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[Die erste Nacht]『アイナ』――光陰の潜む街 1

[1]

 その城の地下には、独りの女怪が棲んでいた。

 艶めかしい白い肌に這う、燃え盛る炎のような赤い髪と、上等なルビーの様に輝く情熱的な双眸が麗しい。少女のような顔立ちとは不釣り合いなほど豊かに膨らんだ胸元は蠱惑的で、すらりと伸びた手指は神秘性すら窺わせた。

 『人外のモノ』の放つ魅力を余すことなく湛えたその姿は、美の女神と言っても過言ではなかったかも知れない。

 だが、それはけして光の下に祝福されて産まれた神などではない。その麗しき一糸纏わぬ上身から一目でも視線を下らせれば、そこには異形の姿がある。

 女怪に下身は存在せず、そこには巨大な薔薇の花弁が広がっていた。しかしてその禍々しさは、薔薇と言うよりも、西洋人にとっては幻の植物である、遙か南洋の寄生性食虫植物をさえ連想させた。

 事実、彼女はこの土地に寄生して生きている。この『薔薇の城』の地下に根を張り、城中にその四肢たるイバラを張り巡らせた彼女は、この場所から離れて生きることは出来ない。この先何が起ころうと、彼女がこの場を動くことは未来永劫ないだろう。

 だがそれは、彼女にとっては当たり前のことであり、むしろ喜ぶべきことだった。彼女は、この地を護るように厳命されていたからだ。けして、この城に異物を招き入れてはならない。それが彼女に与えられた唯一つの使命であり、生存目的であったのだ。

 ――しかし、今、彼女に与えられたその唯一つの誇りは、無情にも踏みにじられようとしていた。

 何者かは分からない。だが確かに、彼女の領域を侵す存在が彼女の「本体」へと近付きつつあった。即ち彼女は、主の居城たるこの場所、その中枢にまで、侵入者を許してしまっていたのである。

 やがて闇の中に、ぼんやりとランプの明かりが浮かび上がった。地上への階段から、徐々にこちらへ向かって降りてくる。

 はっきりとその姿が現れる前に、女怪は切り出した。

「……わらわの許しなく、我が主が城に足を踏み入れるはたれぞ?」

 不躾な質問に虚を突かれたのか、侵入者は瞬間歩みを止める。……が、女怪にはその侵入者が、微かに笑ったように感じられた。

「何ぞおかしなことを申したかえ? その様な笑いは妾の神経を逆撫でする。何者かは知らぬが楽には死ねぬぞ」

 威嚇するように言う女怪だったが、侵入者は再び歩みを進め始めると、臆することもなく答えた。

「……いやなに。ここまで貴女の棘の鞭を尽くやり過ごして来た我らを、それでも殺めて見せると言われるのでね」

 そう。女怪とて侵入者を無抵抗に許したわけではない。この場所に辿り着くまで、幾度となく城中に張り巡らせたその四肢を振り上げた。だが、今眼の前にいる侵入者は、それを事も無げに振り払ってここまでやって来たのだ。

 永きに渡りこの地を護って来た女怪にとって、それは信じられないことだったが、事実である以上は疑っても仕方がない。

「確かに其方らは徒者ではないようじゃ。……じゃが、我が本拠たるこの場所に踏み込んで無事で済むと思うておるなら、それは呑気が過ぎると言うものじゃ」

 その言い種こそが呑気ではあるのだが、しかし、そこから滲み出る迫力は嘘ではない。

 そしてそれは、侵入者の方も分かっているようだった。

 侵入者は女怪の眼前まで進み出ると、どこか寂しげに微笑んだ。

「……ああ、理解しているとも。愛しい貴女のことならば、私の記憶の奥底に、今でもしっかりと残っている。……しかし、貴女の方は忘れてしまっておいでのようだ」

 そんな言葉に、女怪はどきりとして、今一度侵入者の姿を見やった。霞む視界の先に、薄ぼんやりと記憶の彼方の肖像が浮かぶ。

「!? まさか……其方は……」

「……いや、長らく城を空けてしまった私が悪いのだろう。古に交わした契約はすでに薄れ、この城を悪逆な卑劣漢どもから奪回せしめた貴女の『魔力』も、すっかり翳ってしまった。その麗しきルビーの瞳から光を奪ったのは私だ……申しわけなく思う」

 そんな言葉に、女怪は我知らずその赤い瞳を歓喜に揺らした。

「馬鹿な……何を申す。ぬしが無事で戻ったのじゃ、斯様に喜ぶべきことが他にあろうか。顔を上げよ、謝らねばならぬのはこちらじゃ」

「貴女に落ち度などありはしないさ、プリンセス・アルラ。随分と時を隔てた今でも、こうして約束を守ってくれているのだから。許されざるは私の方だ。……だが、一つ我が侭が許されるのであれば」

 と、侵入者は、手にしていたランプを傍に控えていた従者らしき者に手渡し、もう一歩女怪の元へと歩み寄った。懐から抜き放たれたるは、簡素ながら、その切れ味を彷彿とさせる白銀の閃き眩しい欧風短剣バゼラード

「何も言うな、分かっておる」

 女怪は、侵入者のふいな行動にもその歓喜の表情を崩さず、ただ頷いた。

「――大地と咎人の守護者アルラ・ウネの名の下に、其と今再びの契約を……」

「……姫の恩情に、心より感謝する」

 答えると、侵入者は自らの手首に刃を滑らせた。迸る鮮血。それを、アルラと呼んだ女怪の口元へと差し出した。

 女怪はそれに、愛おしむような陶然とした瞳のまま、そっと口付ける。ごくりごくりと喉元を下って行く鮮血。納まり切らなかったものは、口の端を伝い白い首筋を通り、豊満な乳房へと赤い路を描いて行く。

 そんなどこか倒錯した光景を、今や女怪の主となった侵入者は、ただじっと懐かしむように、愛おしむように、穏やかな瞳で見下ろしていた。


              † † † † †


 その場所では、少女は独りではなかった。

 見たことのない顔形は当然のように分からなかったが、勇ましく頼り甲斐のある父と、優しく朗らかな母がすぐ傍にあった。

 寄り添うように、笑い会う三人。それは、そんな幸福がきっとどこまでも続いて行くのだと、疑わせない光景だった。

 ――けれど、それはすぐに闇色に染まる。

 家族が寄り添い歩んでいた光の庭は、瞬時に毒々しい暗黒に塗り込められ、数多の紅眼が三人を取り囲む。父は妻子を護ろうと短剣を抜き、母は震える娘を胸に掻き抱いた。

 だが数多の紅眼どもに情けはない。感情すらないのか――或いは、そこにあるのは無限の怒りと憎悪だけなのかも知れない。奴らは躊躇することもなく、まず短剣を振るう父親を引き裂いた。鮮血が迸り、臓腑がばらまかれ、肉片は紅眼の主たちの醜く裂けた口蓋の中へと消えた。

 絶叫する娘。だが惨劇は終わらない。一人目の獲物を片付ければ、次の獲物へと手が伸びる。奴らの食欲と性欲には際限がない。むしろ父親を手に掛けた時よりも余程残忍な紅い輝きで、母親へとその牙を向けた。

 ……父を失い、母を失い、そうして遺ったのは黄金色の幼い少女だけ。

 闇の中には、ぽつんと黄金色の懐中時計。そして金十字の短剣。

 少女は震える手で短剣を握るが、父を失った彼女にはその振るい方が分からない。ただ怯え、震え、だが怒り、憎み、無数の紅眼を見据えた。しかしそこからは何も生み出されない。力は湧かず、心は萎え、ぺたりと腰を落とした。

 そんな少女に紅眼どもはいやらしく微笑むと、その父母の血で濡れた口蓋を一杯に開き、いよいよ少女の幼い首筋へと――


              † † † † †


「――いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」

 絶叫と共に、飛び起きて。

「……って……あれ?」

 ハッとして、辺りを見回す。そこには、自身を見つめる眼、眼、眼。

 だがそれは、けして禍々しい紅ではない。黒、灰色、茶、中には碧いものまであるが、それは歴とした人間の瞳。少女自身と同年代の――つまりは十代半ば過ぎほどの少女たちが、揃って同じ様な表情で彼女を凝視していた。

 その表情は、驚愕と労いと親しみと、ほんの僅かな侮蔑が混じり合ったようなものだ。

 寝起きの覚め切らぬ意識のまま、そんな彼らを一通り見回していると、ふと一人の少女と眼が合った。柔らかな栗色の髪の美しい、気品のある少女だ。彼女はすぐ隣りの席に座っていた。

 彼女は、にこりとたおやかな笑みを浮かべると、

「ふふっ……おはよう、リーリエ」

 そんな、まるで責める気などない呑気な言葉を漏らす。それが、ようやく覚醒しようとしていた思考を遮った。

「あ……うん……おはよう、ルフィ。……えへへ」

 と、ぼんやりしたまま。その気の強そうな容貌には不釣り合いなほど力の抜けた笑みを返してしまってから、ハッとした。

「――あ」

 気付いた時には、もう眼の前に一人の女性が立っていた。黒と白で統一された修道服と頭巾に身を包んだ、妙齢を少し過ぎた頃合いだろう女性。そのすらりとした体躯と毅然とした印象を抱かせる整った容貌は、世の男性が嘆かんばかりの麗しさだが、その出で立ちの通り、彼女は純血の誓いを立てる修道女シスターだった。

 シスターは困った様子ではあったが、けして声を荒げることはなく、そっと微笑みながら穏やかな声音で言った。

「……眼が覚めましたか、セインティアさん?」

「う……はい、お義母さ――むぐっ?」

 と、気まずさに消沈して答えようとした少女だったが、ふと唇に当てられたシスターの細い指に、その言葉を遮られた。

 シスターは更に苦笑して、

「こら、学院では「お義母さま」ではないでしょう?」

 言われて、少女はハッと顔を上げた。

「あっ! ……と、そのっ、すみませんでした! シスター・フェアシュタント!」

「はい、よろしい」

 と、少女の言葉にシスターはにこりと笑う。

 正午を知らせる鐘の音が響いたのは、それとほぼ同時だった。

 あら、と一言呟いてから、シスターは本来の持ち場である祭壇前へと踵を返し、

「では、今日の授業はここまでに致しましょう。……皆さん、心穏やかな午後を」

 そう、一日の締め括りを口にした。

 ――が、

「但し、セインティアさんはこの後、私と院長室まで来るように」

 黄金色の少女――リリス・ミヒャエル・セインティアだけは、心穏やかと言うわけにはいかないようだった。

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