[Die zweite Nacht]『ファウスト』――夜の遺児 1
[1]
――アイナヴィリスナートには、悪魔が眠っている。
そう語られるに至った歴史的経緯は、以下の通りである。
十五世紀、エルデーイ――当時のアイナヴィリスナート地方――は、暗雲に包まれていた。エルデーイ侯バートリは、本国からの干渉が少ない辺境であるのを良いことに、民衆の生活など省みず、日々、夫人と共に際限のない享楽に耽っていたのである。
大地は荒廃し、貧困による飢えの故か、街からは日毎に年若い少年少女の姿が消えて行く。……その背後には、常にバートリ夫人の血腥い噂話が付き纏っていた。
そんな折、とあるザクセン人の治める町で、一人の女性が保護される。
女性の名は、エリザベータ・ドラクレア。バートリ家の遠縁に当たる下級貴族の娘で、低い身分ながら女官として多方面で辣腕を振るい、斜陽のエルデーイにあって唯一、その才媛ぶりと容貌の美しさでヒトビトから羨望される人物だった。
堕落したバートリ配下の貴族たちの中で、唯一彼女だけが、エルデーイの行く末と貧困に喘ぐ民を案じていた。生真面目で心優しい彼女がバートリ家を批判・糾弾するに至ったのは、ごく自然な成り行きだったろう。
しかし、低い身分でありながら、十分な後ろ盾もなく主君に刃向かうと言うことは、つまり、処断は免れぬと言うこと。反乱を防ぐための盾として利用されていた側面があったとは言え、その免罪符にも限界があった。
結果的に、バートリ夫人の側近に命を狙われた彼女は、失意のまま、単身落ち延びることとなったのである。
彼女を保護したのは、勇猛で知られたドイツ騎士団の末裔であり、とある商家の子であった、ヴラドと言う名の心優しくも精悍な青年だった。
ヴラドの家は、ザクセン人の保有するその特権から、バートリ家の暴虐を逃れて来た者を多く保護しており、エルデーイの破滅的な状況を良く理解していた。エリザベータに助力を請われた彼は、先祖伝来の『ドイツ式両手剣』を携えてレジスタンスを組織し、悪魔の暴君へと立ち向かうことを決意した。
ドラクレア家の徽章である竜の紋章を旗印に、エリザベータのカリスマの下、エルデーイの多くの民を味方に付けた彼ら『ドラゴン騎士団』は、さしたる時を待たずして、エルデーイ侯の居城へと到達する。
――余談であるが、その時、「悪魔の花嫁」バートリ夫人は、正に今、無数の少年少女から搾り取った赤色の液体に身を浸さんとしている最中だったと言う。
それから間もなく、長く領民を省みず、享楽と悪逆の限りを尽くしたバートリ夫妻は処断され、一躍英雄となったエリザベータと、彼女の夫となったヴラドは、民衆の熱狂的な声と、それに後押しされる形で重い腰を上げた本国からも承認を得て、その肥沃で広大なエルデーイの支配権を獲得することとなったのである――
† † † † †
若干十七歳のヴァンパイア・ハンター、リリス・ミヒャエル・セインティアは考える。
――自らに最も足りないものは何か。
(――多分それは、実戦経験)
ヴァンパイア――『闇の魔獣』とは、『理の外にあるモノ』だ。即ち、常識の埒外にある存在なのである。
そんなモノと、ヒトはどう戦えば良いのか。何を以て対抗すれば良いのか。
力を持たないヒトビトの答えは決まっている。
――『聖徒』。そして、彼らの持ち得る『聖なる力』。
だがそれは、ただの漠然とした、ともすれば無責任で独り善がりな認識でしかない。具体的に、その力をどう振るえば良いのかなど、彼らには分かるはずもない。
『聖徒』自身とて、確信を持ってその力を振るっている者は、ほんの一握り。
まして、若輩者なら尚更だ。ある程度のセオリーは学べど、結局のところは、経験の中で自ら培っていくしかない。ベターの中から、自らのベストを模索していかなければならないのだ。
経験値。どんなに才能や知識があろうと、それがなければ実戦では何の役にも立たない。運悪く強敵と対峙すれば、経験を積む以前に命がないだろう。
(……そうよ、相手が弱かったから助かったのよ、悪かったわね)
誰に対するでもなく、リリスは胸中で毒突いた。……額に巻かれたぐるぐる巻きの包帯が痛々しい。
――それは昨夜の出来事だ。いつも通り、日課の夜回りを行っていたリリスは、夜闇に輝く紅い双眸と出会した。幸いそれは、『闇の眷属』と呼ばれる亜人間の一種であり、前日に出会った『闇の魔獣』ではなかったが、それでもリリスは苦戦を強いられる。
それはリリスにとって大きな屈辱であり、大きな焦燥を呼ぶ事実だった。
『聖徒』と言うものには、相手の『魔力』の質と量を計る能力が、生まれながらにある程度備わっている。それは、若輩者のリリスとて例外ではない。
つまり、昨夜出会った『闇の眷属』も、その前に出会った『闇の魔獣』も、大凡の強さを測ることはリリスにも出来たのだ。
――リリスは焦燥を覚えた。しかしそれは、ただ苦戦した、と言うことが問題なのではない。その苦戦した相手が、当面の目標としている標的と比べて、凡そ取るに足らない実力しか持たないであろう雑兵だった、と言うことが問題だったのだ。
『理の外にあるモノ』に対抗する定めの『聖徒』は、悪しき『魔力』と対になる『聖なる力』――三位一体の『聖霊』に由来する神秘的エネルギーをその身に宿し、その潜在力は、主に髪の色と瞳の色に現れる。
即ち、鮮やかな黄金色に包まれるリリス・セインティアと言う少女は、潜在力だけで言えば破格の才を持っていると言うことになる。
――なのに、雑兵相手に苦戦した。それは何故か?
(……経験不足だから)
全ては、そこに帰結する。
敵と相対した時の、現実的な、効率的な立ち回り方が分からない。防御すべき時、攻撃すべき時が分からない。優勢なのか、そうでないのか分からない。……だから、止めを刺すタイミングを見誤って、手痛い反撃を食らうことになる。
しかし、どれだけ悔しくとも、許せなくとも、こればかりはどうしようもない。この年まで、まともに実戦を経験することもなく、ずっと義母の庇護下にあったのだから。
泣き言を言っていてもしょうがない。十分な猶予も保障もなく、夜毎命と経験を天秤に掛けることになろうとも、逃げるわけにはいかない。
(そんなことは分かってる。だからこそ)
――リリス・ミヒャエル・セインティアは、今日も夜の街を駆けていた。
「しっかりしなさい、私っ……!」
リリスはぶんぶんと頭を振って、思考を切り替える。
夜の街を席巻する噂。恐らくは夕べのあれが、「ヒト型をした毛むくじゃらの化け物」なのだろう。つまりは、噂の一つは片付けたことになる。
とは言え、いかがわしい噂はまだまだある。
今夜は果たして、何と遭遇することになるのか。屋根の上を飛び跳ねる人影か、或いは夜空を舞う翼のある影か。何モノにも出会わなければ、街外れの廃屋へと足を伸ばすつもりでもある。
「っ――」
ずきり、と額の傷が痛む。けれど。
「……立ち止まってるわけにはいかないわ」
そう、リリスが決意の声を上げた時だった。
「――その心意気や良し」
夜闇の中に凛と響くその声は、聖女の遥か頭上から降り注いだ。
振り仰ぎ見てみれば、果たしてそれは、そこに在った。
欠けた月を背景に、建物の上から悠然とこちらを見下ろす長身の人影。――もっとも、それが『ヒト』である保証など、どこにもなかったわけだが。
「誰……!? そこで何をしているの!?」
問うと、人影は少しばかり離れた影中に舞い降りた。ヒトであれば、着地の瞬間に命をも落としかねない高低差だったが、されどその影は、軽やかな羽毛の如くひらりと地上に舞い降りた。
――『それ』が何であるのか、問うまでもなかった。
リリスはハッとして、咄嗟に腰に下げた短剣に手を掛けた。シャラン、と言う軽やかな鎖の音と共に、銀色の軌跡が夜闇に描かれる。
「し――主の代行者ミヒャエルが問いますっ……! 其は、ヒトの子に仇為すモノや否やっ!? とっ、疾く答えよっ……!」
何とか口上を述べ気勢を上げるリリスだったが、その声は微かに裏返り、剣を持つ手は震えていた。
そんな少女を嘲笑うかのように、未だ影中に隠れた『それ』は言った。
「ほう? 剣を構えることを覚えたか。夕べもその前も、その切っ先は平身低頭、礼儀正しく頭を垂れていたと思ったが。いやはや、いつの世も、子供の成長力には眼を見張るものがあるな」
皮肉げな――と言うより、完全に皮肉であったのだろうが――飄々としたその言葉に、リリスは短剣を構えたまま、極力平静を装って答えた。
「っ……お褒め頂き光栄だわ! これでもまだ成長期なものでねっ……!」
普段の彼女であれば怒号の一つも上げていたところだったが、この状況で不用意な言葉を返すほど彼女は脳天気ではない。けれど、余裕のない自分を悟らせてもいけない。その言葉が、今のリリスに出来る最大限の抵抗だった。
しかし、そんな彼女に、『それ』はさらに愉快そうな声を上げた。
「なるほどなるほど、まだまだ発展途上と言うことか。ふむふむ、なれば、その哀れみを誘う貧相な胸回りや腰回りも致し方なきことか。近頃の子らは発達が早いものと思っていたが、いやはや、これは早合点。未来ある貴殿には無用な憐憫だったかな」
はっはっは、と夜闇の中に高らかと響くわざとらしい哄笑。――否、嘲笑。
リリスは、腹立たしさにぎりりと歯を噛んだ。
「っ――いいから答えなさいっ……! 貴方は私の敵か、否か!?」
そんな怒号に近い言葉に、『それ』はふむ、と一つ頷いて言った。
「それは、剣を向けた相手に問う言葉ではないな」
「……?」
意味が分からず、リリスは眉根を寄せた。
「分からないか」
『それ』は言った。
「お前がその剣を収めるならば、私はお前と言う独り子を光差す庭に導こう。だが、あくまでも剣を向け続けると言うのならば、私は私の護るべきモノのために――」
……ゆうるりと。
「――お前の未来を、摘み取らねばならない」
――『それ』は、影中から姿を現した。
『それ』は男だった。……けれど、それが疑わしくなるほどの端整な顔立ちだ。顔の半分は長く伸ばした灰の髪で隠れてしまっていたが、それでも、女性と見紛うばかりとは正にこのことだった。
身に纏う漆黒の外套は若干時代遅れではあったが、滲み出る貴族然とした優雅さと落ち着きのせいか滑稽さは感じられず、むしろ、『人外のモノ』が放つ妖しく神秘的な魅力を良く引き立てているようだった。
「――――」
リリスは瞬間に身を硬くして、口を開くことも侭ならなくなった。
彼は、紅い眼をしてはいなかった。刺々しい『魔力』や、殺意も狂気も感じさせなかった。けれど、その深く澄んだ灰色の瞳に見据えられた瞬間、確信したのだ。
――この男と戦ってはならない。
美しさに絆されたからではない。敵わないからでもない。正体不明の何か。言葉に出来ない何かが、今、彼と戦うべきではない……と。そう、告げていた。
「……惚けているところを申し訳ないが、そろそろ剣を下ろして頂けるかな、お嬢さん」
そんな言葉に思わずびくりとして、反射的に手を下ろす。すぐにしまったと思ったが、もう遅い。一度従ってしまった時点で、リリスの負けだった。
それは男も承知しているからか、彼は満足げに微笑むと、
「忠告を聞き入れて頂き感謝する。強がっては見せたが、実を言うと、女子供を手に掛ける趣味はなくてな――かつては、騎士の誓いを立てたこともある身の上ゆえ」
そう、本気なのか冗談なのかも定かでない言葉を吐いた。
馬鹿にされているような気分で心中は穏やかではなかったが、一つ大きく息を吸って自身を戒めると、リリスは改めて問うた。
「……貴方、何者?」
「これは異なことを言う。私の正体など、先刻承知のはずだが?」
試すような笑みで男は言った。
再びの苛立ちを必死に堪えながら、リリスは続けた。
「っ……ええ、ええそりゃあね、これだけわざとらしく登場して頂ければ、貴方が凡そ『ヒト』とは違う存在であろうことは、よぉく分かるわ。けど、私に分かるのはそれだけ。貴方の名前や出自は知りようがないわ。そうでしょう?」
「確かにな」
ふむ、と感心したように頷いて。
「されど、名と出自か。すまぬが、どちらも語るに憚る事柄だ。何、大した身の上の者ではないさ。つまらぬケモノの端くれと思ってくれれば良い。……それでも名を請うと言うならば――そうだな、『アル』とでも胸に留めておいてくれ。従者の中には、私をそう呼ぶ者もいるのでな」
とは言うものの、その止ん事無き身分の者が纏う独特の気品は、到底隠せるようなものではない。……なかったが、元よりリリスは、他人の身分などにはさほど興味のない人間だ。彼の名は『アル』、とだけ胸に刻んで、それ以上問うことはしなかった。
「……それで、その『アル』さんとやらが、いったい私に何の用? 私が貴方たちの天敵であると承知して、その上で姿を見せたんでしょう? 戦う気がないと言うのならいったい――」
「まあ待て」
早口で捲し立てるリリスを、『アル』は軽く手を上げて制した。
「気持ちは分かるが、私だけに名乗らせると言うのは、フェアでないとは思わないかね? 先ほどの口上は『聖徒』としての名乗りであって、本名ではないだろう。お前の言う天敵であるとは言え、名くらい問うても良いと思うがな――何も、お前の貧相な身体のサイズや、男性遍歴まで問おうと言うのではないのだから」
「なっ――」
ふいに投げ掛けられた言葉に、リリスは瞬間、頭の中が真っ白になった。
次の瞬間脳裏を支配したのは、押さえ難い怒りと羞恥。
「あ――あっ、当たり前よっ! 何で私がそんなこと、貴方に答えなくっちゃいけないのよっ!? だいたい、私そんなに言われるほど貧相な身体じゃないしっ、それに男性遍歴なんて、語れるほどのことは何も――って……ハッ!?」
真っ赤な顔で声を荒げてしまってから、いつの間にか『アル』のペースに巻き込まれていた自分に気付く。……が、後の祭りである。『アル』は真っ赤な顔のリリスから顔を背けるようにしながら、くっくと笑いを堪えている。
「っ~~~――リリスっ! リリス・ミヒャエル・セインティアっ! それが私の名 前っ! これでご満足っ!?」
悔し紛れにぶちまけるリリス。『アル』は満足げにふむふむ、と二回頷いた。
「なるほどなるほど、なかなかに興味深い名だな。では、ここは格調高く『聖女様』とお呼びすることにしよう」
「ふん、好きにしたらいいわっ」
勢いに任せてそう嘯いたリリスだったが、すぐにハッとした。
「――じゃなくてっ! 名乗ったんだから、とっとと貴方の目的を話しなさいよっ!」
そんな聖女の怒声に、『アル』はふむ、と頷いて――
「……楽しませてくれた礼に、一つ、予言をしよう。……セインティア、このままだとお前は――」
そうして、彼はこともなげに告げた。
「――近い将来、その『力』を失うことになるだろう」