いわく憑きは魔の毒気
こんな、今の自分からすればただの紙屑も同然のものを、なぜ蒼汰が役に立つと思って自分に渡したのかが進悟朗は分からなかった。
「なあ、なんでこれが俺の役に立つと思ったんだ?」
「なんとなくです」
「えっ……? なんだ、なんとなくって? お前らしくない」
「いえ、その……『声』が聞こえたんです。女の人の」
進悟朗は蒼汰がこの『革でできた書物』の内にある、なにか恐ろしいものを見て、そのせいで気が触れたのだろうかと思ったが、どこからどう見てもいつも通りの蒼汰だった。
「それを開いたときですよ、どこからか懐かしい声で『進悟朗が来たら渡しなさい。これは進悟朗にとって必要なものです』と聞こえたんですよ。それで驚いて周りを見ても誰もいなかったんです。それと耳から聞こえたわけでもないんです、なんというか……頭に直接流れ込んでくる感じがしました」
「要は、その『女の声』が俺に渡せ、俺に必要なものだといったんだな。なら、正直にその声の言うことに従って貰っておくことにしておこう」
「それが一番ですよ」
その声の主が何者であろうと、蒼汰から自分に伝えるなどということまでしているのだ。ここは大人しく貰っておいた方がいいだろうと、表紙の蛇の目を眺めてから懐にしまった。そして、旅のことでも考えることにした。
あの化け物は確か、空を駆ける青い馬に乗っていった。それに、今となってはどこに行ったのかさえ分からないが、遠く、とにかく遠くに行ったというのは分かっている。つまりそれだけ長い旅路になるということだ。
しかも、爺様や婆様に気付かれずにいかなけばならないが、二人とも自分が本当のことを知っていることを知っている。ここを出れないようにすることをしてくるかもしれないだろう。
いや待てと考える、この書物がもし本当に役に立つのなら乗り切る方法があるはずだと、進悟朗は取り出して勢いよく書物を開く。
瞬間、焦げ茶色の革の表紙が、真新しく感じる紙が、稲光のようにまばゆい光を放つ。同時に、頭の中を荒れ狂う急流のように見たこともない文字が無数に流れ込んでくる。吐き気とめまいとが襲い掛かり、ぐらりと体が崩れ書物を手から離す。書物は畳の上に落ち、革の光沢だけを残して光らなくなっていた。
「だッ…大丈夫ですか、兄――」
「平気だ。それより今の光は……」
一瞬の出来事ではあったが、明らかに普通ではないことに二人とも動揺せずにはおれず、固唾を飲みながら視線を書物に向ける。
進悟朗は眩暈が治まっていきつつある中、とあることに気付いた、なんと書物の表紙の文字が読めるのだ。
「どういう事だ……字ッ……字が、読めるぞ! 蒼汰、お前は読めるのか?」
「読めません。あのときは光らなかったのに何で……」
役に立つ理由が分かった。あの夜、目醒めた力とこの書物は何かしら関係があるのだ。そうでなければ蒼汰に反応せず、進悟朗に反応したのが説明できない。そうと分かればとまた書物を開く、そこにはこんなことが記してあった。
『此処ニハ、大イナル土ノ民カラ続ク超常ノ力ヲ記ス。人ノ身デ超常ノ力ヲ持ツモノガ此ノ書ニ触レ開ケバ、此ノ書ヲ読ム知識ト此ノ書ニ或ル総テ、延イテハ遍ク経験、知識ヲ他カラ得ラレル力ヲ与エン。願ワクバ悪シキ者ノ手ニ渡ルコトノナイコトヲ願ウ』
どうやらこれには、あの火打石が無くとも炎を出す以外にも色んな『超常の力』とやらが記してあり、中にはとてつもなく危険なものさえあるということが最後の文で予想できた。
その次を捲ってみると仰々しく同じ文字が並んでいたが要略すると、『力』には種類があり大きく分けると二つ、さらにそこから八つに分かれているらしくそれとは別の物もあると書いてあり、『力』のことも『魔術』に代わっていたが、進悟朗は興味が無さげであった。しかし、その次には衝撃的なことが書いてあり、目を丸くした。
『魔術ヲ行使スルニハ己ガ内ニ宿ルモノト、神ノ創リシ世界ニ或ル素トヲ交ワラセルコトガ不可欠デアル。其ノ為ニハ陣ト呪文トヲ介サナケレバナラナイ』
あのときは陣や呪文も何もせずに火を出した。しかしこれではしなければできないと書いてある、なぜかは分からない。だが出せた物は出せたのだ。わざわざ面倒な陣や呪文をしなくても済むと考え次を捲ろうとしたとき、蒼汰がその手を阻んだ。
「一体、どうしたんだいきなり掴むなんて?」
「どうして? それはこっちの台詞です。さっきから憑かれたように、またそれを見てたんですよ」
自分でも知らず知らずのうちにこの書物の独特の『毒気』にあてられたのだろう、だがまだ爺様と婆様の目を欺く術を見つけていない。それ故、まだやめる訳にはいかず蒼汰の手を外そうとするも、必然というべきか蒼汰も力を入れ抵抗する。
「そこまでして何が見たいのですか!」
「声が大きいぞ、蒼汰。今、誰にも見つからずにここを出れる方法を見つけているんだぞ」
「そんなもの、あるわけがないじゃないですか」
「あるッ…………筈だ、多分」
根拠も何もないまま、あり得ないものを見つけようとする兄の言葉に只々呆れるしかなく、兄はと言うと、そんなことなど気にも留めないというような態度で黙々と書物を読み進める。
まさしくとり憑かれたかのような様子で、蒼汰はあきらめの気持ちを込めたのような溜息を一つつき、そのままどこかへと出て行ったが、進悟朗はそのことには気づかず書物にだけ目を向けていた。外は昼にもかかわらず、真夜中かのように静かに感じた。