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[Die zweite Nacht]『ファウスト』――夜の遺児 2

[2]

 売り言葉に買い言葉、と言う言葉がある。良好な人間関係を築きたいのなら、絶対にしてはならないことの一つだ。深い思慮のない勢いだけの暴言では、お互いを理解しあうことは疎か、論理的な話し合いすら困難だ。

 しかし、ヒトには「感情」と言う名の大きな制約がある。時として、感情の昂ぶりに任せて非論理的なことも言ってしまうのが常。自らに譲れないものがあればあるだけ、その機会は増えるだろう。

 ――もっとも。元来感情の起伏が激しく、論理的な思考が不得手で、自制心のまるで利かない馬鹿――もとい、粗忽者であれば、それは起こるべくして起きたことなのであるが。

(……自業自得と言いたいのね?)

 無意識が受け取った何処いずこからかの声に、リリスは不平の声を漏らす。……不平を漏らされても、事実なのだから仕方がない。

「……ふむ。何やら雑念が見えるな。そんなことで、果たして私を納得させるだけのものを見せて頂けるのですかな、聖女殿?」

 その皮肉げな『アル』の声は、リリスの背後からのものだ。彼は、リリスから少しばかり離れた石壁に寄りかかり、軽く腕組みなどしつつ、見世物でも見るように気楽そうな顔で微笑んでいた。

 そう、彼は見物していたのだ――聖女の戦い振りを。

「っ――気楽でいいわねっ、あんたっ……!」

 苦し紛れに怒号を上げたリリスの横を、何かが高速で通り過ぎて行く。それはそのまま上空へと曲線を描いて駆け上がると、リリスを俯瞰する位置でぴたりと静止した。

 それは、ヒトと蠅を掛け合わせたような姿をした化け物(ヴァンピール)だった。


 ――『力』を失うことになるだろう。


 ……つい先刻、彼はそう言った。

 それは、俄には信じ難い言葉だった。

 リリスにとって、『聖徒』の力――『聖霊力』は、物心が付く以前から常に傍にあるものだった。それはいつも己の内から湧き出してきて、尽きることはない。量も質も、年を経るほどに強力になっていくものだと信じて疑わなかった。

 それが、失われる?

 そんな理不尽な話があるだろうか。これまで当たり前で、これからもそうであると疑わなかったものが、ある日突然失われる。しかもそれを、見も知らぬ男――それも、自らの天敵であろう者に宣告されるなど。

 ……想像など出来なかった。したくなかった。『聖霊力』を失い、『聖徒』でなくなった自分など――両親との絆を失くした、自分など。

 恐怖心は、燃え上がる怒りとなった。人一倍負けん気の強い、跳ねっ返りのお転婆娘である。その後の展開は想像に難くないだろう。

 正に、売り言葉に買い言葉。リリスは、あの気楽そうな黒ずくめの男に、自らの聖性を、そして何よりその普遍性カトリシズムを、見せつけてやらなければならなかった。

 そこで出会ったのが、彼の『闇の眷属』。醜悪な蠅の化け物だった。

「っ――ほんとに醜悪ねっ……!」

 忙しなく矮小なハネをばたつかせる『闇の眷属』に、リリスは悔し紛れに吐き捨てて、もう幾度目かの迎撃体制を取る。

「だいたい、空を飛べるなんて卑怯なのよっ! この傲岸不遜の『規則違反者アウトサイダー』めっ! 男なら地面に降りて正々堂々戦いなさいよねっ! ――そもそも男かどうか分からないけどもっ!」

 そんな風にぎゃーぎゃーと騒ぎ立てるリリスを、上空からじっと見据える蠅男。その物言わぬ真っ赤な複眼には、きっと何千人もの少女の姿が映し出されているのだろう。

「……鬱陶しさも何千倍だな」

 ぼそりと漏れたそんな呟きは――幸い、リリスの耳には届かなかったが。

 しかし、それはつまり、彼女の余裕のなさの現われでもある。口では強がって見せていても、今の彼女には感覚を外野に割くような精神的余裕はない。

 だが、それも無理からぬことだ。彼女には実戦経験が少ない。相手が空中を飛んでいるだけでも厄介なのに、加えて、先ほども見せたスピードだ。

「っ――!」

 ふいに滑空し肉薄する蠅男。

 リリスは瞬間的に横方向へ飛び退る。

 獲物を逃して、再び空へと舞い上がる蠅男。

 ――先ほどからずっと、その繰り返し。

 一陣の風の如き突進を紙一重で躱し切る、その動体視力と身体能力、そして鋭い勘は賞賛に値するだろう。しかし、彼女は敵の攻撃をただ避けているに過ぎない。肉薄した瞬間に攻撃に転ずるか、攻撃に転ずるきっかけを作り出さなければ、いたずらに体力を消耗するだけだ。

 消耗戦になれば、無尽蔵の体力を誇るケモノには敵わない。このままでは、勝敗は見えている。

 ――或いは、その焦りが油断になったのか。

 リリスは、次の攻撃を避け切れなかった。

「――っ……!?」

 ふいに走る痛み。駆け抜けた一陣の風は、カマイタチとなって少女の身を切り裂いた。

 腰の砕ける感覚に逆らえず、リリスは敵に背を奪われたまま、石畳に膝を突く。見れば、カソックの腿の辺りが裂け、赤いものが滲んでいる。

 麻痺しているのか、傷の痛み自体はさほどではない。しかし、足首までをすっぽり覆うカソックの下で、少なくはない量の生温い液体が脚の上を流れる感覚がある。傷は、けして浅いものではないようだった。

「――これまでだな」

 リリスが膝を突いたのを見て、これまで気楽そうな顔で傍観していた男が動いた。

「えっ……?」

 ふいな気配に驚いて、肩越しに振り返る。いつの間に移動したのか、すぐそこに『アル』の大きな背中。彼は、まるでリリスを庇うかのようにそこに立っていた。

「え、ちょ、なっ……?」

 何が起こっているのか分からず眼を白黒させるリリス。

「……心配ない。すぐに済む」

 『アル』は穏やかな声でそう言うと、丁度腰の辺りにあるリリスの頭に、ぽんっ、と軽く、その大きな手を乗せた。

 その手は黒革の手袋に包まれていたが、そんなことを感じさせないくらいに不思議と暖かくて、リリスはそれ以上、何も言うことが出来なかった。

「ア……ル……?」

 混乱した頭と心を抱えたまま、何とはなしに彼の名を呼んでみる。その名の響きのせいだったのか、はたまた、義母から受けるそれとはどこか違う、男性の持つ温もりと言うものを初めて感じたせいだったのか――段々と、顔が熱くなっていくのを感じていた。

 少女が自身の体の変化に戸惑っている間にも、状況は刻一刻と変化して行く。彼女を傷付けて一時は飛び去った蠅男も、今ではすっかり体勢を立て直し、突然割り込んだ黒ずくめの男を赤い複眼で睨めつけていた。

 一方の『アル』もまた、先ほどまでの気楽そうな笑みが嘘のように引き締まった顔で、けして油断なく、上空の同胞を見据えていた。

 そんな彼の凛々しい背中に、少女はどこか陶然としたような眼差しを向ける。理由は分からなかったが、その時彼女は、時の流れすら忘れてしまっていた。

 しかし、彼女の胸元に揺れる懐中時計が新たな時を刻んだ瞬間、世界は再び動き出した。

 遥か上空の敵は、彼を聖女以上の強敵と判断したのか、これまでよりもよほど速く、渾身の勢いで突進を開始した。万全のリリスでも避けられるか分からないスピード。『アル』はよほど避ける自信があるのか、微動だにしない。

 ――いや。

(……避ける気が……ない……?)

 ふと湧いた疑問。だとしたら、それは何故なのか。

 ――考えるまでもない。避ければ、そこにはリリスがいるからだ。

 彼は、自分を護ろうとしている。

 その考えに至った時、リリスは叫んでいた。

「ダメっ! アルっ、避けてっ――!」

 しかし、彼は結局、敵の突進を避けようとはしなかった。鋭利な槍と化した蠅の前肢は、ついぞ勢いを失うこともなく、彼の胸元へと吸い込まれていった。

 ……だが、どうしたことか。それから幾度も懐中時計の針が動いたが、一方の『アル』は未だ微動だにしない。黒く大きな背中は、力を失い頽れるどころか、変わらぬ様子で力強く立っている。血の雫の一滴すら滴る気配はなかった。

 ――当然だ。彼の胸は、貫かれてなどいなかったのだから。

 『アル』の胸を刺し貫くはずだった蠅の前肢は、すんでのところで静止していた。理由は明白だ。そのうでの中ほどを、きつく押さえ付けられていたからだ――他ならぬ、『アル』の手によって。

 蠅男は、その醜悪な顎をギチギチと鳴らし、紅い複眼をギラギラさせて抗議する。

 当の『アル』は、それを涼しい顔で受け流す。

 やがて、痺れを切らした蠅男は、別の肢を鎌のように振り上げた。

 しかしその刹那、静観していた『アル』がふいに動いた。彼は蠅男の肢を掴んだまま、ぐるりと体を翻すと、掛かる遠心力に任せて、まるでそこへ帰れとでも言わんばかりに、蠅男を遙か上空へと放り投げた。

 蠅男は抗うことも出来ず、無様な格好のまま中空を滑走する。だが、それでも一応は大空を戦場とするモノだ。すぐさま体勢を立て直し、悔しげに敵を振り返った。

 ――だが。

 振り返った蠅男の真っ赤な複眼に映ったのは、豪奢な『火打ち石式拳銃フリントロックハンドガン』を半身に構える敵の姿だった。

《ギィッ……!》

 死の恐怖にそう鳴き声を上げた時にはもう遅かった。赤い複眼に映る何千もの銃口は、欠片ほどの躊躇もなく、一斉に火を噴いた。


 ――ガァンッ……!


 一閃。夜闇の中に一筋の光となった銃弾は、違わず蠅男の頭蓋を撃ち抜いた。

 ……その光景を、リリスは見ていなかった。辛うじて、何かが上空から地に墜ちる音を虚ろに聞いただけだ。彼女はただ、肩越しに見える彼の姿だけを見詰めていた。片手に豪奢な武器を構え、揺るぎのない毅然とした瞳で敵と相対する、黒ずくめの男の姿を。

 だが、そんな夢現のような時間は、他ならぬ彼自身の手によって打ち切られた。『アル』はふいにリリスの腕を取ると、少しばかり乱暴に彼女を立ち上がらせた。

「っ……! あ、アルっ? 何をっ……」

 傷に走った閃光のような痛みに、思わず顔をしかめるリリス。『アル』は、厳しい視線を向けて言った。

「……立て、セインティア。お前にはまだやるべきことが残っている」

 導かれるままに振り向けば、そこには、頭蓋を打ち抜かれながらも辛うじて生き長らえている、蠅男の姿がある。だが、蠅男はもはや身動き一つ出来ず、後は、じわりじわりとにじり寄ってくる死を、耐え難い苦痛の中でただ待つのみだ。

「死の影に怯える迷い子に、神の慈悲を与えてやるのは『聖徒』の務めだろう。その程度の痛みに屈し己の使命も果たせぬなど、それでも『聖女』の名を冠する者か」

 非情な物言いに、リリスはハッとした。今更ながらに思い出したのだ――この男は『聖徒』の、そして自分の敵であるはずなのだ、と。

「わ……分かってるわよ、そんなことっ! 『闇の魔獣』なんかに言われなくたって、私は『闇の狩人』よっ……!」

 吐き捨てるように言うと、自身の腕を掴む『アル』の手を乱暴に振り払って、リリスは歩き出す。

 今や傷は酷く痛み、鮮血は留まることなく脚を伝い、嫌な汗が全身から吹き出していた。引き摺る足は枷をはめたように重く、今にも倒れてしまいそうだったが、『狩人』としての強靱なプライドが、ぎりぎりのところで彼女を支えていた。

 力なく地に蹲る蠅男の元まで辿り着くと、リリスは腰に下げた巾着袋から聖水の入った小瓶を取り出し、それを蠅男の上に掲げ――ゆうるりと、唱えた。

「……肉体は土より出でたり、されど霊は土より入れられたるものなり――」

 そうして、手にした聖水を蠅男の上に振りまいた。

 「ギィ!」と、蠅男が一声泣いた。それは、彼の断末魔の声。

「……肉体は土より出でたり――」

 そうして、二度三度。そうするうちに、『闇の眷属』の体は薄い煙を上げながら、くすんだ灰色の塵となって、やがてアイナの緑風に吹かれて夜闇に霧散した。

「……永遠の安息を――アーメン」

 最後にそう唱えて、小さき聖女は哀れな死者を見送った。




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