うぶ ― 犬ころ浪人始末 ―
暑い日は家に居て、風通しのいい日陰で涼むのが一番でございます。
犬子辰之進としてもそうしたいのはやまやまでございます。けれどお里さんのお稽古がある日は邪魔者となってしまいます。
お里さんは囲われ者ではなくなりました。家はお里さんに与えられたものであり、借主は御隠居様で入居者がお里さんでございます。ついでにお里さんの身許引受も御隠居様。
しかし収入の当ては犬子浪人が頂戴しているお手当でございます。ですので副業として小唄の師匠を続けております。僅かでも余裕のある生活が理想的なのは当然のこと。
ちなみに収入の管理はお里さんが一手に引き受けております。犬子浪人はお小遣を貰って過ごしている状態でございました。
しっかり者のお上さんが家計を管理し、のんびりと暮らすのは極楽でございましょうね。ですからお上さんの副業には積極的に協力しないといけませんよね?
というわけで目障りな犬子浪人は時間をつぶす為にぶらぶらとしております。
今までなら仁吉の処へと顔を出せば、食べ物と飲み物くらいは余裕で出て参りました。今でもそれに変わりはございません。
しかし、お志摩に捕まる可能性が高くなります。先日の突然の変身以来、お志摩の玉砕覚悟の突撃は手に負えない有様なのです。
犬子浪人としては逃げの一択という有様でございます。仁吉の仕事を助けるときは仕方ないとして、普段はお里さんと平和にいちゃついていたいのでした。
というわけで大川沿いの道を宛てもなく歩いておるのでございます。
船宿の前にはちょき舟の舟掛かりがある溜まりがございます。何か目的があるならちょき舟を利用して、川を行くほうが遥かに便利でございます。
舟を横目に遣り過ごして歩いて行きますと、向こうに見える橋の袂に見馴れた顔を見つけました。物売りの屋台の陰ではございますが、見間違えではないでしょう。
佐助でございます。今日は御隠居様のお役目もないのか、女連れでなにやら話し込んでおります。
犬子浪人は川端のほうへと寄りまして、何となく立ち止まりました。邪魔者は居場所がございません。
「佐助さんなんか死んじまえっ」
随分と穏やかじゃない声が聞こえたので、懐手を解いて首を伸ばしてみます。
俯き加減にぱたぱたと駆けて行く町屋の少女が目に入りました。どうやら涙を流しているようでございます。
あちゃあと内心思いましたが、隠れていても仕方ありません。佐助は既に気づいているはずですので。
屋台の向こう側までぶらぶらと歩き、佐助に声を掛けます。
「お安くねえな」
気心知れた佐助に対し、他に言いようはございませんでした。犬子浪人が伝法な言葉を遣うのは、相手が佐助のときくらいのものでございます。
「仕方ねえさ」
佐助は白い歯を見せて笑いました。
「蕎麦でも食うか?」
「いいね」
二人は連れ立って蕎麦屋を目指しました。
二階座敷のある店を選ぶと、大川を行き交う舟を眺めながら蕎麦切りに天麩羅で杯を傾けます。
他のお客が居ようとも、こういう処なら気楽に話せるのでございます。
「切れちまうのかい?」
切れそで切れない蕎麦切りを手繰りつつ、犬子浪人は話を投げてみます。
「それがいいんだよ。おいらはお店者じゃあねえし」
佐助は年格好だけなら手代くらいに滑り込んでもおかしくはございません。
しかし小者というのは一代限りの契約労働者でございます。旦那様の身に異変があれば、次のお勤め先を探さねばならなくなるかも知れません。
「御隠居様なら手厚く考えてくれなさるだろうに」
犬子浪人の疑問はもっともでございます。浮気をされた上に袖にされた形になったお里さんを、立ち行くように手厚く庇護なさっていらっしゃるのです。
信頼の厚い佐助の身の上でしたら、便宜を図って下さることは請け合います。
「辰さんは中間の連中を知ってるかい?」
佐助は急に話を変えてきました。犬子浪人も少し面食らいます。
「お屋敷勤めは随分と前だから忘れてるが、訳知り顔であれこれと世話焼いてくれるもんもいたぜ。癪に障る奴もいたけどな」
犬子浪人がまだお武家様であった頃に、藩主のお屋敷に勤めていたことがあるようですな。
江戸表のお屋敷というのは上屋敷とか下屋敷など複数ございます。そこで使用人として働く為に口入れ屋などから斡旋された者達が中間とか小者でございます。身分は原則として庶民になります。
商人のお店の奉公人と同様に年季奉公で、前例が重んじられた武家社会では、実務を良く知るベテランは重用されました。
現場の力関係というのは必ずしも身分で決まるものではございません。実務処理能力に長けたヒラの人物が重宝され、一定の発言力を持ってしまうことはよくある話でございます。
現地雇用される中間連中は世情を良くつかんでいるので、お屋敷の日常業務を円滑に回して行く為には不可欠でした。それをいいことに、別邸である下屋敷などを私的な領域として占用する輩もおります。
武家のお屋敷内は藩主の領地扱いでしたので、幕府の専門機関にしか立入捜査権がございません。町方は手が出せず、原則として藩の人間に管理義務がございました。
それをいいことに、御定法に触れる違法行為を内緒で行なったりしていたのでございます。博打を打つ為の賭場の開設は最も良く知られている話でございます。賭博行為は重罪でした。
「あいつらにはあいつらの掟ってやつがあるのさ。そこへ潜り込んだりするのがお役目の、おいらだって逃れられないわけだ」
佐助は淡々とした口調で語ります。
「潜り込むったって、賭場へ出入りして中間共と顔を繋ぐくれえのもんだろ?」
「まあ、そうだね。あいつらと一杯やって噂話をしたり、人の拘わり合いを調べたりってやつだ」
犬子浪人は少々簡単に考えておりますが、佐助のお役目は密偵のようなものでございました。相手側の掟を端から破っているのでございます。
その家の内情を噂話として内部告発させ、それを情報のひとつとして把握しておけば、間違った商いに巻き込まれるようなことは無いのでございましょう。
お里さんを襲わせた依頼元も絞り込んで特定したようでございます。その調査能力が窺えましょう。
佐助は猪口を傾けながら淡々と続けます。
「辰さんは簀巻きにされた奴を見たことはあるかい? おいらは一度だけあるんだよ。間近でね」
まあ、いわゆるリンチ、私刑ですな。葦簾や筵などでぐるぐる巻きにして、身動きできないようにしてから、川などへと放り込むのでございます。
運が良ければ何処かへ引っ掛かりますが、そのまま溺死したり引き潮で海まで持って行かれたり。
万一助かれば神仏に感謝しなさいというものでございました。
「そいつは簀巻きにされてちょき舟に載せられてたんだ。運悪く葦に引っ掛かっちまったんだろうな」
舟に乗せて流してしまう追放刑もございました。
「手繰り寄せてみたんだけど、誰だか見分けのつかないくらい殴られててね。医者より坊さんが必要な有様だったんだ」
「助けたのか?」
「そのままもいちど川へ押し出してやった。十手持ちも途方に暮れる有様だったからね」
佐助はそう言って優しそうな顔にうっすらと笑みを浮かべます。
犬子浪人は口をへの字に結んで顔をしかめました。
「おいらもいつか、ああなるんだなあと思っちまったんだ。すんなり浄土へ辿り着けりゃあいいが……」
「おめえはそんなしくじりはしねえだろうよ」
犬子浪人も自分の言葉に何の根拠も無いことは分かっております。
「だからさ、お志乃ちゃんみたいな娘には、おいらみたいなのは近づかねえほうがいいのさ」
佐助の面持ちは穏やかなままでございました。
先ほど走り去った少女の名前はお志乃というようでございます。
佐助がぽつぽつと語ったところによると、お志乃は小さな小間物屋の娘だそうで。大きなお店とは比べようもない、個人商店の少しまともな店構えのものでございます。
なにやら困っていたところへ助け舟を出してやったのがご縁だそうで。数えで十五の娘には、仏様より佐助さまの心持ちとなってしまうのは、当然のことでございましょう。
佐助にとって遊んで捨てるのは簡単な存在と言えましょう。相手が勝手に夢中になっているのですから。
それでも何か感じるものがあったのだと思われます。大事に付き合っていたようでございました。
変化があったのはつい最近のことで、お志乃に縁談が降って湧いたのでございます。見初めたのは結構大きなお店の若旦那でございました。
こんなに良い話は二度とないだろうという良縁でございます。親も乗り気、周囲も祝福いたします。
お志乃ひとりがこの世の末といった心持ちでございました。
思い詰めたお志乃は佐助に駆け落ちをねだったそうでございます。
佐助はそれを断り、お志乃を叱った後で良縁を祝福したようでした。先ほどの涙声はお志乃の悲痛な心の叫びなのでございます。
「俺にゃあ分からん」
犬子浪人はぶすっと膨れっ面をしております。
「辰さんは初心だからな」
佐助は白い歯を見せて笑いました。
「うぶなわきゃねえだろうが。だったらなんでお里みてえな年増とくっついてるってんだよ? ええ?」
「初心だからだな」
佐助は容赦ございませんな。
さすが遊び人の面目躍如といった塩梅に、犬子浪人は言い返す言葉もございません。目を剥いて歯軋りしておりますと、佐助に反撃されてしまいます。
「そういやあ辰さん、お志摩ちゃんのことはどうすんだい?」
一番厄介な人物の名前をさらっと言ってのける佐助もかなり意地が悪い。
「お志摩は……さっぱりとして、いいやつだと……思うぜ?」
なんだか部屋住みの青二才のようなことを申します。目をきょろきょろとさせておりますところなど、踏んだ場数が佐助に及ばぬことを物語っておりました。
「きっとお志摩ちゃんも初心なんだろうな」
「お志摩が? 仁吉ん処であれこれとしてのけてるだろうが?」
「生きる為にしてのけることと、心底惚れちまうのは全く違う話さ。辰さん、女を分かってねえだろう?」
佐助のきつい当て身が鳩尾をえぐります。顔を真っ赤にして怒鳴りつけたい犬子浪人でしたが、またしても目を剥いて歯軋りするばかりでございます。
「もそっと大切に可愛がってやんなよ。野郎に惚れたのは初めてなのかも知んないんだ。本気になんなきゃお里姐さんだって見逃してくれると思うぜ?」
犬子浪人の完敗でございました。
火除け地に大道芸を生業とする者達が集まり、興行をしております。
芸人と申しましてもピンからキリまでございます。拍手喝采を頂ける者。客の集まりの悪い者。
人垣の中でお志摩がくるくるととんぼを打つ様子を、犬子浪人は遠目に眺めておりました。お志摩の髪が華やかに宙を舞う姿を眺めつつ、ため息をひとつ、吐き出してしまいます。
結局はくるりと踵を返すと、そのまま家路についてしまったのでございます。
犬子浪人はごろりと横になってひざ枕をして貰い、耳掃除をして貰っております。
お里さんは腰巻きの上に藍染めの浴衣を紐で結んだ寝巻き姿。犬子浪人も同様の浴衣姿でございます。
胸の前で腕を組み、お里さんのお腹のほうを向いて、横になっております。お里さんは片手で頭を抱え込むようにして、もう一方の手で優しく耳掃除を続けております。
犬子浪人はこの体勢を気に入っております。親なし子なしの野良犬にとって、お里さんの体に抱え込まれているのは安心できるのでございましょう。
やはり佐助の言う通り、犬子浪人はまだまだうぶな子供なのかも知れません。母親に甘えているような、そんな一刻を過ごしておりました。
「意地でも添い遂げようと思うのは間違いなのか?」
犬子浪人、つまらぬ話を口に出してしまいます。
「お前さんはうぶだからねえ……」
お里さんは微苦笑しながら軽く受けます。
「されど男と生まれたからには――」
「成り行きや相手によるんじゃないかねえ? そりゃあお前さんがいつまでも抱いてくれたら嬉しいよ?」
お里さんにも思う処はございましょう。
「けれどお前さんがどなたかの御家中なら、あたしゃ良くても囲われ者が精々。今だって祝言挙げるわけには行かないのさ」
身分の違いを簡単には越えられません。法的にはきちんと調えて手続きしなければ通りませんでした。先例主義の悪い側面でございます。
その一方で、事実婚は広く一般的に認められておりました。実態優先主義とでも申しましょうか。
よほど不埒で世間を騒がす間柄でもない限り、実態としての夫婦は夫婦として取り扱われておりました。
「それでも……あたしゃお前さんと一緒に居られれば、それでいいのさ」
犬子浪人は返す言葉もございません。
お里さんは優しげな眼差しで見つめております。
「もしやお前さんの足手まといになるようなら、いっそ身を引くほうを選ぶよ。それが女のひとつの顔さ」
「三途の川まで手に手を取ってくれるのではないのか?」
犬子浪人の問いは拗ねた子供のようでございます。
「それもいいだろうねえ……道行きと洒落込むかい? ホホホホ」
余裕たっぷりに笑われてしまうと、ますます分からなくなってしまいます。犬子浪人はお里さんの胸乳の下へと、鼻面を潜り込ませるように抱き着きました。
「おやおや、ほんと犬っころみたいなひとだよ……」
お里さんはそう言いながら、優しく頭を抱いてやります。
本当に、ごちそうさまでございます。
明くる日、犬子浪人は久しぶりに稲荷前の茶店で仁吉と駄弁っておりました。そこへお志摩が飛び込んで参ります。
「犬ころの旦那っ」
随分と扱いが変わったものでございます。痩せ犬は犬ころの旦那へと化けてしまいました。
お志摩は瞳をきらきらとさせて、こぼれんばかりの笑みを浮かべております。
仁吉は既に苦笑いしております。
「それじゃ、あっしはこれで」
犬子浪人の横へと滑り込むように腰掛けるお志摩を横目に、邪魔者は退散とばかりにそそくさと出て行く仁吉でございました。
犬子浪人とお志摩は、いつぞや仁吉と初めて出会った社の裏手へと来ております。社の裏は逢い引きの定番でございますな。
「お志摩は何故それがしのことを?」
おおっと、いきなり雰囲気をぶち壊す問いを投げ掛ける犬っころでございます。もう少し大人かと思っておりましたが……。
「わけなんてどうでもいいのさ。わけがわからないから、あんたに惚れたって分かったんだ」
お志摩の答えは真っすぐでございます。
犬子浪人の許へと歩み寄ると、懐にぴったりと身を寄せました。
「迷惑だろうってのも充分分かってるよ? でも、日陰の身で構わないから、あんたについて行きたいの」
犬子浪人の頭の中には、佐助の語ったお志乃の姿が浮かんでおりました。
お志乃の心持ちや告白も、きっと今のお志摩と同じようなものだったに違いありません。
佐助はお志乃の心持ちを分かった上で、お志乃の幸せを考えたのでございましょう。
ならば己はどうするか? 犬子浪人はしばし考え込んでしまったのでございます。
「なあ、お志摩。日陰も何も、それがしには女を喜ばす甲斐性はござらん。お前に悲しい想いをさせるだけであろうよ」
「そんなのかまやしないんだ。あたしが勝手に惚れたんだから。あんたは気が向いたときに、あたしのことを構ってくれりゃあ、それで充分だから……」
お志摩は頬を擦りつけ、ぽろぽろと涙を流しております。
佐助の言葉が犬子浪人の胸をちくりと刺します。結局無言のまま、お志摩の体を優しく抱きしめてやったのでございます。
お里さんの家に戻ると、佐助が帰りを待っておりました。
犬子浪人を見るお里さんの面持ちが、少し悲しそうな、困ったような顔をしております。
「お前さん。佐助さんから頼まれ事があるんだよ」
お里さんの顔を見れば、あまり気分のいい頼みではないことは判ります。
「辰さん、姐さんを少し借りたいのさ。たぶん一度で済むと思うんだけどね」
佐助の真面目な面持ちを見れば、無下に断る話でもないような雰囲気でございます。
「なにしようってんだ?」
「おいらの新しい女の振りをして貰いてえんだ」
「お志乃ちゃんの件か」
佐助は黙って頷きます。
「あたしじゃ年増すぎるんじゃないかねえ? いかにも玄人っぽくて、逆に軽く見られちまうんじゃ」
お里さんの疑問はもっともでございます。色男の女遊びは甲斐性でございました。玄人の女といちゃついてるのは浮気に入りません。息抜きの遊びという範囲を越えずに遊ぶのが粋な遊び方でございます。
色恋沙汰すら洒落のめすのが色男の甲斐性でございます。
ですので、素人と素人、玄人と玄人で張り合っても、素人が玄人と張り合うなんて野暮なことは笑われるだけでございました。
「だからって、もっと若え素人くせえ女ってのも……」
腕組みして考え込む犬子浪人でしたが、自然と佐助と顔を見合わせます。
「お志摩だよ」
「お志摩ちゃんか」
お里さんは話が分からず目をぱちくりとさせておりました。
さて、お里さんの家へと向かう間、お志摩はひっくり返りそうなほど緊張しておりました。
紹介された佐助と犬子浪人に、挟まれるようにして歩いております。
「あらお帰んなさい。この子がお志摩ちゃん? いらっしゃい」
出迎えたお里さんは、お志摩にとってはやはり衝撃でした。年増の婀娜な色っぽさ、豊かで柔らかそうな体の線、いずれもお志摩にはございません。
お里さんと並べば、自分は子供のように見えてしまうかも知れないのです。
やや蒼褪めながら座敷へと上がったお志摩でした。
「いや、これはねえよ」
犬子浪人は腹を抱えて笑いそうになるのを、必死でこらえております。
お志摩は目に涙を溜めておりました。
「そんなことないよう」
お里さんは抗議しております。佐助は苦笑い。
お里さんが気合いを入れてお志摩の髷を結い、着付けをしたのでございます。
されどその結果は、どうにも垢抜けない町娘が出来上がってしまいました。
「これならもそっと衿を抜いて、髪を下ろして手桶でも持って、風呂屋のけえりを真似たほうがましよ」
犬子浪人は身も蓋も無いことを申します。
「そうするか?」
佐助も同調してしまいました。
お里さんはぷっくりと頬を膨らませてしまったのでございます。
犬子浪人はお志摩の演技を物陰から覗き見ておりました。
お志乃の実家の店先を、此れ見よがしに腕を組んで歩いて行く佐助とお志摩。
風呂帰りなのは一目瞭然。佐助は首に手拭いをかけて衿を緩め、肩まで袖を捲って腕を出しております。
お志摩は風呂上がりの少し崩れた色気を匂わせ、それでも若々しい色気を失なっておりません。小柄なので歳より若く見えます。
小間物屋の奥から走り出て来たお志乃は一瞬目を見開きます。しかし佐助はちょっとも気を配りません。目からぽろぽろと涙をこぼし、お志乃は家の奥へと引っ込んでしまいました。
佐助の覚悟には頭が上がらない犬子浪人でございました。
さて、場所は変わりましてさる船宿の離れ間でございます。
お志摩への報酬は犬子浪人との逢い引きでございました。場所の設定から日取りの調整、軍資金の調達、全て佐助がしてのけました。普段の勤めの手際良さが窺えます。
さらに犬子浪人は知る由もございませんが、お志摩に発破をかけておりました。お里さんを間近に見て、畏縮してしまったお志摩でございました。
敵わないなら悔いを残さないよう精一杯しがみついてみろ、と申したようでございます。
後で困るのは犬子浪人でございますのでね。なかなか友達思いな佐助でございました。
昼間の船宿など逢い引きや密談の舞台でございます。わけありのお客様で賑わうのですから、店のほうも心得ております。
後からやって来たお志摩は、少し暮らし向きの良い町娘といった装いをしておりました。
料理とお酒が運ばれ、後は二人切りとなります。お志摩はどこか仕草にぎこちなさを感じさせます。
犬子浪人は佐助に念を押されておりました。お志摩を普通の町娘として扱ってやれ、と。
お志摩も普通に生きられたなら、前の暮らしがどうであろうと、お志乃と変わらぬ町娘なのだと諭されたのでございます。
「旦那ぁ……なんだか恥ずかしいよう」
お志摩は犬子浪人の横に座り、俯いてもじもじとしておりました。
佐助の言う通りでございます。軽業の興行で華やかに宙を舞うお志摩も、仁吉の仕事で変装して演技するお志摩も、お志摩であることに違いはございません。
そのお志摩の内には普通の町屋の娘としてのお志摩も、確かに存在しているのでございます。
犬子浪人はお志摩の体を抱き寄せました。そうして指先を顎に添えると上を向かせます。
「お志摩の顔を、もっとよく見せろ」
まあ、犬っころはぶきっちょですので、このくらいで勘弁してやりましょう。
お志摩は頬を朱く染め、既に目がうるうるとしております。いつもの勝ち気なお志摩は、すっかり影をひそめてしまいました。
犬子浪人はお志摩を腕の中に抱き、唇を奪います。柔らかく小さな唇に舌を這わせ、緩んだところで静かに重ね合わせました。
襦袢を脱いだお志摩の肌は、やはり胸乳が目立ちます。それでも小さな体であることに変わりはございません。
前回は組んず解れつの取っ組み合いでしたし、犬子浪人は仰天しておりましたので、お志摩の体なんぞ覚えておりません。
改めてその滑らかな肌に指を這わせます。しっとりと湿り気を帯び、熱を蓄えた肌の表を背中まで指を滑らすと、しっかりと抱きしめてやります。
「旦那ぁ……旦那ぁ……」
お志摩は浪人の首筋にしっかりとしがみつき、泣きながらうわ言のように呟き続けます。
犬子浪人は初めてこの女は可愛いと思ったのでございます。
腕の中のお志摩は満足したように微笑んでおりました。うぶな犬子浪人にも、うぶなお志摩の気持ちがようやく通じました。
先のことは……まあ判りかねるのが世の常でございましょうね。
犬子浪人はごろりと横になってひざ枕をして貰い、やっぱり耳掃除をして貰っております。お里さんも犬っころも藍染めの浴衣の寝巻き姿でございます。
胸の前で腕を組み、お里さんのお腹のほうを向いて、横になっております。
お志摩との逢瀬がございましたので、少々居心地の悪い犬子浪人でございました。お志摩に嵌まったわけではございませんが、本気の浮気は初めてでございます。
「そうかあ……お志摩ちゃんだったのかあ……」
お里さんの何気ない言葉にぎくっとする犬っころでございます。
「心配しなくてもいいんだよ、お前さん。佐助さんがみぃんな話してくれたから。叱るんならおいらを叱ってくれ、だってさ」
お里さん、上機嫌でにこにこしております。
「妬かねえのか?」
「妬くもんかい。お武家のお姫様や町屋のお嬢様じゃあないんだ。あたしもお志摩ちゃんも似たようなもんじゃないか。お前さんがぞっこんでないんなら、別にかまやしないさ」
さばさばとしておりますお里さんでございました。
「お志摩ちゃんがぞっこんになるくらい、いい男にお成んなよ」
お里さんに頭を撫でられ、憮然とする犬っころでございました。
女と男はやはり別の生き物でございます。心の底まで見通せる、天眼鏡でもあったらなあ……というのが本音でございましょうか?
犬ころ浪人、うぶの巻、これにて終了でございます。