[Die Vierte Nacht]『フニャディ』――罪と罰 5
[5]
襲い来る『屍食鬼』の群れを退けながら、リリスたちは進んだ。
途上、幾らかの生存者を救出しはしたものの、一向に目的の二人は発見出来ない。焦燥ばかりが募る中で――リリスは、「それ」を見た。
「――なに……これ」
そんな言葉しか出て来なかった。
数刻振りに訪れたダンスホール。ついさっきまで、優美な音楽と談笑する人々の声に彩られていた饗宴の場。まるで地上の楽園の如く煌びやかであったその空間は――今や、何処にも存在しない。
そこは地獄だった。ホールを埋め尽くす無数の『屍食鬼』どもが、死者生者関係なくその肉を貪り食らう。ホールは夥しい血の海となり、波間を『屍食鬼』と僅かな生存者が無様に漂い、溺れていた。
――だが、そんなことではない。リリスが身動き一つ取れなくなったのは、死と惨劇が理由ではなかった。
リリスの金色の瞳は、血の海に横たわる婦人と、それに覆い被さる男を映していた。男は、言わずもがな既に『屍食鬼』となっている。しかし「それ」は、婦人を捕食しているわけではなかった。
抵抗している最中にそうなったのか、はたまた別の目的によってそうされたのか、婦人はドレスを引き裂かれ、白い裸身を露わにしていた。そこへ覆い被さる『屍食鬼』もまた、衣服を身に付けてはいない。
だらしなく唾液を垂らし、荒い息を吐く『屍食鬼』。その下で、悲鳴とも嗚咽ともつかない声を上げる婦人。一見滑稽にも見える動作で、一心不乱に体を揺する『屍食鬼』。それに合わせて、露わになった婦人の乳房が揺れた。
――何が起こっているのか、「それ」が何をしているのか、分からなかった。
いや、頭では理解している。「それ」がそう言うことなのだと、知ってはいる。けれど、あまりに非現実的ではないか。あまりにも、あまりではないか。
……だが、それは現実だ。眼の前の「それ」だけじゃない。見渡せば、ホールのそこかしこで同じことが起きていた。
同じように、悲鳴と嗚咽を漏らす婦人たち。中には壊れてしまったのか、焦点の合わない瞳で、糸の切れた人形のように身を任せる者や、拒絶することを放棄し、自ら腰を振って、狂ったケダモノのように嬌声を上げる者もいる。
――それは、阿鼻叫喚の地獄絵図。血の海の中で繰り広げられる、悪魔の狂宴。呪われし淫欲のサバト。
「っ――」
立ち込める血の臭いと淫臭に、吐き気を覚えて思わず後退る。
それを優しく受け止めてくれたのは、他でもない。
「……お前には、まだ刺激が強過ぎたな」
背後からそっと包み込むように掛けられた言葉に、リリスは震える唇で問うた。
「なん、なの……これ……?」
ファウストは一度深く息をついてから、ゆうるりと告げた。
「……『屍食鬼』に意志はない。彼らを動かすのはただ、「肉」に対する欲望のみ。……それは、「食欲」だけではない、と言うことだ」
冷静な、冷徹でさえあるその言葉。リリスは怒りにも似た感情を抱きかけたが、
「――大丈夫だ。……こんなもの、お前はまだ分からなくて良い。私に任せておけ」
そんな言葉に、救われた。
だが、すんでのところで『狩人』としての誇りを取り戻す。
「ばっ、馬鹿言わないでっ! 貴方に任せっきりで、私だけぼうっとしてるわけにはいかな――ぶっ!?」
柳眉を逆立てて抗議しようとしたが、ふいに眼前を覆った黒い影に言葉を遮られた。
大慌てで引き剥がしてみれば、それはファウストがいつも身に着けている大きな外套に他ならない。
「いきなり何をするのっ!?」
眼を白黒させるリリス。
「真っ青な顔をして、無理をするな。見ているのが辛いなら、それを被って大人しくしていろ。……強がるのは、気分が落ち着いてからで良い」
ファウストはいつもの皮肉げな、けれどどこか優しい笑みで言った。
言葉に釣られて手の中の外套に眼を落とす。……まだ、ファウストの温もりが残っている気がした。
「――――」
思わず言葉を失うリリス。
そんな彼女を横眼に、ファウストは阿鼻叫喚の地獄の中へと身を投じて行く。
いつもとは少しだけ違う黒い背中を見送りながら、リリスは胸に抱いた外套にそっと鼻を付ける。……甘い薔薇の薫り。柔らかな薫りが、心を穏やかにしてくれる気がした。
少しだけ覚悟を決めてから、無意識に閉じていた眼をそっと開く。そこでは、血煙が舞い上がる中を、一陣の闇が縦横無尽に駆けていた。
見覚えのある短剣を片手に、獣の速度で血の海を駆ける。ブーツのかかとが床に溜まった血を跳ね上げて、中空には赤い薄膜。それが晴れた後には、くずおれた『屍食鬼』どもの残骸。それは、瞬きする度に増えてゆく。
聖女の正気を失わせた悪夢のような惨劇は、魔人の振るう銀の閃きによって、終幕となる。
拍手喝采も、カーテンコールもない寂しい演目。けれどそれは、ほんの一時、聖女の眼を釘付けるには十分だった。
――故に、彼女は「それ」の接近に気が付かなかった。
「!? ――きゃあっ……!」
ハッとして振り返るのと、鋭利な爪が振り下ろされるのは、ほぼ同時。手にした短剣を翳すことが出来たのは、彼女が並外れた反射神経と勘を備えていたからだ。
激しい金属音が鳴り響き、リリスの華奢な体は木っ端の如く弾き飛ばされる。十字の剣と魔人の外套、その双方を取り落とさなかったのは、無自覚ながら心に芽吹いた彼女の願望のゆえだったのかも知れない。
血だまりの広がるホール内にまで飛ばされて、白いドレスが赤く染まる。だが、そんなことに構っている暇はない。尻餅を突いたまま、慌てて顔を上げる。
瞬間、リリスには「それ」が何であるのか分からなかった。いや、『屍食鬼』であるのは間違いない。それはすぐに分かった。分からなかったのは――信じられなかったのは。それがかつて、誰だったのか。
「まさか――ヤーノシュ伯……!?」
確信して、愕然とした。その言葉は悲鳴に近かったかも知れない。身は凍り付き、思考は停止した。
けれど、今や意志なき『屍食鬼』となった伯爵は猶予など与えてはくれない。醜い凶器と化した豪腕を振り上げて、無慈悲に少女へと飛びかかった。
リリスは思わず眼を閉じて、ある種の覚悟と共に手の中の外套をきつく抱き締めた。
――しかし、僅かの後にそっと眼を開けてみれば、自身の覚悟が全くの無駄であったことがすぐに分かった。
眼の前に迫っていたはずの『屍食鬼』の姿はそこになかった。代わりにあったのは、自らを抱く力強い腕。見上げれば、ビスクドールも斯くやと言う美貌が覗いている。
「……怪我はないか、セインティア」
人形の貌から、けれど聞こえる血の通った暖かな言葉。
この状況には覚えがある。共に駆けた夜の一こま。婦人の『ゴースト』と対峙した夜。幼さゆえに自ら危機を招き、そうしてこの男に救われた。今と同じように。父の如き安らぎを感じさせる、この力強き腕に抱かれて。
「……ええ、大丈夫」
成長しない自らに自嘲的な笑みを浮かべつつも、リリスは身を起こした。
今は、自らの身を案じている場合ではない。
「――そんなことよりも、今は」
そう言って顔を上げると、ファウストも頷いて身を起こした。
「さて……二重の意味で厄介なことになったな」
そう呟いた視線の先には、勿論あの『屍食鬼』の姿がある。今や変わり果ててしまった姿の、かつてはアイナ総督であった男。
「二重?」
油断なく身構えながら、思わせぶりなファウストの言葉に問うた。
「一つは、彼が他でもなく、我々の探していた相手であること。もう一つは――」
言いながら、彼はふと、リリスの腕の中からくしゃくしゃの外套を取り上げつつ、彼女を庇うように前へと歩み出る。
そうして、告げた。
「――彼が、『屍食鬼』の常識を遙かに超えた『魔力』を、与えられていると言うことだ」
「『魔力』を……与えられている?」
取り上げられた外套に若干の名残惜しさを感じつつも、リリスは問うた。
ファウストは小さく頷いて答える。
「『屍食鬼』とは、一般的な『闇の眷属』とは違い、自然発生する存在ではない。ある特定の主によって『魔力』を与えられ、極単純な目的――おおよそ無秩序な殺戮――のために使役されるだけの、生ける屍だ。そしてその『魔力』は、食われたヒトを苗床に疫病の如く伝染し、瞬く間に『屍食鬼』の軍団を形成する」
「なるほど……それでこの状況、と言うわけね」
合点が行って、リリスは頷く。
けれど、ファウストはもう一つ気になることを言っていた。
「常識以上の『魔力』を与えられている、って?」
「それは――いや。……見ていれば、分かるさ」
答えかけたものの、ファウストはすぐに言葉を止めた。
ハッとして見れば、彼の視線の先の『屍食鬼』が、一時は見失っていた獲物をようやく発見したようだった。言わずもがな――獲物とは、リリスのことである。
『屍食鬼』は一声高く唸りを上げると、猛然と獲物目掛けて地を蹴った。その速度は他の『屍食鬼』を遙かに凌駕したもので、未熟な『狩人』には対応することが出来ない。
だが、心配は要らない。彼女と『屍食鬼』の間には、「破邪の盾」も斯くやと言う鉄壁の盾がある。漆黒の衣に包まれた、暗黒の盾である。
肉薄する勢いそのままに猛然と振り下ろされる豪腕を、暗黒の盾――ファウストは小さな短剣一つで受け止める。先刻リリスが受けた時同様に大きな剣戟の音が響き、けれど今回弾き飛ばされたのは、『屍食鬼』の方だった。
獣の如く血の海の中に四肢を突き、口惜しそうに黒きイージスを睨め付ける『屍食鬼』。
それを油断なく睨みながら、ファウストは言った。
「……これが、『魔力量が高い』と言うことの意味だ」
その言葉を、噛み締める。たった今眼の前で見た速度、そして身を以て知った破壊力。それは、経験の足りない未熟者には手に余るものだ。今のリリスには、それに対抗する術が思い浮かばない。
「……情けないわね、私」
思わず漏れた、ぽつりとした呟き。
けれど、ファウストは首を振った。
「……あまり思い詰めるな。少しずつ、大人になって行けば良いのだ」
そう言って、リリスを庇うようにもう一歩、歩を進めた。
悔しくはあったが、ファウストの言う通り。足掻いたところで、すぐに大人になれるわけではない。背伸びをしたがる己を窘めて、リリスはそっと身を引いた。今彼女に出来るのは、彼の足手纏いにならないことだけだったから。
リリスの気配が遠ざかると、ファウストはバゼラードを逆手に持ち替えた。それは、順手に持つよりも更に攻撃的な構えだ。肉薄した瞬間、急所を一突きにせんとする、必殺の覚悟の現れである。
そんな覚悟を感じ取ったのか、対峙する『屍食鬼』はより一層の気迫を込めて、赤く染まる床を蹴った。
同時に、今度はファウストも打って出る。リリスの眼に残像を残したまま、黒い影は跳躍した。
鳴り響く剣戟の音。一方が徒手空拳であることが疑わしくなるほどの響き。それは、「魔力を帯びた肉体」がどう言ったモノであるのかを如実に知らしめる。ケモノとは、素手であって素手ではないのである。
だが、一方のファウストもまた、まともではない。手にした得物は小振りな短剣であるはずなのに、そこから打ち出される威力は両手剣も斯くやと言う風情である。当然だ。何故なら彼もまた、ヒトの枠組みから外れた「ケモノ」なのだから。
二匹の獣は一歩も譲らず、幾度となく剣戟の音を響かせた。リリスの眼の前で始まったはずの戦いも、いつの間にかその舞台をホールの中央にまで移している。
いったいいつまで続くのか――リリスが不安に思い始めた丁度そんな時だった。
一際高い金属音がホール内に響き渡った。と、同時に、何かが光の軌跡を描きながら中空に舞う。それは白銀の閃きを見せながら、やがてリリスの眼前の床へと突き立った。
――それは、中ほどから折れた短剣の刀身に他ならなかった。
「アルっ……!?」
ハッとして顔を上げる。見れば、ファウスト自身も不利を悟ったのか、丁度リリスのほど近くまで身を引いて来たところだった。
「……やれやれ。魔術師ギルド謹製の業物だったのだがな」
嘆息混じりにぼやくファウスト。そんなことは言わなくても分かる。彼の化け物じみた――もとい、化け物その物の腕力で振り回し、尚かつ、その同類の攻撃を幾度となく受け止めて見せたのだから、普通の市販品であるはずもない。
だが、その異常な業物も、結局は、異常な化け物には通用しなかったと言うことだ。
得物を失い、丸腰となったファウスト。彼のことだから、その外套の下に何か別の得物を隠し持っているかもしれないが、少なくとも、すぐにそれを取り出そうとする素振りはない。何かを、逡巡している風にも見えた。
「アル……?」
流石に、僅かばかり心配になって、リリスは声を掛けた。
それがきっかけとなったのか、諦めたようにファウストは嘆息した。
「多少危険だが、仕方あるまい。……セインティア。もし私が昨夜の如く暴走したら、迷わずその短剣を私の胸に突き立てろ――分かったな」
吐き捨てるように言うと、戸惑うリリスに眼も向けず、一歩、進み出た。
言葉を拒絶するような黒い背中に、リリスは揺れる金色の視線を向ける。
意味が分からなかった。彼がこれから何をしようとしているのか、それ以上に、何を言われているのか。……あまりにも、現実感が無さ過ぎて。彼の胸に剣を突き立てる。そんなこと、想像することが出来ない。
『闇の魔獣』の胸に剣を突き立てる――それは他でもない、ずっと以前からの自身の願望であり、使命であったはずなのに。
掛ける言葉も分からずに、ただ立ち尽くすリリス。
ファウストは独り、中空に手を差し向けて、唱えた。
「――我が僕たる精霊アシエルよ、我が求めに応じその力を示せ」
瞬間、ファウストが手を差し向けた中空に暗い穴が現れた。それは円形のようでもあり、不定形のようでもあり、ヒトの眼にはハッキリとしたカタチとしては映らない。通常の空間との境界も曖昧で、まるで夜空の一部を切り取って持って来たかのようだった。
ファウストはその不気味な闇の中に、躊躇わず差し向けた手を沈める。そうして、更に唱えた。
「我求むるは暗黒の剣。かつて無数の敵対者を串刺しにせし断罪の刃。今は黒き心に囚われし憎悪の牙。我求むるは、無限の憎悪と飽くなき怒り。我求むるは、聖女に託されし魔人の記憶――串刺し公の魔剣なり」
瞬間、ファウストの手を飲み込んだ闇が、「了承した」とでも言うように胎動した。ファウストの腕を包みながら、見る間に膨れ上がる闇。それは、まるでファウストの腕の延長であるかのように長く伸びてゆく。パンこね台の上を転がるパン生地のように細長く伸びたそれは、やがて棒状の黒い塊となって具現化した。
それは剣だった。リカッソを備えた長大な『ドイツ式両手剣』。黒光りする鋼に無骨な握り。余分な装飾を一切排したそれは、戦場でヒトを殺傷することのみを追求したカタチであり、見ただけで身震いするような迫力を備えている。
だが、リリスがそれに畏怖を覚えたのは、それが理由ではない。彼女には見えたのだ。その大剣にまとわりつく無限の怒り、憎悪。黒い渦となって剣身の先から柄尻までを覆い尽くす闇。毒々しい呪いのような――『魔力』。
見ているだけで脂汗が浮かんで来る。もし万が一、ヒトがあれに触れたとしたら、間違いなく正気を保ってはいられないだろう。渦巻く呪いに意識を絡め取られ、心と体を無限の怒りと憎悪に支配される。後に残るのは、きっと凶悪な殺戮衝動だけ。
そんなモノを手にしていて、彼は何ともないのだろうか。いや、そもそもが魔人であって、『魔力』など慣れ親しんだものなのだろうから、それが強大で凶悪であったところで問題ではないのかも知れない。
――だが、しかし。……もしかしたら。彼自身不安であったからこその、先ほどの言葉ではなかったのか。
リリスの思考がようやくそこへ至った時だった。
しばし成り行きを傍観していた『屍食鬼』が、一際高く咆哮した。同時に、魔剣を手にしたファウスト目掛け、天井高く飛び上がった。
「!? アルっ……!」
耳をつんざく咆哮に顔をしかめながら、咄嗟にファウストの背に眼をやった。
ふいな『屍食鬼』の行動。けれど、ファウストは少しも慌てる素振りは見せず、おもむろに大剣を腰だめに構えた。
ゆっくりと、長い長い時をかけて、上空より『屍食鬼』が迫る――いや、まるでそうであるかのように、リリスには思えた。
天高くから襲い来る『屍食鬼』。
地上から迎え撃つファウスト。
『屍食鬼』は牙を剥きだし爪を振り上げる。
ファウストは油断なく敵を見据えた後――逆袈裟に大剣を振り上げた。
瞬間、剣光が煌めいたように見えた。だがそうではない。迸ったのは黒い闇。空間を切り裂いたのは、大剣から伸びる長大な『魔力』の帯だった。
天井まで伸びたそれは、一瞬だけ『屍食鬼』の半身を包み込むと、すぐに霧散して消えた。
時間にして5秒にも満たないだろうその情景が、まるで複数枚の絵画のように、リリスの眼に焼き付いてゆく。
そのエネルギー量のゆえなのか、『魔力』の帯が消失した後も、魚眼レンズの向こうのように空間が歪んで見えた。空気は帯電し、頬や首筋をぴりぴりと刺激する。
しばらくして、どさり――と言う音が聞こえた。
一瞬だけ眼を向けて――すぐに顔を逸らす。強大な『魔力』の放出によって無残に上身を失ったそれは、正視するに耐えるものではない。「それ」と懇意だったのなら、尚更だ。
「……っ……ヤーノシュ伯……」
口の端を噛んで、リリスは最後にその変わり果てた骸の名を呼んだ。




