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[Die zweite Nacht]『ファウスト』――夜の遺児 4

[4]

 ……自らが許せなかった。不甲斐ない自分が。情けない自分が。


 ――お前は、自らが至らぬことを頻りに悔しいと嘆いているようだが――


 彼は言った。当然だ。悔しくないわけがない。自分には、為さねばならないことがある。無念のうちに生涯を閉じた、父の、母の意志を継ぎ、魔を討ち滅ぼさなければならない。自身の命と引き替えにしても、両親の無念を晴らさねばならない。

 ――だと言うのに、この体たらくは何だ。しくじって傷を負ったばかりか、熱を出して寝込むなど。まして、本来敵であるはずの男に手当を受けるなど、言語道断。

 ……だが、一番許せなかったのは。本来敵であるはずの彼に、憎悪以外の何かを感じてしまったこと。それが何より悔しくて……悲しかった。

 そんな迷いを振り切るためにも、動かなければならなかったのに。

 熱を持った体は起き上がることを拒み、茹だった頭は思考を遮った。虚ろになる意識は、強靱なはずの意志とプライドまでも根刮ぎ薙ぎ倒していく。

 そんな彼女の意識をすんでのところで繋ぎ止めたのは、ふと鼻孔をくすぐった快い薫りだった。甘く、高貴で――……泣きたくなる、花の薫り。

「――ぁ……ア……ル……?」

 声にならない声で、その名を呼んだ。

「……?」

 一瞬、不思議そうに身じろぎする気配がした。

 薄く瞼を開いてみれば、ぼやけた視界にうっすらと、細身の白い影が映った。ああ、違う、とすぐに分かった。それは、彼と同じく、数少ない心安らげる相手だったけれど、彼ではない。

 そう、彼女は――

「ル……フィ――でも……何で……?」

 ――同じ薫りがするのだろう……?

 その疑問は、されど答えを得られぬままに、小さき聖女の意識は闇へと墜ちた。


                † † † † †


 この地上の「存在」には、皆須くその目的りゆうがある。

 水には大地を潤す目的があり、大地には木々を育む目的があり、木々には大気を生み出す目的があり、大気には有害な光線を和らげる目的があり、太陽には海面を暖め雨をもたらす目的がある。

 つまりは、『それ』にも存在する目的があった。――ただ、それが何であるのか、リリスには分からなかったのだが。

「――下調べくらいして来んか、馬鹿者が」

 心の底から呆れたように、黒衣の『闇の魔獣』――『アル』は、嘆息して言った。

「調べるったって、どーしたらいいか分からないもの。私、警吏さんじゃないし。――って言うか、言葉を選ぶ気がないわね、もはや」

 恨めしげに半眼を向けつつ、リリス。

「いや、少しばかり面倒になってな。まあ気にするな」

 まるで悪びれた風もなく言って、『アル』は薄く笑った。

 周囲は、夜の闇に包まれている。二人は、一軒の古びた館の前にあった。ひび割れ、無秩序に蔦の這う壁にぴたりと背をつけて、気配を殺すようにしている。

「……いや、まあ今更どーでもいいのだけど。――それよりも。何でまた、当然の如く貴方が私の隣りにいるのよ、アル」

 半眼に問うと、『アル』は軽く眼を閉じて、涼しい顔で言った。

「なに、小さき聖女がまた何かヘマをしないか心配でな。……例えば、下調べもなく噂の悪霊退治に赴いたり、とかな」

「うっ」

 思わず言葉に詰まった。――その通りだったから。

 だが、すぐに気を取り直すと、唇を尖らせて反論した。

「で、でも、下調べなんかしたって何も変わらないじゃない。私がやるべきことは『人外のモノ(アウトサイダー)』を滅ぼすことであって、その素性を知ることではないでしょう?」

 そんな言葉に、『アル』は少しだけ悲しそうに嘆息した。

「……セインティアよ、何でも力で解決しようとするのではない。たとえ相手が何者であろうと、そこに秩序の光があるのならば、対話することは出来る。理解し合うことだって不可能ではないのだ」

 そこまで言うと、彼は寂しげな笑みでリリスを見た。

「……私はな、セインティア。欺瞞に満ちた説教師の言葉など信じてはいないが、少なくとも、「無限の闘争」が世界の真理――あるべき姿だとは、思っていないよ」

 不思議な重さのある、『アル』の言葉。口調は穏やかだったが、そこには生半可な反論など許さない確かな厳しさがあった。

 さしもの跳ねっ返り娘も軽々しく言い返すことは出来ず、思わずじっと押し黙ったが、

「……そもそも、まだ傷も塞がり切っていないだろう。医師として言うならば、出来るだけ激しい運動は避けるべきだ。戦いを回避出来るならそれに越したことはない。――まあ、昨日一日は大人しくしていたようだし、顔色を見るに、大分回復したようではあるが。肉体的には、充実しているようだな」

 そんな言葉に、リリスはむっとしてそっぽを向いた。

「ふん。どーせ、体力馬鹿ですよー、だ」

 そんな子供染みた言葉に『アル』は嘆息したが、

「やれやれ……何を拗ねている。私は、純粋に褒めたのだぞ?」

 そう言って、彼はふいに、リリスの頭にぽんと優しく手を乗せた。

 え? と慌てて顔を向けるリリスに、彼は続けた。

「お前の身体能力の高さと回復力は、賞賛に値する。それは、万人が必ずしも手に出来るものではないし――何より、一朝一夕で手に出来るものでもない。それは、今日に至るまでのお前の鍛錬、日々の積み重ねの結晶だ。誇るものでこそあれ、卑下するものではない。それはとても尊く、美しいものだ」

「――――」

 リリスは、瞬間言葉を失った。

 驚きもあった。この皮肉屋の『闇の魔獣』が、面と向かってこんなことを言うとは思ってもみなかったから。

 だけど、そうじゃない。彼女が言葉を返せなかったのは驚きなどではなく、気恥ずかしさと――何より、心の底から湧き上がる、抑え難い歓喜の故。

 人知れず行って来た自分の努力を、これほど重みのある言葉で認めて貰ったのは初めてだった。それも、安全な場所から物見遊山的に発せられた言葉ではなく、ほんの一夜とは言え、共に夜を駆けた者の言葉なのだ。……これほど嬉しいものはない。

「っ――」

 何かを言わなければ、と思う。すでに何だかおかしな空気が流れている。無言の時間が続けば続くだけ、この居心地の悪い空気は濃くなって行くだろう。

「っ――……」

 ――だが、何も言えなかった。リリスは真っ赤な顔をして、ただ俯くだけ。

 そんなこそばゆい静寂を破ったのは、彼女から言葉を奪った張本人だった。

「さて、セインティア。そろそろ本日の講義を開始するとしようか」

「……どーぞ」

 いつの間にか講義を受けることになっているのは些か納得がいかなかったが、取り敢えずは顔を上げた。この微妙な空気の只中にあり続けるよりは、余程ましだったから。

 黒衣の講師は、「うむ」と一つ頷いて、続けた。

「今し方論じたように、霊体――『ゴースト』を滅する為の手段は大きく分けて二つだ。

 一つは、『聖霊力』にものを言わせ、有無を言わさず力尽くで、その「存在」を現世から塵も遺さず抹消する方法。

 もう一つは、霊体に遺るヒトの意志と感応し、『精神的対話法』スピリチュアル・カウンセリングによって説得し、現世から自発的に立ち去らせる方法。

 ――要するに、前者がお前の、後者が私の趣味と言うことだな」

「……そうやって聞くと、何だかワタクシが物凄く悪者のように聞こえるんデスガ」

「ただ『方法』を語るべき時に、善し悪しを論じるのはナンセンスだな。お前自身が言ったように、魔の退散を望むだけならばどちらでも同じことだ。――ただ前者は、淑女の、ましてや聖女のやり方とは、とても言えないだろうがな」

 怖ず怖ずと手を挙げる出来の悪い生徒に、講師は涼しい顔で言った。

「うぐっ」

 思わず呻いて、押し黙る。ぐうの音も出ない。粗忽者であるのは自覚していたが、確かに、第一に力で排除することを考えてしまうのは、淑女とも聖女とも言い難かった。

 生徒が大人しくなったのを確認して、講師は続けた。

「力で排除する場合、物理攻撃が通用しないことにさえ留意しておけば、特に問題はない。『聖徒祈祷法』を中心に立ち回れば良いだけだからな。

 考えなければならないのは、『精神的対話法』を行う場合だ。

 まず、対象と精神を同調させる必要がある。これはイメージが重要だ。対象の発する『魔力』の奔流を「心の波」として捉え、そこへ己の『聖霊力』を併走させるイメージだ。多少の慣れが必要だが、そこそこの実力と想像力を持った『聖徒』ならば、これはさほど難しくはない。

 次に、対象と言葉を交わし、隠されている本音――現世に捕らわれている理由、即ち、無念の想いを引き出してやる。

 最終的には、語り掛けによってその無念を慰め、解消させるわけだが――このプロセスが、何より難しい。熟練の者でも、思わず力に頼ってしまいたくなるほどにな。

 ヒトの意志が遺っていても、相手は「悪霊」と呼ばれるようなモノだ。そこには、ごまかしようのない怒りと憎悪と悪意がある。嘘もつくし、口汚い言葉を繰り返すこともある。隙あらば、こちらの精神を絡め取って、道連れにしようと画策する。……それこそが「悪」としての本能であり、「魔」としての意志だからだ。

 何とかしてこちらを欺かんとする悪意。それに対抗する手段が必要になる。

 ――それが、知識だ。嘘を看破し悪意を退け、ヒトとしての本音を導くには、多くのことを識らねばならない。出自や生前の人間関係、生活環境や人柄――そして死因。それらを正確に把握して初めて、『精神的対話法』は成立するのだ」

 話はまだ続きそうだったが、リリスは既に頭を抱えていた。

「……考えただけで頭痛くなるんですけど。正直、私向きじゃないと思わない?」

 そんな呻きにも似た声に、しかし、『アル』は意外なほどあっさりとかぶりを振った。

「相手が『人外のモノ』と思うから身構えてしまうがな。実際、ヒトの悩みを聞いてやるのとそう変わらんよ。――存外、お前に向いているのではないかと私は思っている」

「あ……あ、そう……」

 何だか照れ臭くて、リリスは素っ気ない返事をして俯いた。

 リリスが口を噤んだのを確認すると、『アル』はそれを語った。


 ――その館には、凡そ三十年ほど前まで、とある裕福な商家の娘が住んでいた。

 彼女はまだ少女の頃に両親を失い、莫大な遺産を受け継ぎはしたものの、信頼出来る者もなく、たった独り、この広い屋敷に閉じ籠もって生きていくことを余儀なくされた。

 そんな彼女に人生の転機が訪れたのは、それから十数年のちのこと。

 娘時代も終わりを迎えたある日、彼女の前に一人の男が現れる。

 男は、長きに渡り孤独の中にあった女性に、優しい言葉で近付いた。

 己の孤独を癒してくれたその男に、女性が心惹かれたのは至極当然のことだった。

 間もなく二人は、この屋敷で共に暮らすようになり、将来を誓い合った。男は女性の孤独を癒し続けることを誓い、女性は自らの全てを捧げることを誓った。

 だが、女性の幸福は長くは続かない。男は、ある日を境に、女性の前から忽然と姿を消したのだ。――彼女の財産と共に。

 自らが騙されていたことを知った女性の悲しみは如何ばかりか。

 信頼も、愛する者も、財産をも失い、再び孤独の中に取り残された彼女が世を儚むのは、無理からぬことであった。


「――そうして、三十年余。今日、日増しに濃密さを増しているこの街の闇が、無念の想いに形を与えた。それが――」

 そこで言葉を一度句切ると、『アル』は自らのすぐ横に位置する窓から、肩越しに館の中へと視線を向け、言った。

「――それが、彼女だ」

 『アル』の視線の先には、荒れ果てた邸内を虚ろな瞳で彷徨う、ドレス姿の女性の姿がある。だが、本来見えるはずのない、彼女の「向こう側の景色」が透けて見えている時点で、彼女がどう言った存在であるのかは論ずるまでもなかった。

「間違いなさそうね。……どうするの?」

 すっかり気を取り直し、倣って邸内を覗き込んだリリスが問う。

「私に聞くな馬鹿者。筋道はつけてやったのだ、後は自分で歩いて見せろ」

 冷たく言い放った『アル』に、リリスは不満げに唇を尖らせながらも、その言に従った。即ち――

「じゃあ、私流にやらせてもらうわよっ」

 言うやリリスは、立て付けの悪くなったその窓を、窓枠から引っこ抜くかのような勢いで開き、微塵の迷いもなく邸内へと転がり込んだ。衝撃で腿の傷が痛んでちょっと泣きそうになったが、虚勢を張ってぐっと堪える。

 そんな彼女に、『アル』は「やれやれ」と嘆息しつつも、ひょいと窓枠を飛び越え、リリスの後に続いた。

 憚ることなく邸内に侵入した二人は、当然、すぐに気取られた。

 女幽霊の視線が己を捉えたことを察して、リリスは即座に身構える。

 しかし、

「あら……? お客様かしら……?」

 リリスの緊張を余所に、彼女――『ゴースト』は、のらりくらりとした態度を示す。

 気勢を削がれて思わず警戒を解きかけたが、

「――油断するなよセインティア。どんなに穏やかに見えても、相手が怨霊であると言うことを忘れるな」

 背後からのそんな言葉に、ハッとして背筋を伸ばした。

「……ええ、ごめんなさい、もう大丈夫よ」

 跳ねっ返りのリリスにしては殊勝な言葉だったが、それも仕方がない。これから、『精神的対話法』なんて小難しいことが待っている。それを思えば強がっている余裕などなかったし――そもそもこの男の前では、きっとそんな虚勢は無駄でしかない。

 リリスは今一度息を整えると、改めて『ゴースト』と対峙した。

「……初めまして、ご婦人(Frau)。少々お邪魔しても宜しいかしら」

 慇懃に。相手を極力刺激しないように。されど、けして怯まず、凛として。

「あらあら……うふふ。お客様なんて久しぶり……歓迎致しますわ、金色の(Gold)お嬢さま(Madchen)

 そう、裕福な生まれの淑女らしく、『ゴースト』は優雅にリリスを迎え入れた。

 しかし、次の瞬間、彼女はふと、残念そうに苦笑した。

「けれど……残念ですわ。今、夫は出掛けておりますの……。本来なら、夫婦揃って歓迎して差し上げたかったのですけれど……」

 そんな言葉に、リリスは眉根を寄せた。

「……ねえ、ちょっと。どう言うこと? 彼女、結婚詐欺にあったんじゃ……?」

 背後の『アル』に顔を寄せ、小声で訪ねる。

 『アル』は即座にかぶりを振って窘めた。

「惑わされるな、セインティア。相手は怨霊だと言っただろう。彼女は辛い現実から逃れるため、自らを欺いているのだ。自分は捨て行かれたのではない、夫はただ少し、出かけているだけなのだ――そう嘯き、そして自らも、それを真実だと思い込んでいるのだ。……哀しいことにな」

 そうだった。彼は言った。悪霊は嘘をつくものなのだと。ならばそれは、自らに対しても例外ではないのだ。

 得心が行って、リリスは『ゴースト』に向き直った。けれど、

「……本当に、哀しいことね」

 それだけは、言葉にせずにいられなかった。

 だが、哀れんでばかりはいられない。リリスは一つ大きく息を吸うと、改めた。

「……私は、ミヒャエル・セインティア。一応、『闇の狩人』なんてものをやらせてもらってるわ。宜しければ、貴女のことも聞かせてもらえるかしら」

 問うと、『ゴースト』は優雅に微笑んで答えた。

「ええ……もちろん。わたくしは、マルガレーテ・ポーラーと申しますわ……。一応、ポーラー家の当主と言うことになるのかしら……もっとも、事業からは疾うに撤退して、今は両親の遺した遺産に頼って暮らしておりますけれど……」

 リリスは一つ嘆息して、改めた。

「……ポーラーさん。単刀直入にお願いするわ。潔く、昇天して頂けないかしら?」

 そんな言葉に、『ゴースト』――ポーラー婦人は、きょとんとして言った。

「……昇天? 仰ってる意味がよく分からないのですけれど」

 ――そう、彼女は。自らが死人シビトであることすら、自覚していない。自らがこの世を儚んだ事実から眼を背け、嘯いているのだ。

 リリスは、一度何事か考えるように眼を閉じてから、続けた。

「――私ね、ポーラーさん。面倒臭いのって好きじゃないの」

「……はい?」

 穏やかに微笑みつつも、婦人は困ったように小首を傾げた。

 リリスは構わずに続けた。

「うじうじ悩んだり、迷ったり、考えたり……そう言うのって、凄い苦手。

 もちろんね、人間だから、全く悩まないわけじゃないわ。……けどね、思うの。長々と悩む時間があるのなら、その間に何か一つでも行動した方がいいって。明日に向かって、一歩でも進んだ方がいいって。

 ……向こう見ずのお馬鹿って言われちゃえば、それはそうなのかも知れないけど。でもね、私は今日まで、ずっとそうして来た。悩むな走れ、迷うな進め――って。

 それが正しかったのかなんて分からない。問題を見て見ぬ振りでごまかして来た部分もあるかも知れない。けれど、立ち止まらずに進み続けることだけが私の正義だった。

 ……そのせい、かしらね。私、意味もなく立ち止まっているヒトを見ると、凄くイライラするの。……だから、言わせてもらうわ」

 覚悟を決めるように息を吸って、言った。

「――貴女、いつまで眼を背けているつもり? ずっとここに留まっていたって、貴女は何も救われない。貴女を騙した男が戻ってくることもない。貴女が幸福だった日々は、もう二度と帰っては来ないのよ。それを、いつまでも未練たらしくこんなとこに居残って。引き籠もりの行かず後家が、死んでまで昔の男を引き摺って――正直、鬱陶しいのよ。ここにいたって、貴女が馬鹿で男に騙されたって事実は変えられないんだから、いい加減諦めて、とっとと昇天しちゃいなさいよ、ね?」

 相手を挑発しているとしか思えない、そんな言葉。

 婦人は、笑顔を凍り付かせて、俯いた。

「何を……仰っているのかしら……わたくしが騙されたなどと……人聞きの悪い……あのヒトがわたくしを騙しただなんて……」

 低く、暗い言葉。

 同時に、周囲の空気が張り詰めていくのを感じた。


 ――ミシィッ!

 ――パキンッ!

 ――パンッ!


 立て続けに響く怪奇音。それは、『ゴースト』の引き起こす超常現象。感情を昂ぶらせた『ゴースト』の発する、威嚇音だった。

「あのヒトの言葉が……全て嘘だったなんて……そんなこと――あるわけないっ……!」

 そうして、悪霊は顔を上げた。

 ――それは正に、爆音と呼ぶに相応しかった。『ゴースト』が、文字通りの悪鬼の如き表情を見せた瞬間、館内の空気が炸裂した。周囲の家具が粉々に吹き飛び、分厚い石壁は倒壊し、シャンデリアの揺れる天井は崩落した。

 周囲の状況は何も分からない。ただ、悪霊が暴れていることしか分からない。

 騒音と、埃とも土煙ともつかない白煙が立ち込める中――リリスは、黒い外套の中に包まれていた。

「……まったく、無茶をする」

 呆れたように嘆息する声が、頭上から聞こえた。

 気が付けば、『アル』の腕の中にいる。どんな揺り籠よりも安心するその場所で、悪霊の癇癪をやり過ごしていた。

「……いいわよ、馬鹿にして。自分でも、何やってんだろうって思うし」

 快い薔薇の薫りに包まれながら、リリスは自己嫌悪にぼやいた。

 しかし、『アル』はそんな彼女を責めはしない。

「分かっている。……辛かったのだろう?」

「っ――でも、責任は取らなきゃねっ」

 リリスは、零れそうになる涙をぐっと堪えて、心地好い温もりの中から身を起こした。

 金十字の短剣を抜き、十字の交差部に左手を添えるようにして構えると、白煙の向こう側、我を忘れ荒れ狂うそれに向けて唱えた。

「――父と子と聖霊の御名に於いてミヒャエル・セインティアが願い奉る! 狩猟の守護聖人フーヴェルトゥスよ、我らが主に仇なす者へ聖なる戒めを与え給え!」

 瞬間、リリスの全身が黄金色の光に包まれた。そしてそれは、間もなく幾本もの光の筋となって、彼女が対峙する標的――即ち『ゴースト』へと、文字通りの光の速度で伸びて行く。

 白煙の中に消えていく光。「ギャア」と、何かが呻く声が聞こえた。

 ……そうして。それから、どれだけの時間が過ぎたろうか。爆音はおろか物音すらしなくなった邸内。白煙が晴れたその先に、それはあった。

 それは、何と表現されるべきモノだったのか。例えるならば、溶けかけたチーズ。辛うじてヒトの顔らしきモノを残すだけの爛れたカタチ。それは、水死体の如く巨大に膨れ上がった、醜い不定形の怨嗟の固まりだった。

 だが、注目すべきはその異形ではない。見るべきは、それに幾重も絡みつき、一切の行動を抑制する、黄金色に輝く光の捕縄。

「『フーヴェルトゥス捕縛法』か。……見事だ」

 そんな、背後からの呟き。

 しかし、リリスは答えなかった。ただ黙したまま、変わり果てた彼女の元へと歩み寄った。

 見上げれば、既に丸い孔でしかない暗い眼孔が、憎々しげにリリスを見下ろしていた。

「……今、終わらせてあげるわ」

 抑揚なくぽつりと言って、再び短剣を構えた。

「……父と子と聖霊の御名に於いてミヒャエル・セインティアが願い奉る。公正の守護天使ミヒャエルよ、戒めの捕縄に神の慈悲を与え給え」

 瞬間、『ゴースト』を拘束する光の捕縄が輝きを増した。その眩しさに恐怖したのか、『ゴースト』は一際高くうめく。

「……ごめんなさい」

 眼を閉じて、言った。

「貴女の深い悲しみに対して、私は余りにも未熟だわ。貴女の苦しみを癒してあげるどころか、ただ声を聞いてあげることも出来ない。……だから、これが、今の私に出来る精一杯。……主よ、どうか、この哀れなる魂に救済を――アーメン」

 祈りと共に、捕縄の輝きは更に強くなる。光は怨嗟にうめく『ゴースト』の身を焼き、崩れかけたその身を溶かす。徐々にカタチを失っていく彼女。

 そうして、慈悲の光に抱かれたまま、やがて哀れな魂は夜の闇に消えた。

 後に残された光の縄が霧散するのを見届けて、リリスは漏らした。

「……この地上の「存在」には、須く目的がある。……なら、彼女の目的は何だったの? 復讐? ……それとも、自分を欺き続けること自体が目的だった?」

 ――それは、永劫に続く、苦痛を伴う自慰行為。

「……そんなのは哀し過ぎる。……痛過ぎる、よ」

 消え入るような、掠れるような声で呟くと、リリスはぎゅっと自らの肩を抱いた。

 だが、それに応える声はない。今は、その問いに答える時ではなかったから。

 ただ、彼女の小さな背を見つめる灰色の瞳は、言っていた。


 ――ならば、お前の「目的」は何なのか、と。



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