[Die funfte Nacht]『セインティア』――光輝の行方 4
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――それはもしかしたら、単なる暇潰しだったのかも知れない。
カインに連れて来られたのは、時を止めてからもう随分と経つ、古びた時計塔。月明かりの覗く最上階の一室で、その男は影の中からルフィティアに語った。
それは、アイナの黒き歴史。
闇に葬られたフニャディ家の真実。
英雄女伯エリザベータとドラクレア家の悲劇。
聖ダヴァンツァティの葛藤。
公女ベアトリクスに始まる、アイナの聖女たちが背負って来た十字架。
そして――これからの、アイナとフニャディ家の運命。
……己の、運命。
一度に聞かされた多くの情報に、ルフィティアは混乱した。全ての事柄を正しく理解して、正しく処理することなんて出来るわけもなかった。
――けれど。
「……泣いているのか。気丈な娘だと思ったが、恐ろしくなったか」
影が言った。
ルフィティアは、泣いていた。声を殺して、けれど確かに、輝く雫を零していた。
だが、それは恐ろしかったからじゃない。悲しかったからでもない。
「……いいえ。わたくしはただ、悔しいだけ」
「悔しい、だと?」
怪訝な声。無理もない。この状況で、恐怖よりも悲しみよりも、悔しさが先に来る少女など普通ではない。まして、それで涙を流すなど。
「そう……わたくしは悔しい。フニャディ家の末裔でありながら、今日この時まで、何も知らなかった。背負うべき責務も、知っていて然るべき真実も、何も。本来ならば、お父様と共に考えて行かなければならなかったのに。全てを、お父様に押しつけてしまっていた。……知らなかったでは、済まされない」
言いながら、尚もルフィティアは涙を流し続けた。
影は、言葉に窮したように、じっと押し黙った。
「わたくしは……今日まで何を見て生きて来たのか。ろくに街のヒトビトの生活も知らず、苦しみを知らず、あまつさえ家のことまで知らなかった。お父様の苦しみを知らなかった、アイナの聖女の哀しみを知らなかった、カインの嘆きを知らなかったっ……! ……許されない……こんなこと……っ……」
「――そうだ」
好機とばかり、影が声を上げた。
「お前は贖罪せねばならない。罪深きフニャディの末裔として」
そんな言葉に、ルフィティアは逡巡するように顔を伏せる。
「……そうね」
しばらくして、ぽつりと言った。
にやり、と影が笑う。
――だが。
「けれど、それは貴方に対してではありません」
凛とした声で、公女はそう言い放った。
「わたくしが謝らねばならないのは、貴方などではない。わたくしが謝らねばならないのは、シスター・フェアシュタント、カイン、そして……ドラクレア公」
「そうだ、だから私を――」
「貴方がファウストゥス・ドラクレア公だとでも? ご冗談を」
言いかけた影を、ルフィティアは不似合いにも鼻であしらった。
「今ならば分かります。貴方の起こした一連の事件、そして、まるでこの時を選ばれたかのように来訪された彼の方。全ては運命であったのだと。……そう、ファウストゥス公は、確かにご帰還されていた。けれど、わたくしたちを害することなどなく、アイナとアイナの民をそっと見守ってくれた。醜い怒りや憎悪など捨て、ただ故郷を懐かしむように、我が子の成長を喜ぶように、そこに在ってくれたのです。それは――けして、貴方のような卑しいケダモノなどではありません」
言って、金色の彼女にも似た揺るぎない視線で、道化の如き影を射貫いた。
「……つけ上がるなよ小娘。余計なことを言わず、我の言う通りにしろ。これ以上つまらぬことを言うようなら、手足の一本や二本、引きちぎってやろうか」
歯軋りして、黒い言葉を発する影。
ルフィティアは一瞬だけ言葉を飲んだが、しかし、負けなかった。
「っ……わたくしは、ヤーノシュ・フニャディの子は、貴方などに屈しませんっ……!」
そう、ありったけの勇気でルフィティアが叫んだ瞬間だった。
「――貴女のような女丈夫がいればアイナは安泰だ、とは言ったが、些か命知らずが過ぎるのではないかな?」
そんな声が、ルフィティアと影の間を通り抜けて行った。
† † † † †
先陣を切ったファウストに間を置かず、リリスもその場所へと踏み込んだ。
最初にその金色の眼に映ったのは影。いや、影の中、より一層の黒さを見せる深い闇。ノスフェラトゥ。直感的にその名が脳裏を過ぎる。間違いないだろう。それ以外の何者も、この場所にはいないはずだったから。
いや、正確には、もう一つ人影があるが、それが誰かなんてことは最初から分かっている。――そう、彼女。
「ルフィティア!」
反射的にその名を呼んだ。
「リーリエ!」
ルフィティアも返す。そうしてから、最初に声を発した黒ずくめの男にも眼を向けた。
「アルカード様も……助けに、来て下さったのですか……?」
少しだけ不安げな声。確認するような問い。
それに釣られてしまったのか、リリスも何だか不安になって、ファウストを見た。
彼は、一瞬不思議そうな顔をしたが、
「……当たり前だろう? プリンセスを救い出すのは、いい男の特権だからな」
そう言って、戯けるように笑った。
安堵したような笑みを見せるルフィティア。
――しかし、それも束の間。
「カインの奴め……しくじったのか」
影――ノスフェラトゥが口惜しげに発したその名に、ルフィティアはハッとした。
「カイン……そう、カインは――ねえリーリエ、カインは、カインは一緒ではないの? わたくし、カインに話があるの、どうしても伝えなければいけないことがあるの、だから」
穏やかな彼女には珍しく、多分に焦燥の滲む声音で問うルフィティア。
哀れみすら誘うそんな親友の姿に、瞬間、リリスは思わず口を開きかけた――が、すぐさまファウストに制されて口を噤む。すぐ傍に控えるアベルも、辛そうに唇を噛んで押し黙ったままだ。
「どう言う……こと……? 何故、何も言ってくれないの……?」
怯えたように琥珀色の瞳を揺らして、ルフィティアは呟く。答える者はない。
「どう言うも何もないわ。我はあれに、死んでもここへ敵を近付けるなと命令していたのだ。こ奴らがここにおると言うことは、そう言うことだ」
リリスらに代わり、無慈悲に吐き捨てるノスフェラトゥ。
「うそ……でしょう……?」
見る見る歪んでゆく琥珀色の瞳。
リリスは堪え切れず口を開きそうになったが――代わりの言葉を吐くことで、何とかいたたまれない想いを振り払った。
「……お前がノスフェラトゥね。会うのは二度目かしら」
「誰かと思えば、我の食事を邪魔した何時ぞやの小娘か。腰を抜かしておった未熟者が、何用でここまで来おったか」
挑発的な言葉。以前のリリスであったなら、冷静さを欠いた言動で全てを台無しにしていたところだったろうが、今ではこの程度の皮肉、慣れっこだ。
「愚問ね。お前を退治しに来たに決まっているじゃない。ヒトに仇なす化け物を、灰に還すが我が使命。……潔く、その首を差し出しなさい」
言いながら、抜き放った短剣をノスフェラトゥの首元へと向ける。
ノスフェラトゥは少しだけ表情を険しくして、紅い双眸でリリスの金の瞳を見据えた。
「……ほんの数日で随分な口を利くようになったな――さては、そこの「死に損ない」にでも、何ぞ吹き込まれたか」
ふいに発されたそんな言葉。リリスには意味が分からなかった。
「死に損ない……? 何を言っている?」
眉根を寄せ、しかし油断なく、更に眼光を鋭くする。
だがそんなリリスに、ノスフェラトゥは皮肉げに口の端を歪めた。
「……なるほど、愚かさは変わらぬと言うわけか。無知は罪だな。……のう、そこの御仁よ」
その視線が、リリスのすぐ隣りに佇むファウストへと注がれる。
「アル……?」
視線の意味が分からず、無意識に彼を見ていた。
「――油断するな、セインティア。そうして気を逸らすのが目的やも知れぬだろう」
油断なくノスフェラトゥを見やりながら、ファウストは窘める。
ハッとして視線をノスフェラトゥへと戻すも、リリスの意識は逸れたままだ。死に損ない? どう言う意味? ――そればかりが、頭の中をぐるぐると回っている。
そんなリリスを気遣ってか、或いは任せておけぬと判断したのか、リリスの言葉をファウストが継いだ。
「……黒き『闇の私生児』よ。お前と『王国』の野望は潰えた。大人しくすれば、苦しまぬように葬ってやろう。それが最後の慈悲だと知れ」
「ほう。卿はよほど名のある『魔獣』であらせられるのか。はたまた、相手の力量も計れぬほどに落ちぶれられたのか。……愚かなるヒトなどに味方しておいでなところを見ると、後者か」
「勘違いするな。お前を討つのは私の仕事ではない。お前の喉元に向けられた黄金の剣こそが、お前を永久の安らぎへと導くペテロの鍵だ」
「ならば尚のこと、耄碌されておるようだ。この小娘が我に敵うと思うのか」
「……さてな」
最後に発せられた思わせぶりな言葉。秘策があるとでも言いたげなそれに、饒舌だったノスフェラトゥは僅かに押し黙った。
「……まあ、良い。我には人質も在る。どちらにせよ、お前たちは我に手出しなど出来ぬ」
そう言って、ノスフェラトゥがいやらしく笑った――正にその時だった。
「――悪いが、誘拐ごっこはここで終わりだ」
ふいに乱入したそんな言葉。見れば、月明かりの差す窓に、黒い人影が佇んでいた。逆光になっていて顔は見えなかったが、
「――カイン……!」
誰よりも先にその名を呼んだのは、ルフィティアだった。そしてその瞬間には、既に彼女の体は彼の腕の中にあった。
「遅いわよっ! おかげでルフィに不安な思いさせちゃったでしょっ!」
そう声を上げたのはリリス。
カインはリリスを一瞥すると、
「……下で『屍食鬼』に絡まれたんだ、許せ」
面倒臭そうに、そう吐き捨てた。……手形に赤く腫れた頬が痛々しい。
彼から向けられる視線は、ある意味では敵意だったかも知れない。けれど、そこにあの刺々しさは最早ない。あるのは……少しばかりの苦手意識か。
それを内心おかしく思いながらも、より一層表情を引き締めて、リリスはノスフェラトゥに対峙した。
「……さあ、覚悟しなさい。もう打つ手はないはずよ」
リリスの言葉に、ノスフェラトゥは軽く舌打ちなどしながら、状況を見定めるように周囲に視線を巡らせた。
階下へ降りる階段の前には、未熟とは言え成長著しい『闇の狩人』と、得体の知れない『闇の魔獣』。月明かりの差す窓の前には、戦力にならない荷物を抱えた『闇の眷属』が一人。
――ノスフェラトゥは迷わなかった。
「っ……!」
「きゃっ!?」
ルフィティアを抱えたまま、カインは咄嗟に身を捻って躱す。紙一重のところを、黒い闇の塊がケモノの速度で駆け抜けて行く。
後には、丸い月の覗く、夜への入り口がぽっかりと口を開けているだけだ。
「逃げられた!?」
「いや、これで良い。どのみちこんな閉所では戦えぬ。追い立てる必要はあったのだ。それに、『闇の私生児』に飛行能力はない。空から追えば、十分に追い付けるはずだ」
焦りを覚えたリリスを、ファウストは簡潔に窘める。
窓際まで駆け寄ると、ファウストはリリスの腰を抱いた。
「このまま追うぞ」
「ええ!」
リリスも、今更迷わなかった。
――迷いを抱いたのは、別の者だ。
「ま、待ってくれ! 俺も行く! 自分の不始末は自分で片付けたいんだ……!」
そう言ったのは、未だルフィティアを腕の中に抱く独りの『闇の眷属』。
ファウストは背を向けたまま、静かに告げた。
「――エデンの東へ追放されしヒトの子よ。……お前は、そこまで愚かなのか」
その言葉を、『闇の眷属』は理解出来ないようだった。だが、
「……カイン……」
消え入りそうなか細い声が、他でもない己の腕の中から聞こえるに至り、彼は理解した。自分が、今本当に為すべき役目を。
「……すまない」
最後に、「原初のヒトの子」がそう呟いたのを確認して、聖女とヴァンパイアは、どこまでも続く漆黒の夜の中へと飛んだ。




