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[Die Vierte Nacht]『フニャディ』――罪と罰 3

[3]

 夜も更け、宴もたけなわ。ダンスホールでは未だ多くのペアが自慢のダンスを披露し合い、それを囲むように他の来賓たちも歓談している。

 そんな喧噪とは離れた人気のない中庭に、その二人はあった。

 空からは、黄金色の月が覗いている。今宵真円を迎えたそれは、恰も舞台上を照らす火の如く、二人を夜闇の中に映し出す。

 一人は、黄金色の髪の女。

 一人は、黒衣の男。

 ラピニール・フェアシュタントと、ファウスト・アルカード。

 ――聖女と、ヴァンパイア。

「……ここは、静かですね」

「人いきれに疲れたか。すまない、無理に付き合わせてしまったな」

 ふう、と息を吐いたラピニールに、ファウストは自嘲的に苦笑する。

 だが、ラピニールは優しく笑ってかぶりを振った。

「いいえ、こんなドレスを着るのは初めてでしたから、緊張はしましたけれど……でも、わたくしもやはり女なのでしょうね。年甲斐もなく……はしゃいでしまいました」

 自嘲気味に頬を染める。

「いけませんね、聖職者であるわたくしが、こんな……」

「アンチ・キリストに心を預けたお前が、それを言うのか?」

 挑戦的な物言いで、ファウストは麗しの聖女に身を寄せる。

「っ……いけません、ファウストさま、ここにはあの子も……リリスもいるのですよ」

 そんな言葉にどきりとしたが――気付かれてはいない。何故なら、彼女には、本気であの男を拒む素振りがなかったから。

「見せつけてやれば良かろう。あ奴も親離れするには良い機会だ。それに……娘の前で女を晒すと言うのも、一興だとは思わないか?」

 正面からきつく腰を抱きながら、優しい悪魔の微笑みで、神をも恐れぬ不道徳を口にするヴァンパイア。

 聖女であるならば、はね除けなければならないそれを、けれど彼女は、けして拒まなかった。ケモノの大きな胸板に、そっと愛おしげに頬を寄せる。

「……本当に、意地悪なお方。そんなことをすれば、全てが終わってしまうかも知れないのに……」

「何が終わると言うのか。親子の関係が終わると言うのなら、それは違うな。親と自分が違う人間だと自覚して、初めてヒトはこの世に産まれ落ちるのだ。いつまでも甘い顔をして、付き切りであやしてやることもない」

「また……そのような屁理屈を仰って」

「屁理屈などではないさ。……お前は少し、無理をし過ぎたのだ。母として――何より、朽ちたる誇りを護る定めの、アイナの聖女として。これまで抑圧されて来たお前の中の女が、解放を待って悶えているのが私には分かる」

「……いやらしい、言い方ですわね」

「元来、魔物は好色な存在なのさ。知らなかったか?」

「……教えられましたわ。……貴方に」

 そうして、二人はゆうるりと唇を寄せてゆく。

 だが、最後の一瞬に、

「……わたくしをこんな女にした責任……取って下さいますの……?」

 弱々しい声で、ラピニールは問うた。

「お前がこれまで負って来た責は、引き受けたつもりだが?」

 はぐらかすような言葉。

 けれど、望む答えが得られないのは分かっていたのかも知れない。解放された聖女は、諦観すら覗く顔で微笑んだ。

「本当に……意地悪なお方。意地悪で……そして優しい方――」

 深い愛情と、深い情欲を含んだ言葉。

 ――リリスが見ていられたのはそこまでだった。

 耐え切れなくて、リリスは二人に背を向けた。

 瞬間。神秘的な黒い瞳と、至近距離で視線がぶつかった。

「あら、もういいのですか? ……これからだと、思いますけれど」

 そう言って、柔らかく微笑んだのは、闇に溶けるかのようなシルエットの、美しい女性。

 リーヴェだった。

「なっ――」

 思わず大声を上げそうになって、ハッとした。慌てて屈み込み、背の低い植え込みへと身を隠す。

 気を落ち着けてから、同じように身を屈めたリーヴェに問うた。

「何やってるのよ、貴女っ……!」

「リリスさんが何をなさってるのか、見守らせて頂いてました」

 にこり、と良い笑顔をしてみせるリーヴェ。

 リリスは気恥ずかしいやら何やらで、赤い顔をして抗議した。

「見まもっ――何だってそんなことっ……!?」

「それは……リリスさんが独りでいらしたからですよ、きっと」

「きっとって何よっ!? 貴女自身のことでしょっ……!?」

「きっとは、きっとですよ。……それより、どうしてお一人で? ルフィティア公女様とご一緒だったのでは?」

「それはカインがっ――」

 リーヴェの質問に答えかけて、けれど、すんでに言葉を止めた。植え込みの向こうが気になって、どうにも会話に集中出来ない。

「――とにかくっ……! 一旦、場所を変えましょうっ、話はその後でっ……!」

「……ええ、喜んで」

 リリスの提案に、リーヴェも笑顔で頷いた。


                † † † † †


「――ルフィティアとは、途中で別れたの。カイン――家のヒトが、呼びに来てね」

 人気のない廊下にまで逃れて来て、リリスはようやくリーヴェの問いに答えた。

「で、暇だったから、お散歩してたわけ」

 嘆息混じりに言って、リリスは壁に背を預ける。

 倣って、リーヴェも壁に背を付けた。

「あら……退屈だったのでしたら、ホールに戻れば宜しかったのに」

 それは、至極当然の疑問。

 リリスは、自嘲的に笑った。

「冗談でしょ、あいつが居るところに……戻る気なんてしなかったわよ」

 けれど、偶然とは皮肉なものだ。

「あらあら……それでは、ホールに戻っていた方が良かったのかも知れませんね」

 言って、リーヴェは穏やかに微笑む。全く以てその通りである。彼女は、リリスの心情など先刻承知のようだった。

 ……もしかすると彼女は、リリスを探していたのかも知れない。だとするなら、彼女は何か、リリスと話したいことがあったのだろう。

 実を言えばそれは、リリスも同じだった。

「……ねえ、リーヴェさん」

 俯いたまま、少しだけ躊躇うようにリリスは切り出した。

「正直、混乱していて記憶がはっきりとはしないのだけれど――昨夜、私を助けてくれたのは多分、貴女だった。まずはお礼を言わせて。……ありがとう」

「いいえ……どうかお気になさらず」

 リーヴェは微笑んだまま、そっと眼を伏せる。それは、彼女の気遣いだったのかも知れない。話し辛いことを承知していて、リリスが変に緊張しないようにしてくれたのだ。

 その気遣いを本当に嬉しく思いながらも、心の奥底では複雑な思いを捨て切れない。だって彼女は……『闇の眷属』なのだ。どんなに優しく、穏やかであっても。

「貴女が――貴女も、『闇の眷属』だから、なの? ……あいつの、「あんな姿」を見て、それでも傍にいられるのは……」

 リリスの問いに、リーヴェは眼を伏せたまま、ゆうるりと口を開いた。

「……わたくしは、妹を護るために全てを捨てた女です。家族も、仲間も、故郷も――女としての尊厳すらも」

 リリスには瞬間、その言葉の意味が分からなかった。家族、仲間、故郷は分かる。だが、女としての尊厳――?

 訝しげな空気を察したのか、リーヴェは微かに自嘲的な笑みを浮かべて続けた。

「……まともに外に出て働いたこともない女が、見知らぬ土地で、幼子を抱えて独り、どうやって生きて行けましょう。……わたくしは、その日の糧を得るために――……幾度となく、見知らぬ男に体を開いて来たのです」

 リリスは言葉を失った。彼女には理解出来ない。生きるために己の操を投げ出すと言う行為が。いや、知識としては理解している。アイナにも、それを生業とする女たちが棲んでいるのも知っている。

 ――だが、あまりにも現実感がない。その社会の闇は、年若い聖女にとっては遙か遠く、彼岸の幻だったのだ。

 呆然とする乙女を横眼に、リーヴェは続けた。

「そう……わたくしの体は汚れています。どす黒い男たちの欲望にまみれ、まるで悪臭を放つ、ぐずぐずに崩れた腐肉のよう……」

「そ、そんなことっ……!」

 卑下するリーヴェに、リリスはハッとして声を上げたが、それは他でもないリーヴェ本人によって遮られた。

 彼女は軽くかぶりを振って続けた。

「わたくしの体は汚れている。そんなことは百も承知だった。……でも」

 そこまで言って、リーヴェは顔を上げた。

「ファウストさまは、仰いました。わたくしの体は汚れてなどいない、と。大切なものを護るために受けた恥辱は、誇りなのだと。わたくしの体も……生き様も。あの方は、美しいと仰ってくれた。……それがどれだけ、救いになったことでしょう」

 思い出すように胸に手を当て、頬を染める。その表情は安らぎに満ち、まるで聖者の如く憂いのない顔をしていた。

「だから、わたくしは決めたのです。この先何があろうと、わたくしはあの方に尽くして生きて行こうと。それが、女としての、ヒトとしての尊厳を取り戻させてくれたあの方へ報いる、ただ一つの方法だと――……いえ」

 言いかけて、けれどリーヴェは言葉を切った。かぶりを振ってから、そっと頬を染める。

「そんなのは、建前……ですね。そんな理由など関係なく、わたくしはただ、あの方のお傍にいたい――それだけ、なのでしょう」

 リーヴェの独白に近いそんな言葉に、リリスは複雑な気持ちになる。

「でも、それなら……」

 少しだけ逡巡してから、問うた。

「……良かったの? 二人を、あのままにして来て……」

 そんな問いに、リーヴェは一瞬きょとんとして、だが、すぐにくすりと笑った。

「……恋、ではないのかも知れません。きっと……そう、信仰に近いのでしょう。敬愛も、思慕の念も確かにある。けれど、それを独占してはならないとも思う。……出来ないとも、思う。ならばわたくしは、あの方にただ尽くすのみ。それだけでわたくしは……十分過ぎるくらい、安らぎを得ることが出来るのですから」

「……申しわけないけど、正直、理解出来ないわね。男に対して「信仰」だなんて、すっごい不健康に感じるわ」

 リリスは思ったが、リーヴェはそれに苦笑した。

「……貴女がそれを仰るの? 聖女様?」

 言われてみれば確かにそうだ。聖女――「聖者」と言えば、教会の急先鋒。民間信仰の象徴ですらある。お前が言うな、と言う話である。

 もっとも、リリスはさほど熱心な宗教者と言うわけではない。修道会長の母を持つ身としては、あまり大っぴらに語れることではないのだが。

 ――しかし、だからこそ、思ったのだ。

「……そうね、ヒトのことは言えない。貴女も私も、みんな一緒なのね。不健康だと言うのなら――歪んでいると言うのなら。それは、清濁関係なく、この世界――この世界に住むヒトビトの心、そのものなのかも知れない……」

 そう言って、リリスは深く嘆息した。

 ――廊下の遙か向こうから慌ただしい軍靴の音が聞こえて来たのは、丁度そんな時だった。




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