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[Die Vierte Nacht]『フニャディ』――罪と罰 4

[4]

 廊下の角を曲がった先にいたのは、複数の衛兵たち。各々湾曲した片刃剣サーベルを抜き、緊張に強ばった顔をしている。

 その中には、同じように剣を抜いたラドゥ卿の姿もあった。

「ラドゥさん!」

 リリスが声を上げると、ラドゥは焦燥の中にも僅かな安堵を見せて振り返った。

「セインティア様、ご無事でしたか! と言うことはお嬢様も……おや?」

「ルフィとは途中で別れました、それよりも何事ですか?」

 言うと、ラドゥは眼に見えて残念そうな顔をしたが、それでもすぐに背筋を伸ばすと、凛とした表情で告げた。

「緊急事態で御座います――この屋敷は、襲撃を受けております」

 その言葉に、リリスは小首を傾げた。

 アイナは、堅牢な城壁で周囲をぐるりと囲まれた要塞都市である。それこそ、プロイセンの精鋭軍でも連れてくれば陥落させるのは難しくないだろうが、辺境伯領として国境警備もその任とするアイナが、そんな大軍団の肉薄に気付かぬわけはない。

 仮に、接近を気付かせぬような小部隊が襲撃をかけたとしても、そんなものは無謀でしかない。まして今は、総督子女のバースデイ・パーティーの真っ最中なのだ。街全体は勿論、屋敷だけを見たって、その警備は日頃の比ではない。

「襲撃……? いったいどこの誰が――」

 言いかけた時だった。

「ラ、ラドゥ様っ! 奴らですっ! おおお、追いついて来ましたあっ!」

 衛兵の誰かが引きつった声を上げた。

 その声に驚いて振り返れば――廊下の先に、複数の人影。

 それは、屋敷の衛兵や家人、それにパーティーへ訪れた来賓たち。……いや、そうであった者たち、と言うべきだろうか。

 彼らが普通でないのはすぐに分かった。よたよたとおぼつかない足取り。焦点の定まらない、死んだ獣のような眼。そして何より――離れていても漂ってくる、血の臭い。

 続いて、微量の『魔力』を感知するに至って、リリスは腿にベルトで固定していた金十字の短剣を抜き放った。派手に捲り上げられたドレスの裾に、衛兵の幾らかが状況も忘れて頬を赤くしていたが、そんなことには構っていられなかった。

「どう言うこと!? あいつら、いったい――」

「――あれは、恐らく『屍食鬼グール』の類でしょう」

 リリスの言葉を継いだのは、リーヴェだった。

「屍肉を食らう、生ける屍。自らの意志も持たぬ下級の『闇の眷属』ですが、その本質は貪欲で、ただヒトの「肉」を求めて夜の闇を徘徊する――そう、伝え聞きます」

「何だってそんなモノがここに……って言うかあれ、どう見てもさっきまで普通の人間だった方々なんですけどっ!?」

 信じられない思いで声を上げるリリスに、リーヴェは眉根を寄せてかぶりを振る。

「発生理由など、わたくしにも分かりません。……ですが、もう『あれ』をヒトだとは思わない方が良いでしょう」

 言うと、リーヴェはきょろきょろと辺りを見回して、ふと壁の装飾として飾られた豪奢な矛槍ハルベルトを手に取った。見るからに実用的ではない、無駄に重量のかさばるそれを、彼女は軽々と持ち上げる。

「……わたくしたちは、芸のない一族ですから。誇れることと言えば、これくらいのものなのですよ」

 自嘲的に笑って、言葉もない衛兵たちの前に進み出る。

 それに合わせるかのように、『屍食鬼』の第一陣が迫った。数は五。まるで虫食いのように、体の各部が欠損した屍たち。半開きの口蓋からだらしなく涎を垂れ流し、どろりと濁った瞳でリーヴェを見る。

 彼らは間もなくリーヴェを獲物と見なしたのか、くぐもった奇声を上げながら獣のように飛びかかった。その動きは俊敏で、それまでの緩慢な歩みが嘘のようだった。その特性を知らない者ならば、ふいを突かれて一瞬のうちに喉笛を噛み切られていたことだろう。

 だが、リーヴェはそうならなかった。彼らのやり口を知っていたのかは分からない。けれど、彼らが一斉に飛びかかったその瞬間、肉薄する隙も与えず、手にした矛槍を横薙ぎに振り払った。

 後に残ったのは、胸から上を尽く失った、かつてヒトであったモノたちの残骸。それはやがて力を失うと、支えのない人形のように、ばたりと地に伏した。

 夥しい血液を垂れ流すそれを見下ろしながら、リーヴェは言った。

「……闇に支配されし者を哀れむことなかれ。抗う者にのみ、安らぎは許されん。――彼らを哀れむならば、戦うことこそが唯一の正義、ですよ。……聖女様?」

 肩越しに、たおやかな笑みがリリスに向けられていた。

「……その通り、ね」

 リリスは嘆息しつつ、自嘲的に笑った。

「それじゃ、ま。いい気分はしないけど……やりますかね。次のお客さんも、お待ちかねみたいだし――」

 言って、迫りつつある第二陣に眼を向ける。

 ――が。

「……え? あ、あれ? ちょっ……ちょおっと……多過ぎやしませんか……?」

 それは、決心が揺らぐに十分な数の『屍食鬼』の群れ。五や十ではない。軽く二、三十はいるのではないだろうか。

 廊下の幅一杯にひしめき合うそれに、衛兵たちが悲鳴を上げて尻餅を突く。リリスとて、逃げ出したい気持ちが湧いて来るのを必死で堪えていた。

 不安のゆえか――脳裏に、黒衣の男の姿が浮かんだ。

「――然りとて、この様子では生き残りもそう多くはありますまい。今背を向けても、逃げ切れるものではないでしょうな」

 半ば諦めたようなラドゥの言葉。だが、彼の眼には未だ老人とは思えぬほどの生気が満ちている。死ぬ気など更々ない戦士の顔だ。

「……うん、分かってる。私が逃げたりしちゃダメよね」

 己の弱気を振り払うようにかぶりを振って、リリスは気丈に呟いた。

 ――その時だった。

 死人どもで溢れる廊下を、ふいな閃光が包み込んだ。同時に、光を直接浴びた『屍食鬼』の幾らかが灰になって霧散する。

 リリスは、その現象に覚えがあった。

「これって――」

 半ば呆然としながらリリスは言いかける。だが、その不思議な光景はそれで終わりではなかった。

 黄金の光が晴れるや、今度は黒い光――闇を纏った無数の羽が、恰もクロス・ボウのクオレルの如く『屍食鬼』どもの頭蓋を貫いた。ばたばたとドミノ倒しのように倒れてゆく『屍食鬼』。

 そうして最後に、残った幾らかの『屍食鬼』の間を、一陣の闇が駆け抜けてゆく。闇が咥えた銀の閃きが『屍食鬼』の喉を撫でると、彼らは血煙を上げてくずおれた。

 後に残ったのは、一つの闇の塊。

 ――いいや、違う。それは、無限の闇を背に負った男。無限の闇と共に、無限の闇を導いて、陽の下を歩まんとする『闇の魔獣』。

 ――夜の遺児。ファウスト・アルカード。

 呆けた顔をするリリスに、ファウストはいつもの皮肉げな笑みを向けると、言った。

「……待たせてしまったかな、聖女殿?」

 そんな言葉に、リリスはハッとして顔を赤くした。

「なっ、何を馬鹿なことっ――誰があんたなんか、待ってたりするもんですかっ!」

 声を荒げて反発しても――今更、心の奥底で燻る感情をごまかすことなど出来なかった。


                † † † † †


 ファウストに追従して来たのは、彼の従者であるヨシュアとアベル、それにリリスの義母ラピニールと、後は幾らかの衛兵と家人たち。

 彼らとリリスらを合わせて、三十人ほどの陣容である。

 彼らには、取り急ぎ行うべきことが幾つかあった。即ち、


 一、非戦闘員及び負傷者の保護を目的とした拠点の確保

 一、危機に対抗するための具体的方策の提案

 一、今後の行動に関する作戦の立案と決定


 ――と言ったところである。

 しかし、本来指揮を執るべきラドゥ卿も、他の誰も、人知を越えた出来事の前には一時的な思考の停止を免れず、刹那を惜しむべきこの時に、迅速な行動を取れる者などいはしなかった。

 ――「彼」以外には。


「――生きる意志がある者は、面を上げよ。戦う意志がある者は、我が声を聞け」


 そう、項垂れるヒトビトに檄を飛ばしたのは、ファウストだった。

 皆の視線が一斉に彼に集まる。怯えたような、困惑したような眼をした者はいたが、虚ろに俯く者はもういない。

 主導権を確保したファウストには、些かの迷いも躊躇もなかった。

 彼はまず、手近な一室を仮の拠点として、戦闘力のない家人や負傷者、それにアベルとラピニールを待機させた。

 アベルは『闇の眷属』ではあっても、性格的にも能力的にも戦闘には不向きであったし、ラピニールに関しては、別の理由があった。

 『聖徒祈祷法』の一つに、『エリギウス聖鋳法せいちゅうほう』と呼ばれるものがある。金細工職人の守護聖人エリギウスに祈り、一時的に種々の道具へ『聖霊力』を付加する術であり、即ち、これを施せば、どんななまくらでも破邪の聖剣へと変じることが出来ると言う、破格の術法である。

 しかし、破格であるがゆえに、『聖徒祈祷法』への造詣が深い司祭級の『聖徒』でなければ、行うことが出来ない。戦闘馬鹿のリリスなど以ての外の秘法だった。

 つまり、ラピニールを残したのは、この場にいる衛兵たちは勿論のこと、これから合流することになるだろう衛兵たちにも、この秘法を施さんがため。

 危機に対抗するための具体的方策。即ちそれが、ラピニールによる『エリギウス聖鋳法』だった。そしてそれは、彼らの乏しい戦闘力を向上させると言う以上に、萎縮した彼らの士気を取り戻させることにこそ有効だったのだ。

 ――さて、拠点と力を手に入れたなら、残すは具体的な作戦行動だけだ。

 いったいどれだけの『屍食鬼』が屋敷をうろついているのかなど分からなかったが、とにかく今すべきことは、『屍食鬼』どもを駆逐して、一人でも多くの生存者を救出すること。

 そして何より優先すべきことは、アイナの要人であるヤーノシュ伯とルフィティア公女の身柄を確保することだった。

 そのためには、全員が団子になって行動するなど非効率が過ぎると言うもの。ファウストは、戦力を三班に分けることとした。ラドゥと衛兵たちの第一班、リーヴェとヨシュアの第二班、そして、ファウストとリリスの第三班である。

 ――斯くして、黒衣のヴァンパイアの指揮の下、指針は決定された。

 実に、彼らが合流してから十分にも満たない間の出来事だった。


 ……きっと。

 きっと、それでも、衛兵や家人たちには、少なからずファウストらに対する疑念があったろう。先頃リーヴェやヨシュア、ファウストが見せた『力』は明らかにヒトのそれではなく、常時であれば、忌避すべきものなのは疑いようがない。

 だが、それでも彼らは従った。従わないわけにはいかなかった――いや、従わずにはいられなかったのだろう。それは、ラドゥ卿の戦士然とした落ち着きや、『アイナの聖女』たるラピニールへの信頼もあったろうが――何より、直接聞いて肌で感じた、ファウストと言う男の言葉に、その眼差しに、皆、いつの間にか感化されていたのだ。

 彼は、皆の怯える魂を奮い立たせ、その背に従えば間違いないと思わせるに十分な言葉を吐き、それを先達て自らの行動で示した。

 ファウストの言葉が終えられた時、ヒトビトは皆、まるで主君に剣の誓いを立てた騎士の如くの貌をしていた。

 ……少女は思う。彼らを、ヒトビトを、そうさせるだけの徳。それは果たして、獰猛なだけの『ケモノ』に得られるものなのだろうか?

 ――否。それは、彼が『ケモノ』などではなく、確かに『ヒト』であったからこそ。彼が『ヒト』として、悩み、苦しみ、それでも尚、光を信じて歩んで来たからこそ得られた、『ヒト』としての生命の輝きなのだ。

 言葉にしなくとも、それはその場のヒトビトに余すことなく伝わっていた。だから、誰もその黒衣のヴァンパイアを貶めようとはしなかった。害そうともしなかった。馬鹿げたことであると、皆が無意識に感じ取っていた。

 少女は、嘆息する。この場にいる『ヒト』の中で、誰よりも彼の『ヒト』らしい部分と接して来たのは自分だったのに。ここに至るまで、そんなことも分からなかった――認められなかった。……自分は本当に、愚か者だと思った。

 けれど、愚か者には愚か者なりに意地がある。小さな聖女は、あくまでも凛とした『狩人』の顔をして、言った。

「――話が纏まったのなら、急ぎましょう、アル。急がなければ、伯爵とルフィティアが危ないわ」

 リリスの言葉に、ファウストを含め、その場の剣を携えた全員がこくりと頷いた。

「よし。では予定通り、三手に別れるとしよう――皆、武運を祈る」

 ファウストの号令で、ラドゥ率いる衛兵隊、続いてヨシュアとリーヴェが部屋を飛び出して行く。

「んじゃ、ワタクシたちも行きますかねっ……!」

 軽く肩など回してから、リリスも部屋を駆け出した。

 確認しなくとも、頼り甲斐のある黒い影が併走して来るのが分かる。

「――セインティア」

 駆けながら、影が口を開いた。

「……何よ」

 けして、『狩人』の顔は崩さずに。

「……言い訳をするつもりはない。だが、謝らねばと思っていた」

 心地良い低い声が、リリスの耳を擽る。

 けれど、『狩人』の顔は崩さずに。

「セインティア――すまなかった。……怖い思いを、させてしまったろう」

 優しい、どこまでも優しい声音だった。まるで、昨夜の出来事が全て夢であったかのように。

 だが、夢ではない。夢ではなかったが――もう、怖くはなかった。

「……ふんだ。今更謝ったって、絶対に許してあげないんだからね」

 あくまでも、『狩人』の顔は崩さずに。

「これはこれは……手厳しいな」

 やれやれ、とファウストが息を吐く。けれど、

「まあ、いいさ。……これからゆっくり、許して貰う努力をしよう」

 そう言って、彼はそっとリリスの頭に手を乗せた。

「っ……勝手にすればっ!」

 そう吐き捨てた時には――……もう、『狩人』の顔とは言えない顔になっていた。

 結局のところ、どんなに意地を張ったって、この男には敵わない。それはそうだ。この男は、それこそリリスの想像を遙かに超えた年月を歩んで来た。その年月は、そのまま見ているもの、考えているものの差になってくる。

 どうやったって、リリスには彼の見ている風景など分かりようがない。

 そしてそれは、この先リリスが大人になっても、変わることはないのかも知れない。

 だが、それで良いのではないかとも思う。この先ずっと、何年、何十年と時を経ようと、この男の黒い背中を追って、この背中と共に駆けて行く。

 ……そんな人生も、悪くないような気がしていた。




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