[Die dritte Nacht]『ファミーリエ』――愛と十字架 5
[5]
――彼が体の変調を感じ始めたのは、その日の夕刻のことだった。
「……今宵は、誰も私の部屋へ近付けるな」
重く低い声音。
従者は瞬間、押し黙った。だが、すぐに主人の意図を察して、控えめに問うた。
「……発作、でございますか」
発作。……そうだ、こんなものは病気と大差ない。けして癒えることはない、心を蝕む病。心の奥から湧き出してくる無限の憎悪。光を駆逐し、闇を広げよと求める怨嗟。
強き光を拒絶する、無限の闇。
――だがそれは、いつだって一筋の光明を求めている。一点の優しい光を、求めている。
「満月は明日だと油断していたが、此度の発作は一夜、足を速めてくれたらしい。……幸か不幸かは分からぬがな。……まったく、重い十字架だ」
他人事のような自らの言葉に、自嘲的な笑みが漏れた。
「……分かっているとは思うが、お前たちの役目は子供たちを護ることだ。為すべきことを見誤るなよ。もし、万が一の事態が起きたとしても、子供たちだけは護るのだ。絶対に、何があろうと――たとえ、私を滅ぼしてでもな」
穏やかながら、けして反論を許さぬ声で呟かれる言葉。
「……御意」
しばし黙してから、従者は恭しく礼を執った。
安心したのか、主人は僅かに微笑んで、
「どうか、小さき我が家族を……頼む。ヨシュア、それに――アルラ姫」
――最後にそう、守人たちの名を呼んだ。
† † † † †
今日もまた、アイナの街に夜が訪れた。
闇に包まれる世界。けれど、日毎に真円へと近付いてゆく黄金色の輝きが、その闇の中に一条の光を生み出している。
その一条の光は、恰も夜を駆ける聖女の如く。
勿論、今宵も聖女は夜の街へと繰り出すつもりだった。
――ところが、である。いつものように身支度を調えて、いざ出発と言う段になって、聖女の元をとある来客が訪れた。
寄宿舎の自室を尋ねて来たのは、アイナに於けるもう一人の聖女。『アイナの聖女』にして、リリスの義母――シスター・ラピニール・フェアシュタントだった。
「お義母さま? どうしたの、こんな夜更けに」
問うと、ラピニールは何故か、落ち着きなく視線を泳がせながら告げた。
「実は……その、届け物を……お願いしたくて」
言って、手の中のハンカチーフを拡げていく。中から現れたのは、ペンダントヘッドと思われる十字型の飾りだった。
「あら可愛い」
反射的に口にしてしまってから、リリスは咳払いを一つ、改める。
「んと……誰に届ければいいの?」
「ええ……と……」
何故か口籠もってしまうラピニール。その様子は、頼み辛かったから、と言うよりも、何だか恥ずかしがっているようにも見えた。
「? ……お義母さま?」
いつまでももじもじとしている義母を不審に思って声を掛けると、彼女はハッとして、ようやく覚悟を決めたようにその名を口にした。
「その……ふぁ――ファウスト、さま、に」
「はあっ?」
思わず、素っ頓狂な声が漏れた。
「あっ、いえ、違うの、そうではないの、別に他意はなくて、ただその、落とし物をされていって、だから、そのっ……」
なんて、リリスの声に驚いたのか、あたふたと聞いてもいない弁解をしようとするラピニール。
いったい、何が「違って」何が「そうではない」のか。正直リリスには、弁解なのかどうかすら判然としなかったのだが。
「多分、あの方が落とされていったのだと思うのだけれど、いえ、確信はないの、でも、今日の来客はあの方くらいだったし――あっ、もちろん、わたくしがあの時すぐに気付いて差し上げていたら良かったのだけど、ええと、その……何て言ったらいいのかしら……だから……つまり、その」
顔を真っ赤にして、しどろもどろに続けるラピニール。一見すると、日頃の凛とした姿からは想像も出来ないような可愛らしい姿である。が、だからと言っていつまでも放置しているわけにはいかないし、何よりリリス自身が困ってしまう。
「あー……ええとね、お義母さま? さっきの私の声は、単に「何で私があいつに届けなくちゃならないの!」って意味で、他の何かに疑問を持ったわけではないのよ?」
そんな言葉に、ようやくラピニールは不器用な弁解をやめた。ほっとしたように息を吐くと、
「そ、そうよね、嫌だわ、わたくしったら……」
そう言って、殊更頬を赤くした。……思春期の乙女のような顔だったかも知れない。
「で、何の弁解をしていたの?」――なんて、リリスは少しだけ意地悪な質問を投げかけたくなってしまったが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。
代わりに、
「……学院に来てたの? アルの奴」
ペンダントヘッドを摘み上げながら、何気なく問うた。
「え、ええ、その……ちょっとしたご挨拶にいらっしゃって……」
相変わらず義母の頬は朱に染まっていたが、もう気にするのも面倒だったので、リリスはそのまま続けた。
「で、その時にこれを落としていった、と」
ラピニールはこくりと頷く。
ふうん、とつまらなそうに声を上げてから、リリスは嘆息した。
「……まあ、いいわ。どーせ、今夜もどこからか現れるんでしょうから。……あの付きまとい趣味のケダモノ男は」
「そんな、あの方はとても紳士的だったわ。確かに、激しさはあったけれど」
「はい?」
思わぬ義母の切り返しに、またも間抜けな声が漏れてしまう。
だが、
「……何でもありません」
と言ってすぐに顔を背けてしまったので、リリスも敢えて追求はしなかった。
「……ま、会ったら渡しておくわ」
再び嘆息混じりに言うと、
「え、ええ……! お願いね、リリス!」
花の咲いたような笑顔でそう言って、ラピニールはそそくさとその場を後にした。
何だか、今日一日の間に、義母が若返ったような気がした。いや、元々言うほど年ではないが、妙にはしゃいでいると言うか何と言うか。
……まるで、初めて恋を知った十代の少女のような。
……いや、そんなまさか。有り得ない妄想に、思わず自嘲的な笑みが漏れる。
しかし本当におかしいのは、まるで自分が「恋」を熟知しているかのように、そんなことを考えているリリス自身なのであるが――
「うるさい」
……まあ、本人もそんなことは承知している。
今一度嘆息してから、リリスは手の中で弄んでいた十字を改めて見た。
二つの指で摘めるほどの小さな十字。一見良くあるペンダントヘッドのようだったが――裏返してみて、リリスはハッとした。
そこには、微細な彫り込みのような意匠が施されている。細い溝や、でこぼことした複雑なデザイン。けれど、それはお世辞にも芸術性を高めているとは言い難い。どちらかと言うと無骨な、何かの目的のために作られた実用的な細工のように見えた。
――それは、鍵なのだ、と直感的に思った。しかしそれは何も、リリスが特別鋭かったからではない。自然と、その情報が記憶の裏側から運良く顔を出したに過ぎない。
つまり――リリスは、それが収まるべき場所を、幼い頃から知っていたのだ。
† † † † †
リリスの足は、薔薇の城に向いていた。
――他でもない。この城の主に問い詰めなければならないことがあったからだ。
焦燥に駆られ、半ば我を失いつつある彼女を最初に出迎えたのは、無論、門番であるアルラ・ウネである。
「――アルラっ! 門を開けてっ!」
夜闇に声を張り上げるリリス。
この間のように、小さなアルラの花が門の傍らに咲く。
「何じゃ小娘。妾をそのように呼びつけるとは、無礼にもほどがあるぞ」
のらりくらりとした口調で、されど確かな不快を露わにするアルラ。
だが、今のリリスに礼を重んじている余裕などない。
「いいからっ! 今すぐ門を開けてちょうだいっ! 聞かなくちゃ、聞かなくちゃいけないのっ――アルにっ! 私はっ、聞かなくちゃいけないのよっ!」
ヒステリーな声を上げるリリス。
アルラは、ただごとでないとは察したようだったが、言い難そうに口籠もった。
「……ふむ。じゃが今は……ちと都合が悪いのぅ……」
「っ――」
アルラの言葉に、思わずかっとしてリリスは叫び掛けた。
その時だった。
《――良いではないですか。それほどまでに、我らが主に目通りを願うと言うのなら》
ふいに割り込んでくる声。驚いて、反射的に門の上方を見やれば、そこには巨大なフクロウが鎮座している。黒い羽は闇に同化するようで、大きな瞳だけが爛々と黄金色の少女を見下ろしていた。
リリスは瞬間ぞくりとしたものを感じたが、しかし、ここにいる以上はファウストの配下なのだろうと、さほどの警戒感は抱かなかった。
《……肝が据わってらっしゃるのか、それとも間が抜けているだけか》
剣も抜かず、真っ直ぐに見返してくる『狩人』に、大フクロウが漏らす。
だが、リリス自身がその言葉の真意を察するより早く、アルラが言った。
「ヨシュアよ、じゃが本当に良いのか。今のファウストに、この未熟な娘を引き合わせなどしたら……」
そんなアルラの声に、ヨシュアと呼ばれた大フクロウは、ヒトの身に変じながら地上に降り立つと、無表情に言った。
「面白いではありませんか。甘やかされて育った『狩人』に、現実を知らせるには良い機会でしょう」
一つに纏めた長い黒髪をして、黒のフロックコートを身に纏っている。シルエットはファウストに良く似ていたが、背はより高く、そして人形のような表情をする男だった。
「おい、あまり軽はずみなことを言うでないぞ。そのようなこと、ファウストが望んでいるとでも言うのかえ。そも、妾はこの小娘を気に入っておるのだぞ。万一のことでもあったらどうしてくれる」
まるでリリスの友人であるかのように、柳眉を逆立てて抗議するアルラ。
だが、ヨシュアは微塵も表情を崩さずに返す。
「なれば貴女が護って差し上げれば良いでしょう。大地と咎人の守護者が伊達ではないのであれば、ですが」
「ヨシュア、おのれは……」
挑発的なヨシュアの物言いに、アルラは一瞬唇を震わせたが、
「――いや。確かに……あ奴の抱えておるモノを知らせるには丁度良いのかも知れぬ。……後悔はせぬな? 小娘」
そう言って、すぐにリリスへ紅い眼を向けた。
正直、言われている意味は分からなかった。リリスはファウストに話があっただけで、アルラたちが話していることなんてどうでも良かったから。
話さえ出来ればそれで良い。そう思って、リリスは頷いた。
――だが、それが甘い考えであったことを、リリスはすぐに思い知らされた。
アルラらに案内され、ファウストの私室の扉を開いた瞬間だった。リリスは「正面から」何者かの奇襲を受け、そのまま部屋の前の壁に背中から叩き付けられた。
「っ……ぐっ……!?」
息が詰まり、声が出ない。いやそれどころか、そもそも首根っこを押さえ付けられていて息が出来ない。無意識に掴んだその腕は強靱で、引き剥がすことなど叶わない。
ハアハアと発情期の犬のように息を荒げ、ザクロのように眼を紅くして、乱れた髪も衣服も気に留めず、獲物に爪を突き立てるケモノ。
――それがファウストであることに気が付いたのは、微かに薫った薔薇の薫りのおかげだった。
「ア……ッ……ルッ……!? ど……してッ……」
言葉にはならない。唾液を嚥下することもままならず、無様に口の端が濡れる。
「やめよファウスト!」
小さなアルラの声がした。彼女は自身の四肢をファウストに絡み付かせ、何とかリリスから引き剥がそうとしてくれていた。
「小娘を殺す気かっ! とっとと正気に戻らんかっ!」
再度の怒号。しかし、ファウストは聞く耳を持たない。相変わらずリリスの細い首はファウストの大きな手に締め付けられていたし、その上――もう片方の手が、リリスの肩口に掛けられていた。
「! やめっ――」
反射的に悲鳴を漏らすリリス。だが、それも虚しく、次の瞬間、リリスの純白のカソックは無残に引き裂かれた。肩口から、胸元にかけて。リリスの白い肩と、発育途中の控え目な乳房が覗いていた。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――」
荒い息が、リリスの耳を打つ。
怖い――と、思った。こんなのは嫌だ、今すぐここから逃げ出したい、泣き出してしまいたい、そう思った。
気が付けば、涙が溢れている。問い詰めようとしていたことなど忘れている。今はただ、この場から逃れたい。この化け物のいないところへ行きたい。
「い、やッ……だ……れかッ――」
誰か、助けて。
「ヨシュア、おのれも手を貸さんかっ!」
朦朧とする意識に、アルラの悲痛な声がする。
だが、受け答える声は冷たいものだ。
「家族以外を護るようには言われておりませんので」
「ええいこの鉄面皮めが!」
ヨシュアの非情な無表情へ、怒りに任せてアルラが叫ぶ。
救いはないのか――そう思われた時だった。
ドン!――と、何かが横合いからファウストの体を弾き飛ばした。そしてそのまま、覆い被さるように彼の体を押さえ付ける。
「――セインティアさんっ……今はっ……逃げて下さいっ……!」
そう、咳き込むリリスに掛けられる女性の声。リリスはその声に聞き覚えがあった。
何とか体勢を立て直して見やれば、ファウストを押し倒すのは黒い影。いや、黒いドレスに身を包んだ、艶やかな黒髪の女性。
人狼の姫リーヴェだった。
「セインティアさん、早くっ……!」
言われるままに、壁を支えにしながら歩き出す。
のろのろとした歩み。足下がおぼつかず、走ることが出来ない。肉体的なダメージよりも、精神的なそれが少女の体から精気を奪っていた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、紅い瞳。耳にこびり付いて離れないのは、野獣のような荒い息。
震えが止まらなかった。信じられなかった。あれが、あの男の姿だと言うのか。あれが、あの優雅で穏やかで、ちょっと皮肉屋だけど暖かかった――あの男だと言うのか。
怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか。もはや分からない。様々な色の無数の感情が、入り組んだ薔薇の花弁のようにリリスの心を覆っていく。
……今想うことは。
「――っ……お……かあ……さま……っ」
暖かな家族の胸に帰りたい。
――ただ、それだけだった。




