[Die erste Nacht]『アイナ』――光陰の潜む街 3
[3]
ダヴァンツァティ学院の一日と言うものは、早朝の祈りから始まり、昼前の大聖堂にて全学生を集めて行われる、学院長直々の薫陶で終わりを迎える。
それからの午後の一時は、少女たちの自由な時間だ。
例えば、ある者は学院の図書館で読書に耽り、ある者は引き続き大聖堂にて祈りに費やし、ある者は自室で勉学に励み、また商家の子などは実家の手伝いに駆り出されたり……と言った具合である。
リリスは……と言えば、彼女の場合、多少他の少女たちとは違っていたかも知れない。
彼女にとっての読書とは、『人外のモノ』と戦うための戦闘手引き書であり、彼女にとっての祈りとは、強靱な精神を養うための精神修養であり、彼女にとっての家事手伝いとは、即ち『闇』との闘争――その為の訓練を積む、と言うことであったから。
とは言え、それでも、午後の一時をごく普通の少女として過ごす時間が全くないわけではない。そしてそれは、けして彼女独りの時間と言うわけでもなかった。
少女が少女らしく過ごす時間と言うものは、掛け替えのない友人の存在があってこそのものだ。それは、リリスとて例外ではない。
その友人の名は、ルフィティアと言う。
「――リーリエ……!」
意気消沈したまま学院の門を出たリリスに、ふとそんな声が掛けられた。
顔を上げてみれば、門のすぐ横に少しばかり豪奢な作りの馬車が停めてあり、その側で一人の少女が、リリスに向けてひらひらと手を振っていた。
その少女こそが、リリスの掛け替えのない友に他ならなかった。
「ルフィ! 待っててくれたのっ?」
驚きつつも、喜びに息を弾ませて駆け寄るリリス。
ルフィティアはにこりと柔らかく笑って、小首を傾げるような、少女然とした愛らしい仕草をする。
「ええ、もちろん。わたくしだって、リーリエが居なくてはつまらないもの」
柔らかな……と言う表現がよく似合う少女だ。髪と瞳は優しい栗色で、肩口をなぞる、なだらかな曲線を描く髪は優雅でさえある。その物腰や言葉には貴族然とした気品が漂っていたが、それはけして支配者の高慢なものではなく、治める者としての暖かみに溢れているようだった。
ヒトはないものねだりの生き物だと良く言うが、だとしたらこれこそは正にそれなのだろう、とリリスは思う。彼女はルフィティアの笑顔が大好きだった。ルフィティアのそれは、自分には到底持ち得ないものだったから。
「……うん、ありがとね、ルフィ。私も、危うくつまらない午後を過ごす羽目になるところだったわ」
言って、リリスは軽くぱちりとウィンクなどして見せる。
ルフィティアはくすりと笑うと、冗談めかして言った。
「お役に立てて光栄ですわ♪」
「いえいえ、こちらこそ光栄の至り」
リリスはリリスで、大仰に礼を執る振りなどして見せる。
そんなお互いをしばらく見やってから、二人は「あははっ」と、心底愉快そうに笑った。
† † † † †
つまりそれは、闘争と言う名の十字架を背負い続けるリリス・ミヒャエル・セインティアと言う少女に許された、数少ない「少女の時間」と言うべきものだった。
同性・同年代の友人と、そうでなければ分かり合えない話題で笑い合い、ふざけ合い、そうして時間を忘れて過ごす――そんな普通の少女たち。
特殊な境遇の二人であったから、そんな世間の少女たちとは少しばかり違うところもあったかも知れない。
けれど、そんな二人であったからこそ、分かり合うことが出来た。重い十字架に支配され続けなければならないリリスに、今この時、心からの笑顔があったのは、間違いなく、ルフィティアと言う少女の功績が大きかったのだ。
本名を口に出すことが憚られるリリス(Lilith)に『百合(Lilie)』と言う愛称を付けてくれたのも彼女だったし、学院で一番に声を掛けてくれたのも彼女だった。
最初の言葉を、今でも覚えている。
――ぴかぴかしてて、すごくきれい。……もっとちかくで見てもいい?
……リリスが義母と共にこの街へ渡って来て、十年。学院で学ぶようになって五年。気が付けば、二人が共にあることはごく当たり前のことになっていた。
――こうして、豪奢な馬車に揺られて、ルフィティアの屋敷へ向かうことも、また。
少女二人、向かい合わせの馬車の中。車窓の向こう側には、喧噪がその営みを感じさせる、豊かな街の景色が流れている。
「――不思議なものね……」
彼女にしては珍しく、ふとルフィティアが愁いを帯びた声で洩らした。
「? 何の話?」
快活ではないけれど、いつも穏やかな友人の聞き慣れない声に、リリスは小首を傾げた。
自らも似合わないと思ったのか、ルフィティアは苦笑して続けた。
「わたくしは、この街で暮らす少女たち……いえ、全てのヒトビトの中で、恐らく最もこの街のことを知っていなければならない人間の一人だわ。……だと言うのに、貴女と出会う五年前まで、わたくしは何も知らなかった。出かける時はいつも馬車の中で、商店街を歩いてみたことすらもなかったし――今でも、一人で歩いたことはない……」
ルフィティアと言う少女は、人一倍責任感が強く、同時に心優しい性格をしている。故、確かにそんな疑問を持っても不思議ではない。
しかし、リリスには少々理解し兼ねた。
「それはそうね。けれど、それは仕方のないことだし、むしろ貴女がそんな無茶をしようとしたら、私を含めた街の人間全員が止めるわ。それでなくたって、ついこの間、危うい目にあったばかりでしょう。……そもそも、何だって今、そんなことを考えたりしたのかしら?」
そんな言葉に、ルフィティアは今一度苦笑すると、どこか照れ臭そうに言った。
「貴女のことを考えていたからよ、リーリエ」
「……私?」
意外な答えに眼を丸くすると、ルフィティアはにこりと微笑んで続けた。
「貴女は、とても多くのものを抱えているわ――
第一に、偉大なる聖ダヴァンツァティ学院長、『アイナの聖女』ラピニール・フェアシュタントさまの一人娘であると言うこと。
第二に、この世の『闇』と闘争し続ける宿命を背負っていると言うこと。
……どちらも、矮小なわたくしの背中では背負えそうにない大きな荷だわ。
けれど、貴女はそれを苦ともしない。いつも自然体で、来るものを拒まず、自らも交わることを躊躇わない。だから、この街のヒトビトは皆、貴女を、遥か遠くの貴人としてでなく、大切な隣人として愛している。
わたくしは、そんな貴女がとても羨ましくもあり、憧れでもあり……何より、尊く、愛しいと思う。貴女と友人であれることを、大いなる父に感謝したくなるくらい」
そう言って、殊更にこりとするルフィティア。
少しだけ照れ臭くて、リリスは頬を掻いた。
「ん……別に、何もしてないのだけどね。私は昔から、見ての通りの跳ねっ返りだし、子供の時分には、良くお義母さまの眼を盗んで街に出ては、冒険ごっこなんてしてた。で、いつの間にか、わんぱくな男の子たちが周りに集まるようになって。気が付いたら、街の大人たちとも顔見知りになっていた。ただ、それだけよ。
……多分ね、それでも実際、壁はあるんだと思うわ。特に、思春期からこっちは、意識せざるを得ないこともあったかもね。けど、だから何だって言うの? 私は変わらないし、変わろうとも思わない。ただ思ったように、好きなようにやるだけよ。
……だからねぇ、私の方こそ、貴女を尊いと思う。――だって、こんな我が侭で、好き勝手やってるだけの女と仲良くしてくれるお姫様なんて、そうそういないもの」
そう言って、戯けるように首を竦めて見せたリリスに、
「――そう言う、まっすぐな貴女だから、好きなのよ」
そう言って、ルフィティアは笑った。
そうこうするうちに、やがて馬車は一軒の屋敷の前で止まる。いや、屋敷と言うよりも、もはや宮殿と言った方が良いような、巨大で豪奢な邸宅だ。
ほどなくして屋敷の門は開かれ、馬車はその敷地内、広大な前庭を横切り、ようやく見えた本邸の前で再び止まった。
間もなく開かれた馬車の扉の外には、乗降を助けるための踏み台が用意され、すぐ傍には、使用人用の黒いジャケットを羽織った黒髪の青年が立っていた。
「ありがとう。お疲れさまね、カイン」
ルフィティアは馬車を降りざま、そう言って御者を兼務する使用人に声を掛けた。
使用人の青年は何も答えなかったが、軽く頭を垂れたようだった。
彼は、一般的な使用人と比べれば恭しくはなかったが、全く礼を知らないわけでもなかった。無造作に乱れた髪や着崩した服装からも、彼がどう言う人間であるかは自ずと知れたが、ルフィティアへの接し方を見れば、彼が彼女をどう思っているのかは良く分かる。
「ご苦労さま」
友人に倣い、リリスもそう声を掛ける。が、カインは黙したまま何も答えない。ルフィティアの時のように会釈もない。……好意的でないのは誰の眼にも明らかだった。
「だめよカイン、お客様にはきちんと挨拶しなくては」
ルフィティアが主人としてそう窘めると、カインはようやく頭を垂れる。……渋々、と言った体ではあるが。
「ああ、いいのよ、別に気にしてないから」
いつものことだしね、と言う言葉は何とか飲み込んだ。
そう、いつものことなのだ。カインはリリスと初めて顔を合わせた瞬間から、ずっとこんな風だった。全く気にしていないと言えば嘘にはなるが、こうも一貫して嫌われると、いい加減諦めの気持ちも湧くと言うもの。
ごめんなさいね、と苦笑するルフィティアに、リリスも苦笑を返す。もうすっかりお馴染みのやり取りだった。
「――お帰りなさいませ、お嬢様、セインティア様」
屋敷へ足を踏み入れると、長身の老紳士が恭しく頭を垂れて、そう出迎えてくれる。
「ただいま、ラドゥ」
「こんにちは、ラドゥさん」
二人が口々に言うと、老紳士――ラドゥは優しげに眼を細める。
ラドゥは、ルフィティアの家に長年仕える家令だった。この屋敷に出入りするようになってから、リリスは様々な面で彼の世話になって来た。齢はもう六十に近いらしいが、勇猛で知られる騎士の家系の出身故か、彼が衰える様子は見られなかった。
「お父上は執務室にいらっしゃいます」
そう言ったラドゥに案内されて、ルフィティアと共に屋敷の二階にある一室に向かうと、その通り、彼の人物はそこにあった。
「――やあ、お帰り、ルフィティア、リーリエ君」
そう言って、豪奢な執務机越しに、善良そうな笑みを見せた壮年の男性こそが、この屋敷の主にしてルフィティアの父親、そして――現アイナヴィリスナート総督、ヤーノシュ・マテウス・フォン・フニャディ伯に他ならなかった。
「ただいま帰りましたわ、お父さま」
「お邪魔しております、ヤーノシュ伯」
そう口々に挨拶をする二人に、伯爵は瞬間微笑んだが、すぐに困ったように苦笑した。
「……リーリエ君、君はいつも真面目だな。私のことは、総督としてでなく、友人の父親として扱ってくれといつも言っているじゃないか」
伯爵のその気持ちは有難かったが、リリスも一応は街の要人の娘として、礼儀をわきまえておく必要はある。下手なことをすれば、それは敬愛する義母の恥になるのだ。
――それに、である。リリスは今、この街で起こっている事件の捜査に浅からず関わっている。つまりは、治安に介入しているのである。そんな立場で、アイナ総督たる伯爵と「なあなあ」になるなど許されない。
伯爵もそれは分かっていたから、それ以上強くは言わなかった。嘆息混じりに微笑んで、
「無理を言ってすまなかったな。……まあ、ゆっくりして行きなさい」
いつものように、朗らかな笑顔でそう言った。
ヤーノシュ伯は、土着の地方領主でありながら、中央の有力貴族を差し置いて、広大なアイナヴィリスナートの総督権を獲得した類い希な政治手腕を持つ人物だった。が、その反面、正にルフィティアの父親と言うに相応しい善良な男でもあった。
……けれど、件の事件が発生して以降――特に、屋敷の敷地内へ遺体が放り込まれると言うことがあってから、リリスは見慣れたはずのその笑顔に、どこが違和感を感じるようにもなっていた。
それがいったい何だったのか――今のリリスには、分からなかった。