慌てて付け足す。
「普通の超能力者にとって難しいことは出来て、簡単なことは上手くできない。涼馬くんは他の超能力者とは物事の難易度が逆転しているんだ。根本的なメカニズムが違うとしたら、それにも筋が通る。そう思わないかい?」
「うーん、そうなのかな……」
美羽は相変わらず良く分からないという様子で首をかしげた。
涼馬も良く納得は出来なかったが、とにかく自分が、今まで思っていたような存在ではないという居心地の悪さは何となく感じ始めていた。
しかしそれと同時に、自分自身を良く知れば、十分な強さが得られるのではないかと言う希望も、かすかに抱き始めていた。
強くあること、それは涼馬にとって非常に重要なことだった。
強くなければ、大事なものは守れないのだ。
夜。
何度も見た夢を見て、涼馬は目を覚ました。
母の夢。
慣れない環境になったからか、敷島学園の寮に入ってから、その夢を見ることも多くなった気がする。
この夢を見た直後はいつもそうだが、涼馬の身体は嫌な汗でじっとりと湿っていた。
涼馬はベッドを抜け出し、窓を開ける。
最近はもう夏を感じさせる気候になってきたとはいえ、夜中の風はまだ涼しげだった。
嫌な汗で濡れた身体に、窓から吹き込む風が少しだけ心地良かった。
このようにして目覚めたときは、一度外を散歩して気分を入れ替えるのが寮に入る以前の涼馬の習慣だった。しかし、この寮では深夜の外出は禁じられているため、最近はそれもお預けとなっていた。
「……少しくらいなら良いか」
研究室での話が気がかりだったこともあり、今日はどうも寝つきが悪かった。少し散歩でもしないと眠れないだろうと判断し、涼馬は玄関から靴を持ってくる。
流石に堂々と寮の玄関から外へ出ることははばかられたので、窓からこっそり外に降りることにした。涼馬の部屋は二階だが、窓のすぐ隣を雨樋が下へと伸びており、やろうと思えばそこから降りられるなと常々考えていたのだ。
実際にやってみると、思った通り簡単に下に降りることが出来た。開け放したままの窓からカーテンがたなびいているのが気になるが、帰ってきたときに雨樋をよじ登ってから窓を開けるのは骨が折れそうなのでそのままにしておくことにした。
どうせすぐに帰ってくるのだ。
夜遅いこともあって、外から見るとほとんどの部屋は電気が消えていた。
誰にも見られていないことを確認し、涼馬は学校の方へと伸びる道を歩き始めた。
道自体は毎日歩いているものだったが、学園内はしんと静まり返っていて、まるで知らない場所を歩いているようだった。アスファルトを踏む自分の足音がやけに大きく感じられて、涼馬は自然と足音を忍ばせて歩いた。
やはり夜の散歩は気持ちが良いもので、先ほどまで残っていたどんよりとした夢の余韻が少しずつ和らいくのを感じた。
涼馬は特に目的もなく、学園の方向へと向かった。寮から学園とまではまっすぐの並木道が続いている。その道自体は学園の敷地と言う訳ではないのだが、普段はほとんど学園の関係者しか歩いていないので半分学園の敷地のような扱いを受けていた。
もっとも、学園都市の中でも学園の周囲は特に敷島グループの影響力が強くなっており、実際にこの辺りは学園の一部だと言っても良いのかもしれない。その辺りの詳しい事情は涼馬には良く分かっていなかった。
こうして夜中に一人で歩いていると、まるでこの世界に自分ひとりしか存在しないかのような感覚を覚える。部屋で一人でいるのはまた違う。部屋では、そこらじゅうに染み付いた生活臭が自分を日常に縛り付けてしまうのだ。
だが静まり返った夜道では、自分の身体は正真正銘の自由を手にする。その自由の中を歩いていると、身体の境界線はくっきりと感じられ、不思議と頭の中もクリアになったように思えてくるのだ。
だから涼馬は、こうして夜道を歩くのが好きだった。考え事をしたいときには、これ以上の環境はない。
歩きながら、研究室での会話を思い出す。
今では超能力者であると言うことは、高身長だとか、絵の才能があるだとか、ピアノが上手だとか、その程度の特徴と同じくらいに扱われるようになっている。だから涼馬は、妹や自分が超能力者だと言うことが分かった時にも特に動揺することはなかった。いや正確には、先に美羽だけが超能力者だとわかったときには、多少動揺していたのだが。
しかし今回、涼馬の直面した事実は少し重みが違っていた。自分だけが異質かもしれない……もし自分が漫画の主人公か何かなら、それはワクワクするような話になることもあっただろう。しかし、涼馬はそのように楽観的には考えられなかった。誰とも違う、異様な性質が自分の中に潜んでいる可能性を考えると、不気味さを感じずにはいられないのだ。
もしかしたら、最初の超能力者はこういう気持ちだったのかもしれない。涼馬は顔も名前も知らない、存在したのかも分からないその人に思いを馳せた。
そんな物思いにふけりながら歩いていたので、涼馬はその物音で我にかえるまで、自分がすっかり学園の敷地内に入っていることに気付かなかった。
物音は、はじめはかすかに聞こえていた。音がしたのかどうかも自信が持てないほど、遠くから聞こえていた。
涼馬が立ち止まり耳をすませていると、その物音は少しずつ近づき、そしてそれが誰かの走る足音だということが分かった。
寮を抜け出して深夜徘徊している涼馬が言えたことではないが、この時間に学園内に人がいると言うのは、明らかに怪しかった。足音が自分のいる方に向かっているのを感じ、涼馬は慌てて植え込みに身を潜める。
涼馬の身体がちょうど植え込みに隠れたのと同時に、校舎の影から人影が飛び出してきた。薄暗くて姿は良く確認できないが、涼馬と歳は変わらない程度の小柄な少年だった。敷島学園の制服を着ている所を見ると学園の生徒なのだろう。
生徒なのだと分かった時、涼馬はまず忘れ物でも取りに来たのかな?と思った。しかし、必死で走る少年の姿からは、少し異様な雰囲気を感じた。
そして直後、その異様さの正体はすぐに分かった。少年は逃げていたのだ。少年が先ほど姿を現した曲がり角の向こうから、追いかけてくるもう一つの足音が聞こえ始めていた。
涼馬は身体を強張らせる。もしかしたら、自分は今危ない状況に居合わせているのかもしれない。
そしてその考えは、追っ手の姿を見た瞬間確信に変わった。追っ手は全身を黒いローブで包み、フードを被ったこれ以上ないほど怪しい人物だった。その姿を見て、涼馬の脳裏にはまず「魔法使い」と言う言葉が浮かんだ。そのあまりの怪しさに、思わず涼馬は「なっ……」と声を漏らして身じろぎしてしまった。
その気配に気付いたのか、丁度涼馬の隠れているあたりを通り過ぎようとしていた少年が「えっ?」と小さく声を上げて涼馬の方に顔を向けた。
丁度近くにあった電灯に照らし出され、涼馬には少年の顔が見えた。あどけなさの残る顔立ちの少年の額には、少しカールした柔らかそうな髪の毛が汗で張り付き、その下ではくりっとした大きな目が驚きで更に大きく見開かれていた。
この純朴そうな少年がどうしてこんな時間、こんな場所であの怪しげな人間に追われているのか、涼馬には見当もつかなかった。
次の瞬間、涼馬に気を取られた少年は一瞬歩調が乱れ、軽く足をもつれさせる。
その一瞬を、追っ手は見逃さなかった。
追っ手は走りながら少年の方に手を向けると、その掌がぼんやりと白く光るのが見えた。
バレットを撃とうとしている。
そう確信した瞬間、涼馬の身体はひとりでに動いていた。
「危ないっ!」
植え込みから飛び出した涼馬は、そのまま少年を突き飛ばすような形で反対側の植え込みに飛び込む。間一髪の所で涼馬の背後をバレットが飛び去り、石畳に突き刺さってパンッっと弾ける音が静寂の学園内に響き渡った。スピードはいつも慣れている悠司のものほどではなかったが、威力は明らかにこちらが上だ。と言うか、手加減をしていない。まともに食らえば間違いなく怪我をすることになるだろう。
助けられた少年は、突然の涼馬の登場に困惑しているようだった。涼馬は少年の腕をつかむと「逃げよう!」と言って走り出した。
少年は少し迷ったように見えたが、それでも状況が状況だ。敵ではないと思われる涼馬と共に走り出す。
追っ手との距離は先ほどよりも縮まっている。このままだと無事に寮まで、いや学園の正門まで逃げ切れるかも怪しかった。
仕方ない。最後の曲がり角を曲がった直後、涼馬は覚悟を決めた。正門に続く道の脇にある広場の入り口あたり、大きな木の陰に身を潜めた。急に隣から涼馬が消えたことに戸惑った少年が振り返るが、ジェスチャーで「先に行け」と伝える。
少年は一瞬ためらったが、そのまま正門に向かって走って行った。
それとほぼ同時に、曲がり角から追っ手が現れる。幸い辺りが暗いお蔭で、涼馬の姿がないことには気づいていないようであった。
いよいよ学園から出られてしまうことに焦ったのか、追っ手はやみくもにバレットを撃ちはじめる。しかし、走っている相手に走りながら撃ったバレットはほとんど出鱈目な方向に飛び去る。
追っ手がもう一発のバレットを撃とうとした瞬間、涼馬は木の陰から勢いよく右足を差し出した。
暗闇の中、それも全力で走りながら少年を追うことに集中していた追っ手は、見事に涼馬の足に引っ掛かり、勢いよく地面に転がった。
「よし!」
涼馬はその隙に逃げ出そうとしたが、その時初めて自分のミスに気付いた。この状況では正門との間に追っ手がいるので、正門から逃げるのは困難になってしまっていたのだ。
「しまった……!」
とんでもないところでヘマをやったことに絶望している間に、追っ手は素早く立ち上がり、明らかな怒りを全身から放ちながら涼馬の方に向き直った。
右手には先ほど撃ち損ねたバレットのエネルギーが、白い光を増していた。
涼馬は慌てて広場に逃げ込むが、その瞬間追っ手のバレットが放たれる。
慌てて両腕でガードしながらシールドを張ったものの、涼馬の出来そこないのシールドでは強力なバレットのエネルギーはほとんど相殺できなかった。シールドを貫き両腕を突き上げた衝撃で、涼馬の両足は簡単に宙に浮かぶ。
そのまま勢いよく十メートルほど吹き飛ばされた涼馬は、広場の中心にある噴水に突っ込み水柱を上げた。
夜中と言う事もあり噴水自体は止まっていたが、水は溜まったままだったのが幸いした。衝撃と激痛で訳の分からなくなった涼馬は噴水の水を大量に飲み激しく咳き込んだが、もし水がなければ頭を打ち、下手したら死んでいた。
死ぬ。今まで考えたこともなかった。日常生活で死を意識する機械など、今までの涼馬にはなかったのだ。
先ほどとっさに少年を助けた時も、まさかそこまでの危険に足を踏み入れるとは思っていなかった。
いや、何も考えていなかったのだ。
ただ目の前に追われてる少年がいて、自分は助けられる立場にいて、それで無意識に身体が動いていた。
ただただ必死だった。
しかし、涼馬は今言葉通り、頭から冷や水をぶっかけられ、ようやくことの重大さに気づき始めていた。
激痛と肺に入った水のせいで、頭が上手く回らない。涼馬は死への恐怖でパニックになりかけていた。
そんな涼馬に、黒いローブの追っ手はゆっくりと歩み寄る。そして頭上に右手を掲げると、その右手は赤い光を帯び始めた。
炎だ。
涼馬は一瞬、幻覚を見ているのかと思った。
追っ手の掲げた右手の上には、周囲の暗闇を照らすほどの力強い炎が燃え上がっていた。オレンジ色の光に照らされて、追っ手の右手首でロザリオのブレスレットがギラリと光る。それは黒ローブの怪しげな姿と相まって、凶悪な狂信者の印象を与えた。
敷島学園と言う超能力者集団の中にいれば、色々な超能力者に出会う。悠司のようなスピード自慢や、琴葉の様に斬撃を飛ばす者など、むしろ涼馬の周りはバラエティーに富んでいるとも言えた。しかし、超能力で炎を出すなんて言うのは聞いたことがなかった。
涼馬の目の前でその炎は巨大な火柱となり、追っ手が右腕を振り下ろすとまるで鞭のように涼馬に襲い掛かった。
「うあああああああああ!」
涼馬は思わず恐怖の叫びを上げながら、死に物狂いで出来そこないのシールドを張ろうとした。そんなものは役立たないと分かりつつも、本能的に身を守ろうとせずにはいられなかった。
その時だった。
噴水の水が一斉に巻き上げられ、涼馬と火柱の間に巨大な水の壁を築いた。
それはまるで涼馬が、水でシールドを張ったかのように。
火柱は水壁に激突し、轟音を立てながら噴水の水を水蒸気に変えていく。そして一瞬の後、一気に気化した水は水蒸気爆発を引き起こし、火柱をそして黒ローブの追っ手を弾き返した。 涼馬は目の前で起こったことを信じられない思いで見ていた。そして同時に、研究所で起こったことが頭をよぎった。
こぼれた水をコップに押し戻した力、あれと全く同じものが、この噴水の水全てを意のままに操らせたように見えた。
おそらく、自分がやったことなのだろう。
またもや実感はなかった。しかし、それ以外は考えられなかった。
これだけの水を、おそらく何百キロもある大量の液体を意のままに操るなど、尋常な超能力ではない。
「君が超能力者ではないということだ」
小野寺の言葉が涼馬の脳内でこだまする。
涼馬は自分の中の得体のしれない力に、もはや居心地の悪さではなく恐怖さえ覚え始めた。
一体自分は何者なのか……長年連れ添ってきたはずの自分の肉体が、まるで他人のもののように感じられる。
辺りは先ほどの水蒸気爆発の影響で、大量の湯気に包まれ全く視界が効かない状態になっていた。
その向こうで、膝をついていた追っ手らしい人影が、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。
逃げなければ。涼馬は必死に立ち上がろうとする。今この視界の効かない状態ならば、何とか逃げ切ることも出来るかもしれない。
しかし、両足は恐怖ですくんで動いてくれなかった。
何度も立ち上がろうとするが、どうしてもうまくいかない。まるで両足が棒になってしまったかのように、全く言う事を聞かない。
「くそっ!」
涼馬は情けない思いで、自分の右足に拳を叩きこんだ。しっかりと痛い。それでも、立ち上がることは出来なかった。
さっきみたいな奇跡はもう起らない。今度こそやられる……
しかし涼馬が絶望の中で靄の向こうの人影に目を移すと、追っ手が一回り大柄の人影に腕を引かれ、その場を立ち去るのが見えた。
再び広場はしんと静まり返り、しばらくして靄が晴れると、そこにはもう追っ手の姿はなかった。
「助かった……?」
安心した途端、涼馬は全身の力が抜け、背中からゴロンと噴水の中に転がった。
先ほどの一件で噴水の中の水はほとんどがなくなっており、残った水もほとんどお湯になっていた。
涼馬はそのお湯に半身を浸しながら、目の前に広がる夜空を見上げた。
先ほどまでの出来事はあまりに突拍子もなさ過ぎて、もはや現実感がなかった。
どれくらいそうしていたかはわからない。涼馬はようやく落ち着くと、鉛のように重い身体に鞭打って寮へと歩き始めた。
もう二度と深夜徘徊なんてしない。そう心に誓いながら。