[Die funfte Nacht]『セインティア』――光輝の行方 2
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一定以上の知能を持つ生物にとって、コミュニティを形成すると言う行為は、ごくありふれた本能的行為である。
ヒトに於けるそれは「国家」や「街」、「村落」と言う大きなものもあれば、悪餓鬼どもの吹き溜まりのように、取るに足らない矮小なものもあって、けれど、いずれもが浅からず相互に関わり合うことで、世界と言う大きな舞台は回っている。
そしてそれは、アウトサイダーたちが跋扈する、暗い夜の舞台でも変わらない。
ヴァンパイア・コミュニティ――それは、『王国』と呼ばれていた。文字通り、アウトサイダーたちが、彼らの身の安全と繁栄を願い築き上げた、彼らの『王国』だ。
では、彼らにとっての「繁栄」とは何か。
即ちそれは、潤沢な「食料」に溢れ、誰憚ることなく「食事」を愉しむことの出来る「安住の地」の確保、そしてその拡大に他ならない。大航海時代以来の人類がそうであるように、彼らもそう――『植民地』を、求めているのである。
その凶暴性に反し、彼らは『植民地』を手にするためならば、どんな手間も、どんな苦労も厭わない。何年、何十年、何百年と言う年月を掛けて候補地を探し、その土地の所有者を籠絡する術を模索し、実行に移すための手駒を用意し、布石を蒔いてじっと待つ。
人類ですら武力で平らげることを是とするそれに、殺意と暴力の代名詞たる彼らが何故そんな手間暇を掛けるのかと言えば、それは偏に目立たぬがため。教会や国家の上層部は、『王国』の『植民地』化を常に警戒している。あくまでも、秘密裏に事を為さなければならないと知っているのだ。
――しかし。もしも状況が許すのであれば。そして、そうせざるを得ない状況であるのなら。例外的に、彼らは行動するだろう。……残忍なる本性を剥き出しにして。
† † † † †
カインの背後に『王国』の存在があるのは間違いなかった。そうでなければ彼の行動に説明が付かなかったし、一介の『闇の眷属』が「世界の変革」を夢見るほどの理由など、他には考えられなかったから。
そして、そう考えるならば、現在アイナを脅かしている「吸血鬼」の正体も自ずと見えてくる。即ち、あの夜リリスが対峙した赤眼の主こそが、カインを直接に操る者――『王国』の意志によって、『植民地』を拡大する任を負った存在なのだ。
『王国』の手先によって唆されたカインは、ルフィティアに近付き、アイナの闇を調べ上げ、長らく家の業に苦しんで来たヤーノシュ伯の善心に付け入った。
全ては、アイナを秘密裏に『植民地』とするため。
しかしそれは、他ならぬヤーノシュ伯の正義によって頓挫した。少なくとも、彼に近しく付き従ってきた者たちは、最早誰一人『王国』に靡くようなことはしないだろう。
同時に、事が表沙汰になれば国や教会の警戒は厳重になり、『王国』による『植民地』化の機会は永劫に失われる。
――ゆえに、それは起こったのだ。
暴挙とも思える、二度に渡る『屍食鬼』の襲撃。それは、亡きヤーノシュ伯の意志に従う者たちを、速やかに一掃するためのもの。
そうして抵抗勢力が潰えたのち、傀儡として擁立されたルフィティア公女の下、アイナは新たに生まれ変わるだろう――『王国』の新たな『植民地』として。
――そんなことは許せないと思った。どうにかしなければと思った。
けれど、その幼い聖女には、押し寄せる暴力の群れに対抗する術など思い浮かばなかった。
……彼女は何も識らなかったから。分かっていなかったから。『王国』の存在も、歴史の真実も、義母の抱えていたモノも――「彼」の心の内も、何もかも。
リリスには何も分からないし、何も出来ない。……年相応の、無力なただの子供。『狩人』などと、『聖徒』などと、笑わせる。
ヒトビトの先頭に立って戦わねばならぬこの時に、リリスは己の無力さ、無知さに打ち拉がれて、俯くことしか出来なかった。
――けれど、そんな無力な少女に、全てを識る者は優しく微笑んだ。
ヤーノシュ伯が斃れ、屋敷に『屍食鬼』が放たれた時点で、彼には『王国』の手の者が強硬策に出たことが分かっていた。元より、「呪い」と言う名の『魔力』に満ちた杯であるこのアイナを、奴らが諦めるはずもない、と。
ファウストは既に、再度の襲撃を撃退するため、幾つかの手を打っていたのだ。
彼は、混乱覚めやらぬ屋敷内を駆け回り騒動の鎮圧を計る傍ら、屋敷の周囲へ株分けしたアルラのイバラを一分の隙もなく張り巡らせた。
アルラのイバラは鋭利な刃である。株分けされ、本体に比べれば弱体・短命化したそれでも、切れ味は変わらない。生きた鉄条網となったアルラのイバラは、屋敷へ侵入せんとする『屍食鬼』どもを尽く切り刻むことになる。
運良く侵入を果たしたとしても、統制の取れない散発的な侵攻など恐るるに足りない。屋敷中から集めさせた弓、弩、銃を携えた衛兵たちが、愚かな侵入者を隙なく迎え撃つ。
幾らかは撃ち漏らしが出るだろうが、猛攻に晒されるであろう正面には、無双たるリーヴェとラピニールが控え、状況によっては、上空から全方位の戦況をつぶさに観察する黒い大フクロウが、全ての辻褄を合わせるだろう。
だが、リリスらにはもう一つ、為さねばならぬことがある。
――迎撃の準備が大凡整った頃、誰かが言った。
「……ルフィティア様は、ご無事なのでしょうか――」
† † † † †
ルフィティアの身の安全は、恐らくある程度は保証されている。傀儡として民衆の前に立たせる以上、五体満足である方が都合が良いからだ。
しかし、いつまでも無事でいられると言うものではない。五体満足がベスト、と言うだけであって、ベターを選択する可能性がないわけではない。それこそ、下手に抵抗でもしようものなら、四肢の一本や二本もぎ取られてもおかしくはない。リリスの敵は、本来そう言う相手なのだ。
リリスの『聖徒』としての実力は、この数日で飛躍的に増していた。いや、元々恵まれていた才が、優れた師の下で開花した、と言うべきか。
開花した能力は、純粋な攻撃能力のみならず、感覚的な分野にも及んでいる。暗闇での視覚の拡張、視野の拡大、そして――「魔」を肌で感知する能力。
信頼する師が傍にいる安らぎ。そして何より、友を想う心。それらは、リリスの鋭敏な感覚を更に研ぎ澄まさせた。
聖女のそれは、老練なヴァンパイアのそれをも凌駕し、やがて、広大なアイナに一つ異質な黒い点を察するに至った。距離感こそはっきりとはしなかった。けれど、巧妙に偽装されたその黒い輝きを、リリスは確かに見付け出すことが出来たのである。
――そうして彼らは、黄金色の丸い月が覗く、アイナの夜に飛んだ。
「……大丈夫か?」
唐突に頭上から声を掛けられて、リリスはびくりと身を固くした。
「えっ!? あっ、うん、だっ、大丈夫っ! 大丈夫っ……!」
慌てて返すも、その笑顔は明らかに強ばっている。
それを見下ろすファウストは少しだけ怪訝顔だったが、
「……そうか、ならば良い。落ちないよう、しっかりと掴まっておけ」
言って、ただでさえ密着しているリリスの体を、ぐいと抱き寄せた。
「ちょっ……わぷっ!?」
慌てて声を上げようとしたが、ファウストの胸板に押し潰されて声にはならなかった。
……服の上からでも伝わる逞しい胸板。力強い腕。噎せ返るような甘い薔薇の薫りに――不安を溶かす、その温もりに。リリスの意識が、くらくらと揺れる。意志とは無関係に体温が上がり、頭に血が上って、心地好い目眩がした。
――鼻腔から赤い液体を噴出するのも時間の問題だった。
抱かれるのは初めてではない。一瞬のことであれば、すぐに気を取り直すことも出来た。……すぐに離れることが、出来れば。だが、離れようにも、今はそんなことが出来る状況ではない。離れれば――落下して、死ぬからだ。
リリスはファウストの胸の中。足下には、真っ黒に塗り潰されたアイナの街並み。ファウストの背からは黒い蝙蝠の羽が広がり、すぐ傍には、同じように羽を広げたアベルの姿もあった。
三人は、アベルが宿す『闇の眷属』の力を使って、夜空を舞っていた。何故か。理由は簡単だ。眼下に広がるアイナの街には、彼らの行く手を阻むモノが溢れている。眼を凝らせば、満月に照らされて見えて来るだろう。無人の街の中、闇に蠢く、不吉な影が。
空を飛ぶ能力を持つ者にとって、わざわざこの軍勢を掻き分けて地を進むなど、愚の骨頂である。当然、空を飛んで進むべきなのだ。
……が。その能力を持たない者が一人、いたわけだ。
さして揉めることもなく――と言うよりも、反論する間もなく、極当たり前のように抱き抱えられてしまったリリス。勿論、理屈で考えればそもそも反論する理由などなかったわけだが――乙女の感情は、そう簡単に割り切れるものではない。
状況を意識しないように、出来るだけ頭を空っぽにして、ぎゅっと眼を閉じて、身を強ばらせる。……けれど、ヴァンパイアの妖しの魔性は、乙女の必死の抵抗など意にも介さず、彼女の心と体を翻弄し続けた。
(どうしてこんなにドキドキしてるの、私っ……)
分からなくて、胸中に問いかける。けれど、分からない。分かるわけがない。だって、こんな胸が張り裂けそうな感覚、生まれて初めてだったのだから。
(私はどうしてしまったの? こんな場合ではないはずなのに――)
答えの出ない問いかけを、幾度繰り返したろうか。
――甘ったるい夢の時間は、唐突に終わりを告げた。
「――!?」
びくりとして、リリスは顔を上げた。
ファウストもアベルも、いつの間にか動きを止めている。
三人の視線の先には、夜空に黒い羽を広げた男が独り。
「――兄さんっ……!」
堪えきれず、アベルが声を上げた。
表情も変えず、闇と同化するように、微動だにしない男。
――それは、カインと言う名の、独りの『闇の眷属』だった。




