[Die funfte Nacht]『セインティア』――光輝の行方 3
[3]
丸い月の輝く大空から、ほど近くの屋根上に四人は場所を移した。これから大切な話をしようと言うのに、足が地に着いていないのでは話にならなかったから。
羽を畳んだファウストたちに対して、カインは羽を大きく広げたままだ。それは恰も、獣が外敵を威嚇するかのように。己をより強く、大きく見せんとするが如く。
だが、そんな虚勢とは無関係に彼は強い。剣を交えずともリリスには分かる。実の弟であるはずのアベルは、『闇の眷属』であることが疑わしいほどの微弱な『魔力』しか感じさせないのに、兄のカインはまるで違う。
恐らく、日頃は何らかの手段で偽装していたのだろう。解放された夜闇よりも尚暗い暗黒のオーラが、カインの輪郭を朧気にする。それは彼の体格を遙かに超えて膨張し、まるで、すぐ傍に見える「彼」の黒い背中よりも、よほど大きなモノのように思えた。
その巨大な闇の塊の中心から、鋭い眼光が覗いている。冷徹な、ヒトを拒絶する鈍い輝き。ともすれば、痛みすら感じる憎悪の眼差し。
――けれど、リリスは知っている。その眼差しから憎悪が消える、その瞬間を。
それは、アベルも同じだったのかも知れない。
「っ……兄さんっ! 僕には、兄さんがこんな恐ろしいことの片棒を担いだなんて、とても信じられないよっ! 何かの間違いなんでしょっ!?」
皆に先んじて、アベルが声を上げた。
カインは、冷徹な視線を弟に向けて言った。
「……何か余計なことを吹き込まれたか、アベル」
「答えになってないよっ!」
兄の澄ました態度に、気弱で大人しかった少年は激高した。
「兄さんが、ヒトを恨んでいたのは知ってるよっ、憎んでいたのは知ってるよっ! 僕はっ――僕はずっと兄さんの影に隠れていただけだから、本当の兄さんの苦しみは分かっていないのかも知れない、けどっ! それでも僕らにだって仲間はいた! 友達はいた! ――居場所はあったんだ! それなのにっ……それなのに! 僕やみんなを捨てて、そうまでして、何でこんな恐ろしいことをっ――」
「――アベル」
静かに、深い暗闇のように、無頼の青年は弟の名を呼んだ。
「そう……お前は何も分かっていない。ヒトの醜さ、卑しさ、強欲さ。自らと異質なモノに対する非情さ、残酷さ。神の愛を説きながら、弱者を殺す愉悦。……それがヒトの本質だ。ヒトは粛正されるべき悪。そしてそのためにこそ、俺たち『闇の眷属』は在る」
「そんな……そんなの、分からないよっ……」
何とか言葉を返しながらも、気圧されたようにアベルは後退る。
それを見て、少しだけカインは表情を和らげた。
「……ああ、分からなくていい。……分からないでいて欲しかったのだ、俺は。だからこそお前を置いて来た。何も告げず、独りで歩んで行くと決めたのだ――だのに」
言って、カインは口惜しそうに口の端を噛んだ。これまでよりもより一層、剣呑さを増した視線を弟に――いや。弟の背後に佇む黒衣の男に、向けた。
「……貴様か。弟に良からぬことを吹き込んで、誑かし、唆し、欺いて……こんなところにまで連れて来たのは」
ここへ来て始めて見せる、感情を乗せた言葉。黒い感情にまみれた、呪いの言霊。
しかしそれを受けても、ファウストは涼しい顔をして嘆息するだけだった。
「……やれやれ、口の利き方を知らぬ男だな。アベルとは大違いだ。これは今少し、ルフィティア公女に躾けて貰うが肝要か」
そんな挑発的な言葉に、ほんの僅か、カインの表情が歪んだ。
「……その名を、口に出すな」
「はて……その名、とは、アベルのことか。はたまた――ルフィティア公女の、ことかな」
笑み混じりに、ファウストが問うた瞬間だった。
「――っ!?」
思わず、リリスは悲鳴を上げそうになった。瞬間的に両耳を覆って、けれど耐えられず、がくりと膝を突いた。
「なっ……何っ……!? 何なの、この――『音』っ……!」
それは『音』だった。何とも表現のしようがない、とにかく耳をつんざく高音の音波。比喩でなく、鼓膜が破れるかと思った。
「――ほう。『反響定位』をこのように使うか」
絶え間ない音波の嵐の中、動じた風もなく、ファウストは言った。
「エ、エコ……何っ?」
雑音の中、それでも通る低い声に、リリスは眉根を寄せる。
「つい先日、セインティアもアベルの能力を目の当たりにしたろう。彼ら『天鼠族』は聴力に優れ、ヒトの可聴域外である高周波の音波を用い、自らと対象との位置関係を完璧に把握する術を生まれながらに持っている。
これは、その応用だ。意図的にヒトの可聴域へ音波の周波数を調整することで、このような現象が起こる。おまけに、たっぷりの『魔力』を乗せた音色だ。さながら、『闇夜の鎮魂歌』……と言ったところか」
あくまでも表情を曇らせないファウスト。本当に何の痛みも感じていないのか――或いは、そんな怨嗟など、疾うに聞き慣れてしまっているのか。
「っ……兄さんっ! こんなこと、止めてよっ……!」
一方のアベルは、同族とは言え『魔力』を乗せた攻撃的な音波に耐性などないのか、耳を塞ぎながら悲痛な声を漏らす。
そんな弟に、返す兄の言葉は冷徹だった。
「……五月蠅い詐欺師を黙らせようとしただけだ。……残念ながら、本人はさしてこたえていないようだがな」
とは言え、リリスにとっては効果絶大だ。このままでは満足に身動きも取れないし、それこそカインが本気になれば、本当に鼓膜を破壊されてもおかしくはない。
しかし、このまま黙っていたところで状況は改善しないだろう。
だから、ファウストは言葉を止めなかった。
「私が詐欺師だと言うならば、お前の主人はどうなのだ?」
「……主人だと?」
剣呑な雰囲気は変わらないが、思うところがあったのか、カインは応じた。
「おっと、ルフィティア公女のことではないぞ。他でもない、お前に指示を出している『王国』の手の者のことだ」
ルフィティアの名を出したのは失言だったかもしれないが、それよりも気になることがあったのか、カインが語気を荒げることはなかった。
「……奴のことか。勘違いするな、奴は主人などではない。あくまでも俺の協力者だ。人間どもを粛正するためのな」
「ほう。ならば、その「協力者」が何者であるかを知っているか?」
「何者か、だと? ……馬鹿馬鹿しい。あれほど強力な力を持った『王国』の者なのだ。『闇の魔獣』――ヴァンパイアに決まっているだろう」
疑いなく吐き捨てるカインに、ファウストは微かに笑った。
「何がおかしい」
「おかしいことに気づいていない、お前がおかしいのだよ。いや、ただの無知ゆえのことか。いずれにしろ、お前は大きな勘違いをしている」
一転して厳しい視線を向けると、ファウストは続けた。
「民間伝承とは、元来その多くが何の根拠も確証もなく、迷信にまみれたあやふやなものだ。しかし、希に一握りの真実も含まれる。例えば、「吸血鬼に噛まれた者はどうなるのか」――分かるか、セインティア」
ふいに問われて、ハッとする。気が付けば、カインの音波攻撃も止んでいた。
「え? ……えっと、そりゃ、吸血鬼になるんでしょ」
ファウストは満足げにこくりと頷く。
「そう。しかしどうだ。お前の協力者とやらはアイナで吸血を繰り返したが、吸血鬼を生み出したりしたか。いや、単に「その気がなかった」のかも知れぬ。敢えて遺体を残すことが目的だったのかも知れぬ。されど――「協力者」なら既に知っていよう。その者が吸血によって生み出せるのは『屍食鬼』――不完全な、生ける屍だけであると」
「……ならば、奴は何者だと言うのだ」
感情の読み取れないそんな問いに、ファウストはゆうるりと告げた。
「その者は、ヒトを雛形にして『闇の魔獣』によって生み出される、『闇の魔獣』でも『闇の眷属』でもない者。『王国』によって、使い捨ての操り人形として使役される者。その名を――卑しき『闇の私生児』と言う」
――卑しき私生児。使い捨ての操り人形。
……即ち、確固たる理想を以て『王国』を「協力者」と頼るカインに対し、当の『王国』は、カインを卑しい使い捨て以下の、矮小な存在としてしか見ていなかったと言うこと。
その事実が、どれだけカインの心情に変化を与えたかは分からない。けれど、次の言葉が紡がれるまで、確かに逡巡するような間があった。
「……たとえそれが本当であっても、俺より強大な力を持っているのは事実だ。ならば俺は、その力と共に己が信じる道を進む」
「そうして、一生『王国』の奴隷か。卑しき『闇の私生児』に使役され、『王国』の地に這う虫として生きることがお前の望みなのか。分かっていよう。「協力者」などと、聞こえの良いただの建前でしかないと」
「それでも……っ……それで、人間どもに復讐が果たせるならば本望だッ!」
辛辣なファウストの言葉に、カインが怒号を上げた瞬間だった。
「――もういい加減にしてよっ……!」
アベルの、喉が涸れんばかりの叫び。カインは喉を詰まらせ、ファウストはアベルの声を噛み締めるように、そっと眼を閉じた。
「兄さんっ……兄さんは僕がアルさまに騙されてるって言った、唆されてるって言った。……でも、そうじゃない、そうじゃないんだ!
僕は、アルさまと出会って、今まで感じたことのない、確かな安らぎを感じたんだ。暖かさを、感じたんだ。僕は……兄さんがいなくなって、壊れかけていた心を、アルさまに救われたんだよ!
だから、僕はこのヒトについて行こうと思った。このヒトの望むことをして、このヒトの大切なモノを、大切に想っているモノを、同じだけ大切にしたいと思ったんだ。
……兄さんは? その「協力者」と言う誰かは、兄さんに何を与えてくれたの? 安らぎや、暖かさを教えてくれたの? 兄さんは救われたの? 救われているの?」
矢継ぎ早に紡がれた弟の問いに、兄はぎりりと口の端を噛み締め、
「――甘っちょろいことを言ってるんじゃないッ!」
――しかし、堪えることなど出来なかった。
「安らぎだと? 暖かさだと? ――そんなモノはまやかしだ! 俺は幾度も見て来た! 昨日まで優しく笑いかけていた相手が、俺たちがヒトでないと知った瞬間、醜く顔を歪ませるところを! 誰だってそうだ! 俺たち自身は何も変わっていないのに! 何もしていないのにッ!
何が救いだ! 何が愛だ! そんなありもしない薄っぺらいモノに縋って、その度に打ちのめされてッ――そんなのは、もう沢山だッ! 信じて、騙されて、そんな無限に続く拷問の中で生きるくらいなら、俺はッ――!」
……夜の空に響く、怨嗟の声。否、悲鳴。
リリスはそれを聞きながら――言葉に出来ない、妙な違和感を感じていた。
いや、カインの言葉だけじゃない。アベルの言葉も、ファウストの言葉も、的外れな道化の言葉のように聞こえていた。
けして、彼らの言葉を軽んじているわけではない。それぞれに正しいことを言っているのは分かる――そう、カインの言葉も。それは、間違ってはいないのだろう。
だけど、これは違う。今問うべきなのは、彼らが発したいずれの言葉でもないはずなのだ。もっと、はっきりと言わなければならない言葉があったのだ。
「――ルフィティアを、まだ傷付けると言うの?」
覚悟を決めて、リリスはそれを告げた。
三つの視線が一瞬で集い――カインは、表情をなくした。
リリスは今一度呼吸を整えてから、ゆうるりと、己の言葉を噛み締めるように続けた。
「……すでにヤーノシュ伯は亡く、多くのあの子に近しいヒトたちが死んでしまった。あの優しい子が、それを知ってどれだけ悲しむだろう。どれだけ涙を流すだろう。……もう、取り返しのつかないことは起きてしまった。もしかすると、一生あの子は貴方を恨み続けるかも知れない。……でも」
言いながら、リリスは一歩、また一歩と歩みを進める。一瞬毎に詰まっていく距離。黒い怨嗟の塊がじっと自分を見据えている。けれど、不思議と恐怖はなかった。その言葉を、まっすぐに、最後まで紡ぐことが己の使命だと思えた。
「でも、だからこそ、貴方はこれ以上、あの子を傷付けてはいけないんだと思う。あの子のために何をすべきなのか。それを考えるべきなんだと思う」
「――馬鹿な……最早、俺は後戻りなど出来ない。ルフィティアを……彼女を傷つけることになるなど、初めから分かっていたのだ……そんなこと……そんなこと……は」
それが、あまりにまっすぐ過ぎたからか。カインは、リリスを退けることも忘れ、どこか虚ろな呟きを漏らした。
「……貴方は世界を変えると言った。人間を粛正すると言った――けど、それが本当に貴方の望みだったの? 違うはずよ。そして、貴方の本当の望みを叶えてくれる誰かがいるのだとしたら、それは――……言わなくても、分かるはずよね」
リリスの言葉に、カインは視線を落として口の端を噛む。
「俺は……俺はもう、それを望める立場には、ない……っ……」
「いいえ、望める望めないじゃない。よく考えてみて。貴方は、貴方の本当の望みを、大切なモノを、自ら踏みにじろうとしている。……本当にそれが、本望なの?」
「それは……それでも、俺は……」
優しく、穏やかに、凛とした言葉を紡ぐ聖女。
黒き天鼠の青年は、答えるべき言葉が見付からず、逡巡した。
夜闇の中交差する、金と黒。願いと、迷い。二つの意志は、さながら終わりのない追いかけっこのように、交わることがない。
それに終止符を打ったのは、聖女の怒声だった。
「――ええええええええええええいっ! 男がいつまでもうじうじうじうじとおおおおおおおおおおおっ! いらいらするうううううううううううううううっ!」
瞬間、その場の全員が眼を丸くした。当然だ。この静かな夜に、これほど不似合いで場違いで間抜けで滑稽で、はた迷惑な声はない。
……だが、考えようによっては、先ほどまでのリリスの様子こそがおかしかったのだ。お転婆の跳ねっ返り娘にしては、あまりにしおらし過ぎて、穏やか過ぎた。
つまりそれは、「いつもの彼女」が戻って来ただけのこと。そして、本来の、相応しい自分を取り戻した彼女に、最早迷いはなかった。
「世界を変える? 人間を粛正する? ――ばっかじゃないの!? いい年して何を夢見てんだか! いーい!? そんな子供じみた妄想なんかより、ルフィティアの方が何百倍も大切でしょって言ってんのよこちとらっ! ――あーもうキレたわっ! 眼を閉じて歯ぁ食いしばりなさいっ!」
そう一息に言い放つと、呆然とする『闇の眷属』を金の瞳で見据えたまま、聖女は丸い月の輝く夜空へと、黄金に輝く手のひらを大きく振りかぶった――




