[Die funfte Nacht]『セインティア』――光輝の行方 1
[1]
アイナ・フニャディ家の始祖マティアス・フニャディは典型的な貴族主義の男であり、支配欲・権力欲も強く、けして諦めぬ執念深さも備え、また、夫人以外に何人もの女性を囲うことが当たり前の、好色なことでも知られる男だった。
武勇を誇った英雄とは言え、平民出のヴラドを快くなど思っていなかったし、貴族であり、才媛であり、何より絶世の美女であったエリザベータ女伯に黒い欲望を抱いたのも、ごく自然な成り行きだった。
マティアスは、けして人間的には褒められた男ではなかったが、政治家・策略家としては優れた才を持っていた。人心を掌握する術も心得ていたし、多方面に強いコネも持ち、十分な資産にも恵まれていた。
その慎重さゆえに二十年余の時を待ったとは言え、エリザベータや彼女の腹心の眼を盗み、城内をフニャディ派と呼ぶべき集団で占領することは、さして難しいことではなかったのである。
自らの地盤を固めた上で、マティアスはエリザベータにヴラドの追放と、領主としての実権の譲渡、そして――肉体関係を迫った。
並の女性であったならば、逃げ場のないその状況に屈しもしたろう。しかし、相手は並の女どころか、男でも手を焼く女丈夫だ。彼女は、強引に操を奪おうと手を伸ばすマティアスを振り切り――その胸を、自ら剣で貫いたのだ。
異変に気付いたヴラドが駆け付けた時には、血の海に沈む女伯の姿がそこにあった。
本来であれば、断罪されるべきはマティアスだった。けれど、城内はもはや、僅かな腹心や一族を除いて、フニャディ派の貴族・家臣で占められていたのである。
解放戦争を共に戦い抜いた相棒を手に、孤軍奮闘するヴラド。けれど、城内には逃げ場などなく、多勢に無勢では勝ち目などあるわけもない。抵抗も虚しく、ほどなくして彼は、フニャディ派によって討ち取られてしまう。
こうして、マティアスらによって、城内は完全に制圧されたかに見えた。
――しかし、その時である。何処からか現れた無数のイバラが、まるで意志を持っているかのように、フニャディ派の者たちを襲い始めた。
多くの者が鋭利な棘の鞭に切り裂かれ絶命する中、這々の体で城内から逃げ出す彼ら。首を晒すためにヴラドの遺体だけは運び出されたものの、他の一切は城内に取り残されることとなり――その中には、ヴラドの血統を受け継ぐ公子の姿も含まれていた。
凶暴なイバラに包まれ、完全に沈黙した『薔薇の城』を早々に諦めたマティアスは、アイナ市街へと拠点を移し、暫定的に領主代行の地位に就く。
アイナに『闇の魔獣』が現れるのは、それから間もなくのこと。
――そしてそれは、無限の怒りと憎悪によって世界を、神を呪い、『断罪する魔獣』へと変じた、公子ファウストゥスに他ならなかった。
ファウストゥスは夜毎街に現れては、執拗にマティアスを襲撃した。しかし都度、衛兵やダヴァンツァティ神父、そして、未だ幼子であったマティアスの末娘ベアトリクスの涙に阻まれて、復讐が果たされることはなかった。
……しかし、アイナからヴァンパイアの脅威が去って後、ほどなくしてダヴァンツァティ神父は事の真相を知る。
――己の為したことは、果たして正しかったのか。
その命題は、後に長じ、真実を知ったベアトリクス公女の想いとも集合して、歴代の『アイナの聖女』たちの間に、脈々と受け継がれて行くこととなるのである――
† † † † †
バルコニーから見下ろす、アイナの街並みは暗かった。
けれど、リリスの胸の内は更に暗い。考えるべきこと、考えなければならないことが多過ぎて――十七歳の少女には、あまりにも重すぎたから。
「――こんなところにいたのか、セインティア」
背後からの声。振り返れば、黒衣のヴァンパイアが優しげに微笑んでいる。
「着替えたのだな。ドレス姿を今少し見ていたかった気もするが……見慣れた姿と言うのも、悪くはない」
冗談めかしたように言う。
けれど、今のリリスには冗談に応える言葉が思い浮かばない。
「……アル」
辛うじて、それだけを口にした。
「……どうした?」
穏やかに問いながら、リリスのほど近くに並び立つファウスト。
リリスはそれを追うように視線を動かして――けれど、やがて元のように、暗いアイナの街並みに視線を落とした。
「その……大丈夫……なの……?」
心配事の一つを、尋ねてみた。
だが、ファウストは何のことか計り兼ねたようだった。いや、正確には、どの事柄を差してのことなのか、判断が付かなかったのだろう。
「それは、私の体のことか? ……それとも、後始末のことか?」
リリスは少し迷ったが、
「ん……両方」
それだけ言って、顔を伏せた。
ファウストは、少しだけ言葉を選ぶようにして告げた。
「私の体のことなら心配要らぬ。ひとまずはな。しかし――……そうだな。後始末に関しては、問題ないとは言えぬか。今宵一晩で、多くの命が失われた。中には、立場のある者も少なくなかった。今後、アイナの混乱は避けられぬし――ヒトビトの悲しみも深いだろう。……言い方は悪いかも知れぬが、速やかに始末を付けるのは難しいな」
その冷静な言葉は、一見、冷たいようにも感じられる。けれど、彼が事態を収拾させるために、今まで屋敷中を駆け回っていたことを、リリスは知っている。
「……ごめんなさい」
無意識に、言葉が漏れた。
「私も、何か出来たら良かったのに……」
けれど、彼女に出来ることなどない。怪我人を癒す術も知らなければ、これだけの混乱を治める器量もない。無数の無残な遺体を前にすれば、込み上げて来るものを必死に堪えるのが精一杯だ。
――『闇の狩人』とは、ヒトビトの希望でなければならないはずなのに。
情けなさが、胸を締め付ける。
「……心配するな」
優しい声が、耳を打った。
「こんなことは、大人に任せておけば良い。いつかお前が大人になった時、子供たちの盾になってやればそれで良いのだ。……焦ることはない」
情けない。情けなかったけれど。……今は、その言葉に甘えていたかった。
「……ありがと」
それもまた、無意識に漏れた呟き。
「……礼など無用だよ、聖女殿」
しおらしい言葉に、ファウストの言葉にも笑みが混じる。
しかし、それも一瞬のこと。
「――それよりも」
そう継いだ言葉には、最早、厳しさしかなかった。
「今は、考えねばならぬ。ルフィティア公女と――カインのことを、な」
ふいに紡がれた二つの名。リリスはぎくりとして顔を上げた。
「……そう。やっぱり……間違いないのね」
返す言葉は重い。
同調するように、ファウストも頷く。
「ああ、状況が全てを物語っている。カインが公女を連れて行く現場に居合わせたのは他でもなくお前自身であるし――他にも、目撃者はいる」
言って、ファウストは肩越しに視線をやった。そこには、遠慮がちに身を小さくした小柄な少年の姿がある。
「……アベル……君」
何と声を掛けるべきか考えあぐねて、結局、その名だけを口にした。
「今一度確認するが――間違いなかったのだな?」
主の問いに、アベルは辛そうに俯きつつも、
「……はい。公女さまを連れ去ったのは……間違いなく、カイン……兄さんでした」
そう言って、きつく唇を噛み締めた。
「――――」
リリスは一度、考えを整理するように眼を閉じて――……けれど、結局、独りでは上手く纏めきれず嘆息した。
「……ごめんなさい。改めて、聞かせて欲しい。貴方たちのこと、カインのこと――今回の、事件のこと。……その、始まりを」
覚悟を決めたかのようなその言葉に、ファウストも躊躇わずに頷いた。
――その兄弟は、『闇の眷属』たる黒き血を継いでいた。
兄の名はカイン、弟の名はアベル。
兄弟には物心がつく以前から父がなく、母は場末の娼婦だった。
けして恵まれた環境だとは言えない暮らし。けれど、純粋な『ヒト』ではない二人にも母は十分な愛を注ぎ、兄弟は慎ましくも幸せに暮らしていた。
それが一変したのは、アベルが五つ、カインが十になった頃。……たった独りの肉親である母が、病に斃れたのだ。
兄弟二人きりで生きて行くことを余儀なくされる彼ら。当初は顔見知りの商人の家で奉公として引き取られたものの、その暮らしも長くは続かなかった。
――二人は、『ヒト』ではなかったから。
迫害を受け、人間社会から追いやられる二人。どこへ行っても、何をしても、結局は「ヒトでない」ことが足枷となって長くは続かなかった。
やがて、社会を、ヒトビトを強く憎むようになっていった兄は、いつしか己の呪わしい力を利用して、ヒトビトの悪意を退ける術を身に着けてゆく。
そして、不当な暴力に屈しないその強さ、その有り様は、同じく社会とヒトビトに迫害された同年代の少年少女たちを惹き付けていった。
アベルが十三歳、カインが十八歳を迎えた頃、カインはハンガリーの外れにある小さな街で、ボーイズギャングの首魁として名を知られるようになっていた。
心優しい少年であったアベルは、けしてそんな状況を快くは思っていなかったが、常に護られる立場であった彼に、兄を咎めることなど出来るはずもなかった。
――ある日のことである。兄は弟に言った。
――俺は、この馬鹿げた世界を作り変えてみせる。
すぐには、意味の分からない言葉だった。しばらく考えてみても……やはり理解など出来ない。それこそ馬鹿げたことだと思った。幾ら強力な力を持った兄でも、そんなこと出来るわけがない。『闇の眷属』は神でも悪魔でもないし――『闇の魔獣』のように、『無限の魔力』を誇るわけでもないのだから。
けれど、兄はそれが出来ると確信しているようだった。自分たちを迫害した宗教者たちのような盲信ではなく、確かな何かに後押しされているように。
……そうして。気が付けば、兄の姿は消えていた。
兄弟にしか、同族にしか理解出来ない感覚とでも言うのか、彼方に消えた朧気な兄の気配を頼りに、アベルは独り、兄を追った。どうしていなくなったのかなど分からない。けれど、追わなければならないと思った。
アベルは、それまで兄の背に隠れ、ずっと封印し続けて来た禁忌の黒羽を広げ、『魔力』の続く限り広大な空を飛び続けた。
しかし、『魔力』の扱いに不慣れであるがゆえに、限界はすぐに訪れた。不時着することもままならず、あえなくアベルはアイナの森に墜落し――眼が覚めれば、黒衣のヴァンパイアの腕の中にあったのである。
――事情を聞いたファウストには、何が起きているのかの大凡の見当が付いていた。そして恐らくは、自らがこれから行かんとしているその場所にこそ、答えがあるだろうとも。
そしてその通り、カインは目的のためにこのアイナに潜み、目的のために行動した。
事ここに至るまでカインに迫れなかったのは、未熟な『狩人』にかかずらっていたせいもあるが、ファウストの見通しの甘さによるところも大きかったろう。
「これは私の責任だ。こうなる前に、カインを止めてやらねばならなかった」
見つめる横顔は相変わらずの端正さであったが、それでもどこか口惜しげだった。
しばし逡巡して、リリスは問うた。
「でも……貴方がその責を負う必要はあるの……?」
悩んだ末の問いだ。けれど、ごく素朴な疑問だとも言えた。
「気付いていながら手をこまねいていたのだ。非難されて然るべきだと思うがな」
リリスの真意を知ってか知らずか、澄ました顔で言う。
リリスは一瞬だけ怒りを覚えたが、すぐにそれが不当なものだと気付いて嘆息した。
「……違うの、そうじゃない」
どこか子供じみた素振りで、かぶりを振る。
「貴方が本当に――……ファウストゥス・ドラクレアであるのなら。フニャディ家の裏切りが、真実であるのなら。ヤーノシュ伯も――ルフィティアも。貴方にとっては憎い仇のはず。……本当に、この事件の首謀者が貴方であっても不思議じゃなかった。……そうよね?」
知ったばかりの情報を、一つ一つ、確認するように口にする。
ファウストは否定も肯定もしなかったが、しばし黙してから、そっと微笑んで言った。
「……私はもう、三百年近くをこのヒトの世で過ごして来た。けして楽しいことばかりではなかったかも知れないが――……それでも。遠い過去の憎しみに囚われ続けなければならないほど、不幸だったわけではないよ」
その言葉が、どこか哀しく聞こえたから。リリスはそれ以上、何も言えなかった。
代わりに、言葉を継いだのはファウスト。
「……カインを救うのは、アベルとの約束だ。私個人の遺恨など関係がない。それに――ルフィティア公女のことも、個人的に気に入っているのだよ、私は」
「……なにそれ。やらしい言い方」
何でもない物言いだったはずなのに、何故だか引っかかって唇を尖らせる。
だが、引っかかりを覚えた理由はすぐに分かった。瞬間的に、『屍食鬼』騒動の直前、中庭で見せつけられたあのラブシーンが脳裏を過ぎったからだ。
いやらしい。自ら発したその言葉に、反応してしまう。見る間に赤く染まる顔。自分で言った言葉に自分で反応して、勝手な回想で勝手に顔を染める。多感な時期の少女とは言え、酷い自家中毒もあったものだ。
「何を顔を赤くしている」
至極当然なその言葉。だがもちろん、リリスに真っ当な答えを返す余裕はない。
「う、うるさいわねっ! ばかっ! 変態っ! 痴漢男っ!」
子供じみた言葉を返すリリスに、ファウストは嘆息した。
「やれやれ、酷い言われようだな。……名誉のために言っておくが、私は女性と触れ合う時、いつも愛を持って接しているぞ」
「っ……それはそれは、また随分と愛に溢れた方でっ!」
何となく面白くなくて、語気の荒い言葉が漏れてしまう。
けれど、当のファウストは気にした風もなく、
「おや、知らなかったか? ――私の体は、「無限の愛」で出来ているのだよ」
平然と、そんなことを言って退けた。
正直呆れた言動だったが、呆れる以上に、臆面もなく開き直るその態度が気に入らなかった。
「お生憎さま! 女はね、そんな真っ黒な愛なんかでごまかされないんですからねっ!」
「そうなのか?」
「そうよっ!」
「本当に?」
「本当よっ!」
「そうか――ならば。お前には私の愛を注がぬよう、気を付けねばな」
ふいに紡がれた、そんな言葉。
「――え……」
思わず、言葉に詰まる。
何かを期待していたわけではない。それを欲していたわけではない。
けれど、その言葉は確かに一瞬、少女の思考を停止させた。
自身の感情が理解出来ない。この男にどんな言葉を求めていたのか。求めることが許されるとでも思っていたのか。――求める? 何を?
思考が停止したまま、けれど確かな寂しさを感じて、リリスは顔を上げた。
「あっ、アル、そのっ、私――」
言いかけて――すぐに言葉を止めた。
……見上げたファウストの顔が、意地悪く微笑んでいたからだ。
「私――……何だ?」
そんな澄ました声が腹立たしくて、リリスは口を尖らせて背を向けた。
「何でもないわよっ! ……ばかっ!」
真っ赤な顔で吐き捨てた。
――その時だった。
「――!?」
ふいな感覚に、びくりとして身を固くした。
「……セインティア」
背後から名を呼ばれる。彼も、気付いている。
いや、実際のところはどうなのだ? 彼と共に夜を駆けるようになって、無力を感じることも多かったけれど、自身の能力に手応えを感じることだってあった。けれど、これは果たして信用出来るものなのか、して良いものなのか――……いや。単に、信じたくなかっただけなのかも知れない。
手摺りから身を乗り出すようにして、闇に沈む暗い街並みを金の瞳でじっと見る。
眼に映るものは何もない。ただ、暗い街並みだけが彼方まで続くだけだ。
だが――
「何か……来る……?」
震える唇で、何とか絞り出す。
街の外から、何かが、この場所――つまり、フニャディ家の屋敷に、近付いてくる感覚。一つではない。一つ一つはさして大きくないが、二百~三百は下らぬだろう小さな黒い点が、この場所を目指して押し迫ってくる。そんな、おぼろげな感覚。
――凡そ、『聖徒』にしか感じ取ることの出来ない感覚。
「何か、ではない。お前はもう、それが何かを知っているはずだ」
無慈悲にも、そんな言葉がリリスの背を打つ。
そうだ。ごまかしたところで、ごまかし切れるものではない。少女はもう知ってしまっている。嫌と言うほど、理解してしまっているのだ。その禍々しい気配を。
――『屍食鬼』どもの、気配を。




