[Die erste Nacht]『アイナ』――光陰の潜む街 4
[4]
アイナの夜には、異変が起こっている。
それは何も、件の事件だけの話ではない。嘘か誠か、様々ないかがわしい噂が、街を席巻していたのである。
例えば――
ヒト型をした毛むくじゃらの化け物を見た、だとか。
屋根の上をぴょんぴょん飛び回る人影を見た、だとか。
夜空を舞う、翼を持った何かの巨大な影を見た、だとか。
ずいぶん前に廃屋となったはずの屋敷に、女の亡霊が出る、だとか。
街角の娼婦には淫魔と契約した魔女が混じっていて、客の生気を奪う、だとか。
北の崖上の城には、ヒトの血肉を養分とする薔薇の化身が住んでいる、だとか。
学院のどこかに、フニャディ以前の領家の秘宝が隠されている、だとか。
時を止めた時計塔には、不老の魔物が住んでいる、だとか。
――枚挙に暇がないとはこのことだろう。
どれもこれも、歴史の古い街にはありがちな怪談話だったり、今まで誰もが迷信だと思って取り合わなかった、胡散臭いカビの生えた伝承だったりで、正直眉唾な話ではある。
しかし、火のないところに煙は立たないと言う言葉もある。『闇の魔獣』や、それに類する脅威から街とヒトビトを守るためには、愚にもつかない噂話とて、無視するわけにはいかない。
そんなわけで、リリスの当面の仕事は、件の『闇の魔獣』を捜索しつつも、それらの噂を一つ一つ虱潰しに検証することだった。
もっとも――
(……いきなりのニアミスで、出鼻を挫かれちゃったわけだけど)
ヒトの生き血を吸う化け物の目撃談は、これまで一つもない。多くの犠牲者を出し、総督自らが対策に乗り出すほどの事態になっていると言うのに、である。
――つまりそれは、「出会ってしまったら終わり」だから、だ。
それを、今のリリスは確信出来る。未熟とは言え、対抗する力を持ち得るリリスですら、あの紅い双眸に射抜かれただけで身動き一つ取れなくなってしまったのだ。もし『あれ』とヒトが出会ってしまったら、まず命はない。
……しかし、リリスは生き残った。彼女がただのヒトではないから? ――違う。それは別に、彼女が特別な存在だったからではない。
(――分かってる。あの時、私は)
そう、彼女は助けられたのだ。それが何者だったのかは分からない。けれど、確かに彼女は助けられた。正体の分からない何者かに。『闇の狩人』である自分が。倒すべき宿敵を眼の前にしながら。
それは、耐え難い屈辱だった。別に、自らが強いなどとは思っていない。未熟であること、経験不足であることは認めている。……しかし。それでも。『闇の魔獣』の前では、毅然としていなければならなかった。何があっても、恐怖に屈するなどあってはならなかったのだ。
だのに。恐ろしさに剣を抜くことも忘れ、足が竦み、尻餅をついた上に、素性も知れぬ者に救われてしまった。しかも、その相手は名を名乗ることも姿を見せることもしなかった。まるで、取るに足らぬモノのように扱われた。それも許せなかった。
(――なんて)
――なんて無様な。
そんな自分が情けなくて、悔しかった。
正直、今、もう一度あの赤い双眸と出会ってしまったら、勝てる自信はない。震える手で剣を抜いたところで、対抗することは出来ないだろう。しかし、それでも恐怖に屈することだけは出来ない。
あんな屈辱を、二度と味あわないために。
――何より、顔も知らない、亡き両親のために。
……今はただ、それだけが、夜を駆ける少女の心と体を支えていた。
† † † † †
アイナの夜は、静まり返っていた。
他でもない。ここ半月の間、立て続けに起きた凄惨な事件のせいだ。
総督自身の名で夜間の外出は厳しく制限され、そうでなくても、ヒトビトは夜の闇を恐れて家の中に閉じこもった。日暮れと共に街の灯は消え、夜半から未明にかけての街は、まるでゴーストタウンさながらの様相を呈していた。
「……酷いものだな」
欠けた月の照らす、背の高い家屋の上から、男はじっと街を見下ろしていた。
「……静か、ですね」
側近くに控えていた、黒いウェストコート姿の少年が控えめに従った。
「アイナ地方は辺境ではあるが、東西交通・交易の要地であるために、照明設備などのインフラは世界の大都市と比べても遜色はない。本来であれば、真夜中であろうと灯りが完全に消えることはないだろう。……だが、今は街灯すら疎らで、民家の灯は完全に消え、酒場街すらも深い闇に包まれている」
だが、そこには未だ眠ることを知らぬモノもある。
「――見よ。今宵も何処からか闇のモノが這い出して来たようだ」
そう言って男が指し示した闇の中に、それはあった。
それはヒトであってヒトではなかった。背はずんぐりと丸まり、手足は細く鋭い爪が伸び、貌は錐のように鼻先へと伸びている。全身は毛むくじゃらで、異常に発達した前歯が口蓋を貫いていた。
「あれなるはヴァンピール。古代の禁忌の哀れなる犠牲者にして、ヒトならざる亜人類」
「ヴァンピール……『闇の眷属』、ですね。無限の『魔力』を有する、夜の王ヴァンパイア――『闇の魔獣』ではないけれど、その身にヒトならざる『魔力』と、ヒトならざるケモノの血を宿すモノ。……僕と、出自を同じくするモノ」
「そう。お前の身に宿るは黒翼の天鼠のそれだが、あれなるは、おそらく齧歯の類。そして注視すべきは、あの容貌。人眼も憚らぬ無計画な『獣化』――何より、あの双眸だ」
明かりのない夜闇の中に、紅い双眸だけが、毒々しいほどに爛々と輝いていた。
「鮮やかな紅色……『赤 瞳 症』を発症している。おそらくはヒトとしての意思など欠片ほども残されてはいないだろう。あれの中に渦巻くは、自らを迫害した者たちへの怒りと憎悪、復讐心、そして深い悲しみのみ。……哀れなるケモノよ。その手を百人の血に染めるまで、その心は救われぬだろう」
そこまで言って、男はふいに身を翻した。
「――だが、見よ。今宵も、永劫に続くかの如き暗黒の中に、小さき光が一点。美しき黄金色の髪が乱れることも厭わず夜闇を駆ける、可憐なる聖女が独り。百人の血でしか救われぬはずのケモノに、死と言う名の安らぎを与えんとする者よ。それは暖かき慈悲であるのか――はたまた、それすらも醜き憎悪の産物であるのか」
そうして、男はどこか愉快そうに、口の端に皮肉げな笑みを浮かべた。
「いずれにせよ、この街が以前の活気と平和を取り戻せるかどうかは、あの小さき聖女の働き如何によるようだ――それによっては、我らの目的に深く関わって来るやも知れぬ」
「……大丈夫なのでしょうか」
愉快そうな男とは対照的に、少年は不安げな声を漏らす。
「聖女――『聖徒』と言えば、僕らの天敵です。教会からの礼金目当てに、また愉しみのために、無差別な『狩り』を行う者も少なくないと聞きます。彼らを俗に、『闇の狩人』と呼ぶのはそのためだ、と……」
「――そう、兄に教えられたのか?」
男のそんな問いに、少年は俯いて答えなかった。
「心配ない」
安心させるように、男は言った。
「何があろうとお前の望みは私が叶えよう。その代わり、お前は私に従う。それがお前と交わした契約だ。何も案ずることはない。……それに、あの小さき聖女が我らと敵対すると決まったわけではないのだ。そう、全ては――」
最後に付け足すように、不敵な笑みで男は言った。
「――全ては、神の御心のままに、さ」