僕たちの世界は②
涼馬はその夜、一睡もすることが出来なかった。正確には少しは眠っていたのかもしれない。しかし、あまりにも沢山の情報や感情が、頭の中をぐるぐると回り、涼馬を睡眠から遠ざけ続けた。何度時計を見たか分からない。見るたびに時計の針は無情に進み、そしてやがて朝が来た。
仕方なく、涼馬はベッドから這い出した。
今日は土曜日、学校がある訳でもない。どこにも出かけたくもなかったが、それでもこの部屋の中に閉じ込められているくらいなら、外に出た方がまだましだと思われた。
今一人で、締め切った部屋にいたくはなかった。
軽く着替えて部屋を出る。休日と言うこともあって、寮のロビーには楽しそうなひと時を過ごす学園の生徒が沢山いた。
遊びに行く計画を話す者、昨日のテレビの話で盛り上がる者……誰もが休日の朝を満喫しているようだった。
涼馬はその空気に全く溶け込めず、足早にロビーを横切った。少しでも早く、その場を立ち去りたかった。彼らのその楽しそうなひと時が、毎日の生活が、全て偽りの上に成り立っているのだと考えるとその場にいるだけでも耐え難いほどに辛かった。
そのまま涼馬はあてもなく歩いた。目的地はない。ただじっとしていられない、それだけの理由で右脚と左脚を交互に動かしているだけだった。
気付けば涼馬は商店街まで来ていた。休日の商店街は沢山の人でごった返していて、活気に溢れていた。そこに集まっている人々も、誰も彼もとても楽しそうだった。その様子が、また涼馬の胸を締め付けた。
涼馬はひたすら、心を無にして歩こうと努めた。しかし、それは無駄だった。頑張れば頑張るほど脳裏には次から次へと考えたくないことがとめどなく溢れてくる。
今は誰にも会いたくない。涼馬はそう思っていたが、そう言う時に限って一番会いたくない相手に会うものだ……
「あ、お兄ちゃーん!」
聞きなれた声に振り向くと、少し離れたところから美羽が駆け寄ってくるのが目に入った。そして彼女はいつものように、勢い良く涼馬に飛びついてきた。涼馬は思わず彼女を、血の繋がらない少女を受け止める。
彼女の身体は、今まで感じていたよりも少しだけ重たく感じた。首に回された腕も、抱きとめた感触も、少しだけ固くてごわごわしていた。他人の感触だ……
涼馬は慌てて美羽を降ろし、そのせいで軽く突き飛ばすような形になってしまった。
「あ、ごめん」
反射的に涼馬は謝る。
唐突に放り出されてしまった美羽は、軽くよろめいて「おっとっと」と体勢を立て直した。彼女の身体の揺れに合わせて、トレードマークのツインテールがゆらゆらと揺れた。
「もー、危ないなー」
美羽は不服そうに頬を膨らませて言った。
「いや、こんな街中で抱きつくから……」
周囲を見回すと、結構な数の通行人が涼馬たちを見ていた。
「良いじゃない、兄妹なんだからー」
美羽の無邪気な言葉は、無邪気さ故に余計に涼馬を苦しめる。
「あれ、お兄ちゃん一人?今日は何かお買い物?」
「まぁ、ちょっとフラっとな……」
「んー? 大丈夫? なんか疲れてない?」
「ちょっと寝不足なだけだよ。大丈夫」
「うーん」
美羽は腕組をしながら涼馬の顔を見上げる。彼女の純粋なその目を、涼馬は直視することが出来なかった。
やがて美羽は「ちょっと待ってて!」と言うと、一緒に来ていたらしい女の子達の元に戻り、なにやら話をしているようだった。それから彼女達に「じゃあね!」と手を振ると再び涼馬の元に戻ってきた。
「へへ、今日はお兄ちゃんとデートすることにしました!」
そう言って笑う美羽に対し、涼馬はどんな顔をすれば良いのか全くわからなかった。
結局その日、涼馬は一日美羽に振り回されることになった。最初はどう振舞えば良いのかも分からずに戸惑うばかりの涼馬だったが、次第に美羽のペースに着いて行くことに必死で、余計なことは考えられなくなっていた。
美羽はと言うと、久々の兄との休日が余程楽しいのか、終始ハイテンションだった。服屋では次々と試着しては「似合う?似合う?」と詰め寄るし、雑貨屋ではアクセサリーをねだる。クレープの種類はショーウィンドーの前で延々悩むし、最終的に一つに絞れず第二候補を涼馬に買わせ、半分ずつ食べようと提案したりした。あまりの甘えっぷりに、元々睡眠不足だった涼馬はすっかりヘトヘトになってしまった。
全身に疲労を感じながらも、涼馬は美羽の買った服やら靴やらを両手にぶら下げて歩いていた。そんな疲れきった涼馬の少し前を、美羽はご機嫌な様子で歩いている。彼女はおねだりして買ってもらった帽子の包みを、大事そうに胸元に抱えていた。
重い荷物を持って歩く涼馬に比べて、軽いものしか持っていない美羽のペースは速い。涼馬はそれについていくだけでも大変だった。
「おい美羽、ちょっと待てって!流石にギブだ!少し休ませろ!」
そう言うと涼馬は、通りかかった公園のベンチに身体を投げ出すようにして座った。
「もー、しょうがないなぁ」
少し先まで歩いていた美羽は涼馬の所まで戻ってくると、その隣にぴょこんと腰掛けた。
「あー今日は楽しかった! お兄ちゃんありがとうね!」
「お前なぁ……散々買い物させやがって……」
「だって久しぶりでほんとに楽しかったんだもん」
確かに考えてみれば、学園に入ってからはあまりこうして二人で過ごす時間もなかった。
「お兄ちゃんは、楽しくなかった?」
美羽に言われて、涼馬はようやく自分が意外と楽しんでいたことに気付いた。いつもにも増して手に負えない美羽について回るのに必死で、余計なことを考えている余裕がなかったからだ。
「まぁ、俺も楽しんではいたかな……ありがとな、美羽」
「う、なんかそんな改めて言われると、照れちゃうなぁ……えへへ」
美羽は恥かしそうに笑うと、投げ出した足をバタバタとさせた。
「でも、お兄ちゃんが元気出してくれて良かった」
「えっ?」
「だってお兄ちゃん、ここの所ずっと疲れてたみたいだし、今日なんて特に酷い顔してたんだもん」
「……」
「お兄ちゃんが元気ないと、やっぱり心配するよ」
そう言う美羽の声は、少しだけ寂しそうだった。
「何かさ、悩み事とかあるんなら、美羽にも相談して欲しいなって。私たち、たった二人の兄妹なんだから」
たった二人の兄妹、その言葉は涼馬の胸に突き刺さった。今まさに自分は、目の前のこの少女を騙している。兄のため、彼女はそんな思いで、友達との休日を捨ててまで自分を元気付けようとしてくれたんだ……本当は兄なんかじゃないなんて、夢にも思わず……
一度は引っ込みかけていた、暗く重苦しい気持ちが、再び涼馬の胸に溢れ出して来た。だから涼馬は、美羽から目をそらさずにはいられなかった。
そんな涼馬の様子に、美羽は表情を曇らせる。
「ねぇ、やっぱりお兄ちゃん、悩みがあるんだよね?」
「……」
「電話でも、変だったもん。結局何なのか教えてくれないし……それと何か関係あるの?」
「……」
涼馬は、何も答えられなかった。何と答えれば良いか分からなかった。これ以上、美羽を騙すようなことはしたくはなかった。
「美羽には、話せないことなの?」
「……ごめん」
自分のものだとは思えないほど情けない声が出て、涼馬は自分でも驚いた。あまりの情けなさに、今すぐに消えてしまいたい、そんな気持ちが涼馬を支配する。
「そっか……」
美羽の声は悲しそうで、寂しそうで、その事が余計に涼馬を苦しくさせた。
それからしばらく、二人は黙ったまま並んでベンチに座っていた。夕暮れの太陽は少しずつ高度を下げて、辺りはさっきよりも少しだけ暗くなってきていた。
どれだけそうしていたか分からない。先に沈黙を破ったのは美羽の方だった。
「もしかしてさ、お兄ちゃん……」
美羽は始め、少し躊躇うように、しかしやがて意を決して訊ねた。
「お父さんから聞いた、とかかな?私たちのこと……」
涼馬は信じられない思いで顔を上げる。
美羽は先ほどまではしゃいでいた女の子とはまるで別人のように、とても真剣な表情をしていた。
「私たちが、本当は……」
その先は、美羽も言葉にしたくないようで、消え入るように途切れてしまった。
「お前……知ってたのか?」
涼馬が訊ねると、美羽は小さくコクンと頷く。涼馬は言葉を失った。知らないのは、自分の方だった。自分だけが何も知らずに、能天気に生きていたのだ……
「いつから……?」
「もう、だいぶ昔……引っ越す時に昔の写真を整理してて、それで気付いたの。私は生まれた時から写真があるのに、お兄ちゃんのはどんなに探してもなくって……それに、私も生まれたばっかりの写真はずっと一人で写ってた。それがある頃から突然、お兄ちゃんと二人で写ってる写真になって……それで私、お父さんを問い詰めたの」
引っ越す時。その頃のことを、涼馬は良く覚えていた。それまでもそれからも、二人はずっと仲の良い兄妹だった。しかしその一時期だけ、険悪になったことがあったからだ。当時涼馬も美羽もまだ小学生だった。涼馬は後から思い返して、あれは短い反抗期だったのだろうとか、環境が変わったせいだったのだろうとか、勝手にそんな解釈をしていた。
「多分、今のお兄ちゃんの気持ち、美羽もわかるんだ……あの頃、その……そのことを知ってから、お兄ちゃんとどう接すれば良いかわからなかったの。それで、お兄ちゃんに優しくされるのが辛くて、キツく当たっちゃったりして……ごめんね」
美羽のその「ごめんね」が、あの頃のことなのか、それとも今日のことなのか、涼馬にはわからなかった。もしかしたら、その両方のことなのかもしれない。
「あの頃のこと、良く覚えてるの。お兄ちゃんはずっと美羽のこと気にかけてくれて、色々してくれて、なのに美羽はそれを突っぱねたりして、結局大喧嘩しちゃったんだよね。それで美羽、おうち飛び出して……」
「俺も良く覚えてるよ」
それは涼馬にとっても、大事な記憶だった。
「あの時、美羽ほんとにどうしたら良いか分からなくて、おうちになんかもう帰らないって、そう思って泣きながら走ってて、気付いたら自分がどこにいるかも分からなくなっちゃってたの。引っ越したばっかりの町で、どこから来たかも、どうすれば帰れるのかも分からなくて……気付いたらもう真っ暗だし、本当に怖くて、そのまま動けなくなっちゃってた」
涼馬もその日のことを思い出していた。その頃は涼馬も遊びたい盛りだったのに、妹の世話をしなければならないことに多少不満を感じていた。だから美羽と喧嘩して、彼女が飛び出してしまったときには「もう知るか」と思っていたのだ。
だが、いつまで経っても彼女は帰ってこない。気付けば外は真っ暗で、涼馬も心配になって彼女を探しに出た。
しかし、そこは引っ越したばかりの町だ。涼馬も彼女の行き先は見当もつかず、闇雲に歩き回ってもちっとも美羽は見つけられなかった。次第に涼馬の方も、美羽に二度と会えないのではないかという不安で一杯になって、半べそでただひたすら歩き回った。
だからその時、ちょうどここと似たような公園で、膝を抱えて泣いている美羽を見つけたときには、本当に心の底から安堵した。
涼馬は、泣きつかれて歩けなくなっていた美羽を背負って家まで帰った。その時に感じた背中の妹はビックリするくらい小さくて、か弱くて、涼馬は「自分がこの子を守っていかなきゃいけないんだ」と、強く思った。
それは、涼馬を支えてきた大事な記憶だった。
「あの日、お兄ちゃんが来てくれたときにどれだけ嬉しかったか、安心したか、美羽は絶対に忘れないよ。おうちに帰ってお兄ちゃんが作ってくれたオムライスが本当に美味しかったことも、もう泣くなって涙を拭いてくれたことも、全部忘れない……」
あの日のことを大切に思っていたのは、自分だけではなかったんだ。涼馬はそう思うと、何だか不思議な気分だった。自分だけの大切な記憶だと思っていたあの日は、美羽にとっても、いやむしろ彼女にとっての方が、もっと大切な記憶として残っていた。
そして彼女は、涼馬の目をまっすぐ見つめて言った。
「あの時にね、やっぱりこの人は、私のお兄ちゃんだって、そう思ったの。美羽がお兄ちゃんを大好きなのは、血が繋がってるからじゃないよ?お兄ちゃんが、ずっと美羽のお兄ちゃんだったから……」
彼女の言葉の一つ一つが、ひび割れていた涼馬の心に染みこんでいく。違った。自分が間違っていた。涼馬はようやく気付いた。嘘でも偽りでもない。二人で過ごした時間は、兄妹としての時間は、紛れもなく本物だったじゃないか。
血が繋がっていないなんて、そんなちっちゃなことで、嘘になんてなるもんか。
迷っていた自分が情けなくなった。こんな小さな女の子は、とっくの昔に受け入れていたのに……
「ありがとうな、美羽」
今度は妹の目をきちんと見つめて、涼馬は言う。
「これまでも、これからも、お前は俺の大事な妹だ」
「……うん」
美羽はもう笑っていた。涼馬の良く知る、昔からずっと変わらない笑顔で。
「えへへ、お兄ちゃん大好き!」
「うおっ」
唐突に胸に飛び込まれて、涼馬はバランスを崩しそうになった。それでもしっかりと、大事な妹を抱き止める。
美羽の柔らかくしなやかな腕が、涼馬の胴をぐいっと引き寄せた。離さないよ、とそう言っているように。
「ったく……しょうがない奴だな」
いつものようにそう言いながら、それは自分の方だなと、涼馬は少しおかしくなった。それを誤魔化すように、美羽の頭をポンポンと軽く撫でた。
あの日守ると決めた小さな女の子は、いつの間にか、こんなにも大きく育っていた。
その夜、涼馬は久々にぐっすりと眠ることが出来た。不安や気がかりがなくなったわけではないが、少なくとも今の自分がやるべきことは見つかったからだ。
そして翌日、涼馬はその部屋を訪れた。日曜日にもかかわらず、相変わらずその男は学園内のその部屋で過ごしていた。
「思ったより早かったな」
ドアを開けた涼馬を見て、二階堂は少し意外そうに言った。
この男の言う通りになると言うのは癪だったが、今の涼馬にはそんなことよりも、もっと大切なことがあるのだ。
だから涼馬の言葉には、迷いはなかった。
「俺に、魔術を教えてください」