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[Die funfte Nacht]『セインティア』――光輝の行方 6

[6]

 迷う理由などはなかった。迷っている場合でもなかった。仮にこの場に留まったところで、リリスには何も出来ない。ファウストの傷を癒してやることも、自らの平静を取り戻すことも――無論、解き放たれた悪魔に対抗することも。

 リリスはファウストに導かれるまま進み――やがて、二人の身が隠れる程度の大樹の根元に腰を下ろした。

「アル……アル、ごめんなさい、ごめんなさい、私っ……」

 どうしたら良いのかも分からず、リリスはそう言って涙を流した。

 無理もない。気丈に見えても、リリスとてまだ十七才の少女なのだ。満足に何が起きたのかも分からない混乱した状況で、近しい者の――大切な者の。こんな無残な姿を目の当たりにしては。

 それも、もしかしたら、全ては自らのせいなのかも知れなかったのだから。

 けれど、ファウストは彼女を責めたりはしなかった。

「大丈夫……大丈夫だ、セインティア……お前は、悪くないさ……」

 そう言って、黄金色の髪をそっと撫でた。

「お前は、私のような老人とは違う……肉体も活発だろうが、精神活動とて活発で然るべきなのだ……全ては、私の配慮が足りなかったゆえ……許せ」

 彼が何を言っているのか分からなかった。けれど、ただ一つはっきりしていることがある。

「ううん、そんなことないっ! アルは悪くない! 何も悪くないっ!」

 そう、迷いなく告げる少女。ファウストは微笑んで、ならば、と言葉を続けた。

「……お前の持つその力は、とても繊細なモノなのだ。ほんの少しの魂の揺れが、ぶれが、全てを台無しにしてしまう。いかな才能ある『聖徒』も、その制約には逆らえぬ――……そう、あの夜のお前の父も……」

「お父……さま……?」

 ふと疑問を感じて呟くが、ファウストは答えなかった。かぶりを振って、彼は続ける。

「……お前は、何故、戦うのだ? 何のために、戦うのだ。お前と言う『聖徒』が、今ここに存在する、その目的は何だ? ……お前は、本当は、何をしたい……?」


 ――この地上の「存在」には、須く目的がある。


 それを考えたのは、いつのことだったろう。もう、随分と前のことのような気がする。

 あの時、「彼女」の存在目的に疑問を持った。それを、哀しいと思った。やり切れないと思った。……自らを傷つけ続けるだけだと、そう思った。

 ……自分は、どうなのだろう。何のために戦うのか、何のために存在するのか。

 両親の復讐? 怒りと憎悪の発散? ――違う。そんなことではないはずだ。

 今、この時。リリスが、何事にも優先して、為さなければならないこと。本当に、やりたいこと。本当に、大切なこと。……大切な、大切にしたい、モノ。

 ――そんなのは、もう、分かり切っていた。

 いつの間にか閉じていた眼を、そっと開く。揺るぎない黄金の瞳が、輝いていた。

「……アル、私は――」

 呟きかけて、けれど、言葉を止めた。

「……え?」

 違和感を感じて、リリスは背後を振り返った。だが、厳密に言えば違和感は背後からではない。自らの腰部、そこにベルトで固定された物体。

 ――それは、以前ファウストから譲り受けた、豪奢な作りの『火打ち石式拳銃』フリントロック・ハンドガン。それが、眩い黄金色の輝きを放っていたのだ。

「……良い、タイミングだ」

 ふと、笑み混じりにファウストが呟いた。

「どう言う……こと?」

 拳銃を手に取りつつ、リリスは問うた。

 ファウストは一つ熱い息を吐いてから、ゆるりとそれを語った。

「それは……ただの拳銃ではない。我が錬金術の粋を尽くした、『錬金銃』(アルケミーガン)だ。内部に『聖霊力』を蓄える機構を持ち、所有者の『聖霊力』を、僅かずつ蓄え続けるようになっている。そうして蓄えた『聖霊力』は、『聖徒祈祷法』により放出されるそれとは、比べものにならぬ高出力を備えた、光の弾丸と……なる」

「……これを――これを使えば……奴を仕留めることが、出来る……?」

 不安げに呟きながら、リリスは手にした銃に眼を落とす。それは今も、変わらず眩き光を放っている。リリスにとっては何より身近で、安堵を覚える輝きだ。

「……私みたいな、お馬鹿でも。……大事なものを……護ることが、出来る……?」

 捨てられた子犬のような、縋る瞳がファウストを見上げていた。

 血の気の失せた顔をしながら、それでもファウストは穏やかに笑った。

「ああ……大丈夫。お前は、馬鹿なんかじゃない。素朴で、思いやりがあって……ヒトの痛みが分かる子だ。痛みを識る者は……何が大切かを、識っているはずだ。大切なものが何なのか――それを識るならば。……きっと、誰かを護ることが、出来る。……私はそう、信じているよ」

 そう言って、ファウストはそっとリリスの髪を撫でた。それだけで、リリスは力が湧いた。勇気が湧いた。枯れた自信が、若葉となって再び芽吹くのを感じた。

 『錬金銃』を力強く握り締め、リリスは立ち上がった。ファウストからは少しだけ距離を取って、そっと眼を閉じる。深呼吸をして、精神を集中した。

 ノスフェラトゥは、未だこの森のどこかに潜んでいる。今逃亡されれば、リリスに追跡する術はなかっただろう。しかし、ヒトの小娘に受けた屈辱が余程こたえたのか、逃亡する気配はなかった。虎視眈々と、襲い掛かる機会を窺っているのか――或いは、こちらを探している最中なのかも知れない。

 再度の接触は、遠くない未来に起こるだろう。奴が姿を隠してすぐにこちらも移動したとは言え、どちらに向かったかは奴も確認していたろうし、ケモノであれば、血の臭いを辿ることなど造作もなかっただろうから。

 実際、一時は離れていた奴との距離は、刻一刻と近付きつつあった。

 しかし、こちらから打って出ることは出来ない。『錬金銃』の光弾は一発きり。下手に警戒させて、避けられでもしたら目も当てられない。

 新たに『捕縛法』を試すと言う選択肢もあったかも知れないが、それこそ当たる気がしない。リリスが奴を捕らえられたのは、不意打ちに近い状況があったゆえなのだ。

 ――ゆえに、出来ることはただ一つ。

 心に唱え、リリスは今一度深く息を吸う。眼を閉じていると、巨大な『魔力』の塊がすぐ眼前にあるように感じる。だが、それは錯覚だ。すぐ傍に在るはずの「彼」が、遙か遠くにいるように感じてしまうのと同じ。惑わされてはならない。

 とは言え、恐らくは、もう十メートルも離れてはいない。視界を遮る木々がなければ、お互い疾うに視界に捕らえている。

 この場所で戦うことになったのはリリスの意志ではなかったが、感知能力で勝る『聖徒』にとって、これ以上有利な戦場もなかったろう。今のリリスには、その有利を効果的に活かすだけの経験が足りなかったが、しかし、心の準備が出来ると言うだけでも大きな助けだった。

 じりじりと、近付いてゆく二者の距離。もう、ほんの数メートル。

 奴が、ふと歩みを止めたのが分かった。発見されたのだろう。嫌な汗が額を伝う。緊張が一気に高まった。張り詰めた空気が、ぴりぴりと肌を打つ。

 そうして、どれくらいその緊張が続いたろうか。

 ふいに、毒々しい殺気が辺りを包んだ。

 周囲で眠りに就いていた鳥たちが、悲鳴を上げて飛び上がる。

 一瞬にして騒然とした闇の中――奴が、現れた。

「――っ……!」

 咄嗟に、その方向へ身を捻る。怒りに歪んだような、愉悦に綻んだような、不気味な化け物の顔が夜闇の中に浮かんでいた。紅い瞳をぎらつかせ、鈍く輝く犬歯をむき出しにして、ファウストを貫いた鋭利な爪を振り上げて、大きな影がケモノの速度で迫ってくる。

 身が竦む。悲鳴を上げそうになった。けれど、歯を噛み締めて、その一瞬を待った。

 手にした『錬金銃』は準備万端だ。けれど、焦って発砲してはだめだ。相手は尋常成らざる反応速度を誇るケモノだ。早過ぎれば躱されてしまう。

 しかし、遅過ぎれば、その豪腕がこちらの胸を貫くだろう。

 父の形見では計れない僅かな時。針穴に糸を通すような繊細なタイミング。言葉で説明出来るようなものじゃない。誰が解説出来るようなものでもない。全ては、リリスの持って生まれた戦闘センスか、天の采配の如何。……或いは、そのどちらにも恵まれていなければならなかった。

 一体、どれくらいの時間が過ぎたのか。妙に長かったような気もするが、やはり一瞬のことだったようにも感じる。

(――アルっ……!)

 最後に胸中で彼の名を呼んで、聖女はその引き金を引いた。


 ――ガァンッ……


 何時ぞやと同じ、火薬の炸裂する乾いた音が夜闇に轟いた。

 けれど、発射されたのはただの弾丸ではない。膨大な『聖霊力』に包まれた、聖なる光の弾丸だ。これをまともに受ければ、対魔の剣を弾く化け物とて一溜まりもないだろう。リリスは、自信を持ってそう言える。

 ――何故なら。あれほど強大な『魔力』に守られていたノスフェラトゥが、すぐ眼前で、胸に巨大な風穴を開けていたから。

「――ばっ……かな……っ……」

 ノスフェラトゥの口蓋から、信じられないと言う声が漏れる。

「っ……私の、勝ち、ね」

 冷や汗の零れる顔で、それでも勝ち誇ったようにリリスは言った。

 怨嗟の声も吐けぬまま、頽れるノスフェラトゥ。すぐ鼻先にまで迫っていた鋭利な爪が、ゆうるりと遠ざかって行く。

 下草の上に横たわったそれは、間もなく青い炎に包まれて、やがて灰になり風に散った。

 それを見届けてから、リリスは崩れるように尻餅を突いた。立っていられなかった。膝が笑い、腰から下に力が入らない。……無理もない。それだけの緊張だったのだ。

 辛うじて倒れ込むことは堪えているものの、腕にも満足に力が入らない。だらんと投げ出された手の先に、輝きを失った『錬金銃』が転がっていた。

 いけない、と思って、何とか手を伸ばす。

「……っ――ふぅ……」

 命と誇りを護ってくれたそれを、無意識に胸に抱き――そうしてから、ハッとした。

「――アルっ……!」

 反射的に名を呼んで、彼が身を預ける大樹へと眼を向ける。……返事はなく、彼は眠ったように俯いているだけだ。

 心臓が凍り付くような感覚がして、思わず身が竦む。けれど、頭を振って何とか正気を取り戻すと、動かない体を引き摺って、這いずるようにして、彼の元に身を寄せた。

「っ、アルっ! アルっ……!?」

 まるで倒れ込むようにその胸元へ縋り付いて、彼の名を呼ぶ。冷や汗なのか、涙なのか、最早何だか良く分からない汁が顎から滴る。必死の形相と呼ぶに相応しい貌だった。

 ――それを見て、ファウストは笑った。

「……なんて顔をしてる。美しい顔が台無しだぞ……」

 そう言って、そっとリリスの頬を撫でる。

「アルっ! ……なによ、ばかっ、心配させて……やめてよ、そう言う冗談……っ」

 怒りなのか、安堵なのか。分からないごちゃ混ぜの感情で、リリスはそう吐き捨てた。

 ファウストは薄く微笑んで、

「……そうだな。不死身の化け物がこんな傷で死ぬなど……悪い冗談だな……」

 ぽつりと、そう言った。

 そうだ、悪い冗談だ。殺しても死なないしつこい害虫のような化け物が、腹に風穴が空いたくらいで死ぬわけがない。その傷は『聖徒』によるものではないのだし、再生することなど「化け物」ならば容易なはずだった。

「――冗談、よね?」

 自虐的に、死人のような顔で微笑むファウストに、リリスは金の瞳をまっすぐに向けて問うた。

 その曇りのない視線に耐えられなかったのか、ファウストはそっと眼を閉じて、ある種の覚悟を感じさせる声でゆうるりと告げた。

「……私はな、もう随分と長いこと生きた。……いや、生きていた、と言うのは語弊があるな。私の人生は、疾うに終わっていたのだ――……三百年前の、あの日に。

 私は……死人シビトだ。疾うにいなくなっていて然るべき者だった。それを、神の悪戯か悪魔の慈悲か……このような身の上で、生き長らえてしまった。

 その内の幾らかの期間……私は確かに醜い「化け物」だった。間違いなく、お前たち『聖徒』の宿敵たる憎悪の化身――『闇の魔獣』だったのだ。……許されざる悪を、どれだけ行ったのか定かではない。私が私でなかったとしても……許されることでは、ない。

 ……若き聖女の礎となって逝けるなら……本望だ」

「――馬鹿を言わないでっ!」

 考えるよりも先に、言葉が噴き出した。

「貴方にどんな過去があったって、今の貴方はそうじゃないっ! 貴方には、多くの護るべきものがあって、大切なものがあって、貴方を慕うヒトたちだって沢山いる! 私だって――! っ……それを、貴方を信じた全てを、捨てて逝くと言うのっ!?」

 自らの言葉がどれだけ正しいのかなんて分からない。それでも、今はただ、引き留めなければならないと思った。

「セインティア……お前は何も分かっていない」

 ファウストはかぶりを振った。

「私がどれだけの悪行を重ねて来たのか、お前は想像出来ていないのだ。私が『王国』のヴァンパイアであった頃、どれだけのヒトを殺めたか、どれだけの非道を為したのか。……それを、当然のこととして享受していた。――ヒトとして、絶対に許してはならない、許されてはならない存在だったのだ、私は……!」

「そんなの分からないわよっ!」

「分からないでは済まないのだ……! いいかセインティア、お前は、今、個人的な一時の感情で物を言っている。お前はそれで良いかも知れぬ。私を好意的に受け止めている者たちはそうだろう。だが、私が奪った命たちはそうではない。傷つけた者たちはそうではない。お前とは、真逆の想いを抱いている――そしてそれは、間違いなく、正しき義憤なのだ」

「だから――そんなの分からないって言ってるのよっ……!」

 ファウストの言葉を打ち消すように、一際高くリリスは声を上げた。

「私にはそんなの分からない! 私はただ、今の貴方に死んで欲しくなんてないの!」

「……めちゃくちゃなことを言っているぞ」

「――分かってるわよっ……!」

 ……その声はもう、悲鳴に近かったかも知れない。

「分かってる! 私には分からないことが多すぎるって分かってる! アルに比べたら、それこそ大人と赤ちゃんくらい違うって分かってる! だから、正しいのはアルなのかも知れない、私は間違っているのかも知れない! ――でも! それでも! 私は貴方に生きていて貰いたいっ! これからも、傍にいて欲しいのよっ……!」

 いつの間にやら、しっかと襟首を掴むようにしているリリス。

 ファウストはしばし黙して――……やれやれ、と嘆息した。

「……まったく、我が侭な娘だな、本当に……」

 そう言って、そっとリリスの髪を撫でた。

 すっかり馴染んだその手の感触に、リリスは彼の襟首を放して息を吐いた。

「……お願い、教えて。貴方の身に何が起きているのか、私は何をすればいいのか」

 そんな言葉に、ファウストは今一度嘆息してから、それを語った。

「……『闇の魔獣』が、『人外のモノ』の王であり、最強であると言われるのは、その『無限の魔力』ゆえのことだ。『無限の魔力』は、永劫に朽ちぬ鋼の肉体を与え、ありとあらゆる身体能力を屈強な獣のそれとし、受けた傷を立ち所に修復する。

 しかし、『無限の魔力』を発揮するためには、引き替えにせねばならぬモノがある。

 それは即ち――「人間性」。ケモノとなるためには、理性や愛、ヒトとしての記憶――そんなモノを、尽く捨て去らねばならない。秩序なき、無限の怒りと憎悪――それこそが、『無限の魔力』の源であるからだ」

 そこまで言って、ファウストは一度言葉を切った。

 リリスは少し逡巡して、口を開く。

「……つまり、こう言うこと? 貴方がその傷を癒そうとすれば、無限の怒りと憎悪に心を支配され、秩序なきケモノとなってしまう――」

 言いながら、いつかの変貌した彼の姿が脳裏を過ぎって、瞬間ぞくりとしてしまう。が、頭を振って、気を取り直した。

「で、でも……なら、奴は? ノスフェラトゥは、それこそ無限とも言える『魔力』に包まれていた。でも、ケモノと呼ぶにはあまりにも――」

 そう、狡猾であった。状況を見定めるために、一旦引いてみせるような冷静さをも兼ね備えていた。

「……「吸血鬼」には、知性を保つ術が一つだけあるのさ」

 自嘲気味に、ファウストが漏らす。

 その言葉に、ハッとした。

「――吸血」

「……御名答」

 自嘲的ながら、満足げにファウストは笑う。

「我々ヴァンパイア、そしてノスフェラトゥは、常に一定量の人血で腹を満たしておくことで、「人間性」を保つのだ。……文字通り、ヒトビトの「人間性」を消費してな。それがどれだけ愚かで……醜悪で……忌むべき外法であるか――説明するまでもないな……」

 その言葉を聞いて、リリスは悟った。いや、ようやく理解した、と言うべきか。これまで気付かなかったことがどうかしていたのだ。

「そう……そう言うこと、なのね……」

 俯いて、リリスは口の端を噛んだ。自分は、この男の何を見ていたのか。……つくづく、自らの不甲斐なさが嫌になる。

 この男は、ずっと耐えていたのだ。数十年、数百年……確かな期間など分からない。けれど、小娘には想像も付かないような長い年月、彼は多くの迷える独り子を救いながら、自身は身を裂くような苦痛にじっと耐えていた。……文字通り、己の魂をも削りながら。

 ――ノスフェラトゥやカインに抱いた畏怖を感じなかったのも当然だった。彼は、言葉通りの「死に損ない」だったのだから。

「っ――!」

 リリスは、ぎりりと奥歯を噛み締めると、金十字の短剣を抜き放ち――自らのカソックの肩口を、大きく切り開いた。

「セインティア、何をしている」

 眼差しを厳しくしたファウストが、窘めるように言う。

 だが、リリスは怯まない。

「何よっ、不満だって言うの!? じゃあこれでどうよっ!?」

 言いながら開いた肩口に手を掛けると、力任せにカソックを引き裂いた。勢い余って小振りな乳房が覗きそうになるが、間一髪両腕で押さえ込んだ。

「……何をやっているんだお前は」

 深々と嘆息するファウスト。

 その気持ちは良く分かる。だが、今更、後には引けない。リリスは、紅潮した顔をごまかすようにそっぽを向いたまま、気恥ずかしそうに告げた。

「……分かるでしょ、ばか。……吸っていいって、そう言ってるのよ」

「……馬鹿なことを」

 ファウストは苦笑した。

 馬鹿なこと。……自分でも、そう思う。数日前の自分が聞いたら卒倒するだろう。もし顔を合わせることが出来たなら、大げんかだ。お互い、言いたいことを言って、やりたいことをやって、それを曲げることなんて知らないお転婆の跳ねっ返りだから、きっと決着はつかないだろう。

 でも。

「……馬鹿なことなんかじゃ、ないわよ」

 確信を持って、そう言える。

「私は、貴方に生きていて欲しい。……貴方がいないこれからなんて、考えたくない」

 それが、全て。

 けれどファウストは、そんな彼女の想いを牽制するように、鋭い眼を向けて言った。

「……勘違いするな、セインティア。私は、それがどれだけ許されぬことであるのかを語って聞かせただけだ。お前に、その禁忌の片棒を担げとは言っていない」

 実際、そうなのだろう。この男は、卑しい業を使ってまで生き長らえようなどとは、欠片ほども思っていない。自分の人生は既に終わったもので、残された時間は全て他者のために消費すると決めているのだ。……歩み寄る死を、既に受け入れているのだ。

 だけど、そんなのは許せない。許さない。自分をこんな風にした責任は取って貰うのだ。リリスは、かぶりを振って言った。

「……アル。貴方がどんなに拒んだって、これだけは譲れない。どうしても嫌だと言うのなら、無理矢理にでも飲んで貰うから」

「……それが聖女の言うことか。草葉の陰で、両親も泣いていよう」

 そんなことを言うファウストに、リリスは揺るぎない決意の視線を向けて言った。

「私はね、アル。もう、どんな禁忌だって犯す覚悟は出来ているの。それで貴方が助かるのなら――私の意志を貫けるのなら。天の父にだって、背いてみせるわ」

「――――」

 ファウストは、眼を閉じた。逡巡するように――と言うよりも、衝撃のあまり言葉を失って、

「……何と言う我が侭な娘だ。子供か、お前は」

 そう、嘆息した。その言葉には、非難の色こそ見えはしたが、リリスの理論があまりに馬鹿馬鹿しかったからか、これまでの頑なさはなくなっていた。

「あら、知らなかった? 言いたいことを言って、やりたいことをやる。それが私――リリス・ミヒャエル・セインティア、なのよ?」

 リリスは勝ち誇ったように笑って、そう言った。

 その曇りのない眩しさは、正に「太陽の笑顔」と呼ぶに相応しいものだった。

 それに誘われたわけではないだろうが――見れば、心なしか、闇に沈んでいた森が少しずつ白んで来ているようだった。……夜明けが、近いのだろう。

 ファウストは、観念したように苦笑して言った。

「……無理矢理にでも、飲ませるのだったな。ならば、もう少し近くへ来ることだ。すまないが……最早、身を起こすことも叶わぬのでな……」

 そんな言葉に、リリスはハッとした。口だけは達者だったので忘れていたが、やはり、かなり無理をしていたのだろう。辺りが白んで来たからか、その生気の抜け切った、まるで本当の死者のような顔色が良く分かる。

「ご、ごめんなさいっ……えと、こ、こう……?」

 反射的に謝りながら、己の首元を捧げるように体を重ねて行く。気恥ずかしくはあったが、ファウストが身動き出来ない以上は、そうするより他はなかった。

 大樹に背を凭れるファウストに、覆い被さるように身を寄せる。……見ようによっては、リリスが彼を襲っているようにも見えるかも知れない。

「……セインティア」

 気恥ずかしさでぐちゃぐちゃな頭の中に、ふと彼の声が響いた。

「なっ、なにっ? 出来れば、は、早く済ませて欲しいんだけどっ――……もう、恥ずかしくて……死に、そぅ……っ……」

 うなじまで真っ赤にしながら消え入りそうな声で言う少女に、ファウストは穏やかに微笑みながら、それでも確かな厳しさの覗く声音で告げた。

「……今回だけが、特別だ。これから私は、お前のために、己に課した誓約を破る。二度はない。今後も私を傍に置いておきたいのなら――精々、強くなって見せろ」

 少しだけ、リリスは沈黙した。けれど、それは迷っていたからじゃない。そんなことを、今更聞くのか、と思ったから。

 リリスは一つ、くすり、と笑ってから、

「――ええ、まかせて。私は……強くなるわ」

 揺るぎなき自信を持って、そう言った。


 ……そうして。

 少女の決意と新たな門出を祝福するかの如く、木々の隙間から「ヤコブの梯子」が降りる中――ヴァンパイアは、聖女の白い首筋にそっと唇を寄せた。



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