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エピローグ

[Epilog――エピローグ――]

 辺りは暗かった。灯りなどない。一切の暗闇だ。

 あの悪夢に似ているな、と思った。

 けれど、そこには父も母もなかったし、おぞましい化け物どもの姿もなかった。

 あるのは、自分だけ。幼い頃の姿ではなく、今の自分。着慣れたカソックに襟を立てたケープ。金十字の短剣と『錬金銃』も持っていて、胸元には黄金色の懐中時計。

 リリスは一人、闇の中にぽつんと座っている。真っ黒の空を、星も見えないのにじっと見上げて、

「……死んじゃったのかなあ」

 なんてことを、ぼんやりと考えていた。

「――縁起でもないことを考えるな、馬鹿者が」

 そんな声に、振り返る。暗闇の中に、黒い男が立っていた。一見、周囲の闇と同化してしまいそうにも思えたが、不思議と、その輪郭がぼやけてしまうようなことはなかった。

「あら、アルじゃないの。やっほー」

 なんて、お気楽な声が漏れる。無自覚だったけれど、今の彼女は酷くリラックスしているようだった。

「やっほーではないわ、まったく。……お前が死んでいるのなら、私が殺したと言うことになってしまうではないか」

 そう言って、黒衣の男――ファウストは、嘆息した。

 考えてみれば、なるほどその通りだなあ、とぼんやり考えて――けれど、やはり深刻になる気など起きず、にへらっと笑った。

「あははー、ごめんごめん――って、あら?」

 ふと見ると、ファウストの隣りに見覚えのある小さな少女が立っていた。いつか見たのと同じ儚げな表情をして、ファウストに手を引かれている。

「アンネリーゼだ。……アンネ、挨拶を」

 促されて、少女――アンネリーゼは、ぺこりと頭を垂れた。表情は変わらず、声もなかったが、その佇まいはとても愛らしかったから、

「こんにちわー、私はリリスよー、よろしくねー」

 そう言って、リリスは殊更にこやかに笑った。

 ファウストは、そんな彼女に嘆息しつつも、彼女の対面に陣取って腰を下ろした。あぐらをかいたその上には、アンネリーゼがちょこんと座る。

「あらあら仲良しさんなのねー」

 にこにこ、と。まるで馬鹿みたいに笑い続けるリリス。

「酔っ払いかお前は。その締まりのない顔はどうにかならんのか」

 嘆息混じりのそんな言葉。無理もないが、リリスにはどうすることも出来ない。

「んー、なんだろねー……何か、気持ち良くて。真っ暗なんだけどさ」

 そう言ってまた、にへら、と笑う。やはり、酔っているのかも知れない。酒にではなく――自身を優しく包み込む、その闇に。

「……まあいい。それよりも、何故、私たちがこうしてお前の「夢の中」にいるのか、気にはならないのか」

 言われて、リリスはハッとした。

「――ああ! やっぱこれ、夢なんだっ!」

「……今更そこに驚くのか、お前は……」

 確かにこの状況、夢以外なら一体何だと言うのか。

 頭を抱えるファウストだったが、アンネリーゼに慰められて、何とか気を取り直す。

「……そう、ここはお前の夢。そして私は、この子――アンネの力を借りて、お前の夢の中に入り込んでいる。こうして話が出来るのは、そのためだ」

「へー、凄いのね。……でも、また何で? 起きてる時に話せばいいじゃない」

 そんなあっけらかんとした言葉に、最早ため息すら出ないと言った様子で、ファウストは苦笑した。

「お前がいつまでも、呑気にグースカといびきをかいているからだろう。あれから、丸一日以上も眠りっぱなしなのだぞ、お前は」

「ほえー……そりゃまた、お寝坊さんね」

 記録更新だわ、なんて呟いてみる。流石に、少しだけ驚いた。

 が、すぐにどうでも良くなって、にへら、と笑った。

「で、なになに? 心配になって見に来てくれたのっ?」

 ある種の期待を込めて、そう尋ねた。

 ファウストは一瞬困ったように苦笑したが、

「まあな、半分はそうかも知れん」

 そう言って、取り敢えずは頷いた。

「半分? ……じゃ、もう半分は?」

 正直、心配が半分だけと言うのは気に食わなかったが、まあ、今はそれでも良いかと思った。それよりも、残り半分が何なのかが気になった。

 ファウストは、少しだけ自嘲的に微笑んで言った。

「あの夜、言い掛けた手前――早々に伝えてしまわねば、どうにも決まりが悪くてな」

「……もしかして、お父様のこと?」

 さして時間もかけず、まるで条件反射のようにリリスはそれを口にした。

「やはり、気付いていたか」

 そう言って苦笑するファウストに、「まーね」と言ってリリスは俯いた。別に気まずかったわけではない。ただ、今は、彼の言葉だけに集中していたかった。

 その意を汲んでか、ファウストも余計なことは言わず、ゆうるりとそれを語った。

「……彼と出会ったのは、今からおよそ十七年前、ブリテンでのこと。……セインティア、お前が産まれて間もない頃の話だ――」


 ――すっかり人通りもなくなった、深い夜。ファウストは、傷付いた一人の男と出会った。

 黄金色の髪が眩しいその男の傷は深く、一目見ただけで長くないことは知れた。

 施せる術は最早なかったが、せめてもの慰めにと、ファウストは彼が眠るまでの間、ほんの一時、夜伽の相手を務めることにした。

 初めのうちは、異常なほどの警戒心を剥き出しにする男だったが、ファウストの穏やかな言葉に、やがて心を開いていった。

 彼の名はジョナサン・ゲオルギウス・セインティア。愛する妻を、『闇の魔獣』の手によって失ったばかりの、哀れな『闇の狩人』だった。

 彼は、妻を失った悲しみから、その心を激しい怒りと深い憎悪に冒されていた――そう、それは恰も、昨夜のリリスの如く。

 力を失った彼は、それでも妻の仇を討とうと夜を駆けた。しかし、最早ただのヒトと変わりなかった彼には、アウトサイダーに対抗する術などなかったのである。

 どれだけの時間、二人で語らっていたか分からない。実際、良く体が保ったものだったが、一頻りお互いの身の上を語らった後で、安心したように彼は言った。


 ――お前のようなケモノがいるのなら、娘はきっと大丈夫だ。


 そうして、ファウストに小さな十字の飾りを手渡すと、眠るように息を引き取った。

 彼が何を意図して、それを託したのか分からなかったが――以降、十七年間、ファウストはそれを肌身離さず持ち続けた。


 ――そうして。この遠く離れたアイナの地で、二人は出会ったのである。

「……これ、よね?」

 何時ぞや義母から渡された、小さな十字の飾りを取り出して、リリスは窺うようにファウストを見た。

「……何処ぞでなくしたかと思っていたが、お前が持っていたとはな。これも運命か」

 言って、自嘲的に笑う。

 そんなファウストに、リリスは苦笑を返しつつ言った。

「これね、鍵になっているの。ここに、こうしてはめるとね――」

 言いながら、懐中時計の裏側に空いた十字形の窪みに、飾りを押し込んでみせる。と、裏蓋が貝のように、ぱかりと開いた。

「ね? ここ、開くの」

「ほう。二重底になっているのか、面白い仕掛けだな。中は――肖像か。……相当腕の良い絵描きに依頼したようだな。この大きさだが、表情までが伝わってくる、良い絵だ」

 リリスの手元を覗き込みながら、ファウストは穏やかに笑う。視線の先の肖像には、三人の人物。椅子に腰掛ける女性と、彼女に抱かれた産まれたばかりの赤子。それを慈しんで見守る男性。それは、この世にたった一つ残された、家族の肖像だった。

 リリスも、嬉しそうに微笑み返す。

 しかし、

「でもね、見て欲しいのはこっちじゃなくて、蓋側の方の――あれ?」

 言いかけて、小首を傾げた。そこには、あるべきはずのものがなかった。

「あれれぇ? おかしいなあ……前に見た時には、ここに何か掘ってあったんだけど」

「――それは、言語だろうな」

 何故か苦笑しながら、ファウストは言った。

「そしておそらく、ジョナサンが遺したのなら、それは英語だろう。……セインティア、お前、さては英語が読めないな。生まれ故郷の言葉だろうに」

「なっ!? し、しょうがないじゃないっ! ブリテンにいたのなんて赤ちゃんの頃だけだったんだからっ!」

 皮肉げな顔で嘆息するファウストに、リリスは顔を赤くして抗議する。

 一度はからかうような素振りを見せたファウストだったが、

「……まあ、アイナで暮らしていれば、ドイツ語、スラブ語、マジャール語――否が応でも複数言語を識る必要があるからな。使わぬ言葉まで学べと言う方が酷か」

 そう言って、リリスを慰めるように笑った。

 今一つ納得のいかないリリスではあったが、今は取り敢えず彼の言葉を素直に受け取って、話を続けた。

「で、何で分かったの?」

 ああ、と思い出したように頷いてから、ファウストは答えた。

「ここは、お前の夢の世界。即ち、記憶の世界だ。お前が、確かな「形」として認識していないモノは反映されない。綴りも意味も理解せず、記憶すらしていない言葉の羅列が、「形」として再現されることはないのだよ」

 なるほど、と素直にリリスは頷いた。

 しかしそうなると、尋ねることがもうなくなってしまった。本当なら、その理解出来なかった父の言葉の意味を、教えて貰いたかったのだが。

 その様子を悟ったのか、

「……では、そろそろお暇することにしよう。あまり長居すると、この子も疲れてしまうのでな」

 そう言って、アンネリーゼの頭にぽんと手を乗せて見せた。

「え? あ、そ、そうなんだ、それじゃ、終わりにした方がいいわね、うん」

 アンネリーゼの負担など考えていなかったから少しだけ慌ててしまったが、何とかそう言って、体裁だけは取り繕った。

 そんな彼女に、ファウストは優しく笑いかけながら、

「……ではな。朝寝坊も良いが、なるべく早く起きなさい――今日も、良い天気だ」

 最後に一言、そう言った。


                † † † † †


 ――バルコニーから届く光に導かれて、眼が覚めた。

 夢の中で話していたせいか、思いの外、意識ははっきりとしている。だが、体を起こしてみれば、やはり頭は重いし体は硬かった。丸一日以上寝ていたのなら、このくらいは当然だろう。

 首筋には、膏薬が貼り付けてある。今更ながらに、ああ、彼に血を吸われたのだなあ、なんてことを実感する。……思い出して赤面しかけたが、何とか踏み止まった。

「……んーっ」

 と、ごまかすように思い切り伸びをする。

 脱力するように一息吐いて――……ふと、自分に寄り添うようにして眠っている少女の姿に気が付いた。アンネリーゼだ。

 誰の物か知らないが、その寝台は豪奢な作りでとても広かったから、何も密着するようにしなくても眠れるだろうに――などと無粋ことを考えかけて、すぐに改めた。彼女の寝顔はとても無垢で愛らしかったから、もうそれだけでいいやと思った。

 夢の中にいると、彼女が消耗すると言う話はどうやら本当らしい。リリスがぷにぷにのほっぺをつついても、彼女が目覚める様子はなかった。

 すぴすぴと微かな寝息を立てる彼女をずっと見ていたい気もしたが、

「……そう言うわけにもいかないわよね」

 そう自身に言い聞かせて、リリスは寝台を降りた。

 体を慣らしつつ、少しだけ周囲を見渡してみる。……一見して、普通の建物でないのが分かる。年季の入った石造りの壁に、高価そうなアンティークに溢れた調度。そう言えば、今自らが袖を通している寝間着も、肌触りだけでその価値が窺い知れる。

 ――ここがどこであるのか、考えるまでもない。

 何となく、予想は出来ていたこと。別段驚くこともなく、欠伸など漏らしながら、無意識に足は開け放たれたバルコニーへと向かっていた。

「――っ……」

 一歩踏み出すと、眩しさで眼が眩んだ。かなり陽が高い。もう昼に近いのかも知れない。

 バルコニーの下から、喧噪が聞こえてくる。楽しそうな声だ。子供たちの声。時々、困ったように子供たちを叱る声も聞こえる。……聞き覚えのある声だ。

 吸い寄せられるように、バルコニーの端まで足を伸ばした。手摺りの向こう側に覗いたその景色に――また、目眩が、した。

 そこは、城門まで続く前庭。アルラの広大な薔薇園があり、古いながらも立派な噴水があり、駆け回るに十分な芝の庭もある。

 陽の下で眺めるアルラの薔薇はその出自を霞ませるほどに艶やかで、黄金色の太陽をきらきらと反射する噴水の飛沫も美しい。無邪気にはしゃぎ回る子供たちと、彼らに翻弄されるアベル、慈愛の笑みで見守るリーヴェ、その長身ゆえに肩車をせがまれるヨシュアらの姿は、とても微笑ましくて――それら全てが、眩しかった。

「……光差す庭」

 陶然としたような意識のまま、ふと漏れたのはそんな言葉。

 ――光差す庭。

 これが、「彼」の目指した場所。

 ……自分が、これから目指す場所。

 不思議な感慨に、ぶるりと身震いがした。

 その時だった。

「――お目覚めか、眠り姫」

 そんな声に振り返れば、モノクルを付けた黒衣の男が、安楽椅子の上でニュースペーパーなど読んでいる。

「アル……いたんだ」

 バルコニーの中央からは少し外れた場所にいたので気付かなかったが、どうやら彼は最初から、そこでそうしていたらしい。

「いたのか、とはご挨拶だな。ここは私の城だし、私の私室だ。お前と来たら、何の遠慮もなく私の寝台で延々と高いびきをかきおって。あと少し目覚めるのが遅ければ、目覚めの接吻くちづけでもしてやろうかと思っていたところだ」

「――――」

 顔色一つ変えず紡がれる言葉に、思わず絶句する。

「……何だ、して欲しかったのか?」

 声の出ないリリスへ、追い打ちを掛けるような言葉。

「っ――そっ、そんなわけないでしょっ!」

 ……慌てて否定しても、その顔は耳まで真っ赤だったわけだが。

 しかし、ファウストは微笑ましげに笑っただけで、それ以上からかったりはしなかった。

「気分はどうだ。痛むようなところはないか?」

 そう気遣うように言う彼に、少しだけ拍子抜けしたような気になりながらも、リリスは苦笑して返した。

「ええ、ありがと。……ちょっとだけ、頭が重いけど」

「それは単なる寝過ぎだな、眠り姫」

 そう言って、ファウストも苦笑した。

 リリスも今一度苦笑を返してから――ふと、彼の傍らのサイドテーブルに、見覚えのある物体を見付けた。

「あれ? それ……」

「ん……ああ。寝ている間にすまないとは思ったのだが、どうにも気になってな」

 言って、ファウストは自嘲的に笑う。

 それは、黄金色の懐中時計だった。

 少しだけ躊躇ったが――すぐに、今さら躊躇うこともないだろうと思い直した。

 そうして、リリスは問うた。

「……お父様、なんて……?」


                † † † † †


 ――少女の悩みが尽きることはない。

 と言ってもそれは、何も彼女が特別だからなのではなくて、単に、苦悩と共に生きて行くことこそが、ヒトとしての在るべき姿であるからだ。

 苦悩の中で、ヒトが選択出来ることは二つ。それを嘆いて闇に飲まれるか、足掻いて、藻掻いて、光を目指して走るのか。

 ……何にせよ、当面の少女の悩みは、義母に課された難題であったのだが。


 ――光と闇、その定義と考察。


 そんな難しいこと、少女には分からない。……いや、少しだけ分かったような気もするが、明確な言葉にすることなんて、今はまだ出来ない。

 ……そう、今は、まだ。いつかは、彼女にも分かる時が来るのかも知れない。いや、きっと来るだろう――あの男と共に、歩んで行けば。だって、ほんの数日の間に、どれだけのことを教えられたのか分からないくらいなのだ。

 きっとこれからも、多くのモノを得る。それは、確信であり――願いでもあった。

 だから、今はただ、その素直な想いだけを綴っておこう。そう思った。半端な内容で、義母には叱られるかも知れないが――それ以上のものは書けそうにないのだから、仕方ない。怒られても、笑ってごまかすことにしよう、と。

 ……だけど、慣れない英語で綴るその言葉だけは、認めてやって欲しい。それは、顔も知らぬ父が遺してくれた言葉。そして、彼女が進む道を照らす、一条の「光」そのものなのだから。



 ――Light never bends. Go straight ahead through the way to believe in.――



 ――光はけして曲がらない。……信じる道を、ただ、まっすぐに。


 もう、けして迷わない。怒りも、憎しみも、必要ない。

 ただ、まっすぐに、歩んで行く。


                † † † † †


 そうして。

 聖女は今日も、夜を駆ける。

 隣りには、黒衣のヴァンパイアを伴って。


 ――闇を纏ったケモノを照らす、優しき光となるために。




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