[Die zweite Nacht]『ファウスト』――夜の遺児 5
[5]
ふと、眼が覚めた。
だが、何かがおかしい。
気怠い意識を奮い立たせ、リリスは顔を上げた。
「寄宿舎じゃ……ない……?」
最初に感じたのは、そんな違和感。辺りは一切の暗闇で、そこは寝慣れた寝台の上ではない。
次に自覚したのは、全く動かない自身の体。
見れば、自らの四肢は緑のイバラに絡め取られ、壁面へと磔にされている。
イバラは、彼女の四肢を拘束するだけではない。闇を射貫く『狩人』の眼には、一面イバラで覆われた壁と天井、地面が映し出されていた。
――それと、もう一つ。
「……やれやれ、ようやく眼を覚ましよったか」
闇の中から、ふいな声。
「! 誰っ……!?」
威嚇するように声を上げ、リリスはじっと眼を凝らす。
ぼんやりと、闇の中に浮かび上がるその姿。
燃え盛る炎のような赤い髪と、上等なルビーの様に情熱的な双眸が、闇の中に毒々しく輝いている。顔立ちは一見、リリスよりも年下の少女のようであったが、多分に艶めかしい、いやらしさすら感じさせる豊満な乳房をしていて――それは少しばかり、リリスの女心を苛立たせた。
だが、本当にリリスの神経を逆立たせたのはそんなことではない。
闇に沈む少女の下身。そこには、ヒトなら本来あるべき「足」がなかった。代わりにあったのは、巨大さ故に不気味さすら感じさせる、薔薇の花弁。
「この妾を眼前にして眠りこけておられるとは……呑気なものよのう……」
どこか気怠そうに呟く。彼女を取り巻くイバラが、まるで蛇のようにしゅるりと鳴いた。
――彼女は、ヒトではなかった。
「さて……どうしてくれようか。のう、小娘……?」
威圧するようなそんな言葉に、リリスはぎりりと奥歯を噛む。
しかし、その危機感とは裏腹に、彼女は未だに状況が理解出来ないでいた。何故、いったいどうして、このような状況に陥っているのか。眼が覚めたら暗闇の中に拘束されていて、眼前には不気味な薔薇の女怪――
「!」
と、ふいにハッとした。
改めて、眼前の女怪を見やる。無数の棘のイバラを手足のように操る――薔薇の女怪。
そう、薔薇の女怪である。反芻して、ようやく得心がいった。いや、思い出した、と言った方が正確だろう。
リリスはようやく思い出した。それが薔薇の女怪であると言う事実を。そして、自身が何故、このような場所にいるのか――ここがいったい、どこであるのかを。
† † † † †
リリスがそれを知ったのは、その日の夕刻過ぎ。ちょっとだけ、いつもよりものんびりと過ごす午後。ルフィティアの部屋でのことだった。
「……は?」
それまでの穏やかな空気はどこへやら、信じられない思いでリリスは声を上げた。
「もう、嫌だわリーリエったら、聞いていなかったの?」
ことの重大さに気づいていないルフィティアは、そんな風に笑う。
リリスは思わず、声を荒げて言った。
「そうじゃなくてっ! それ、本当なの!? ほんとの本気で、住むことを許しちゃったわけ!? あの――『薔薇の城』に!?」
――ことの次第は、こうだ。
学院の放課後。いつものように二人で過ごすリリスとルフィティア。
リリスはふと、しばらく尋ねそびれていた疑問を口にした。即ち――その嗅ぎ慣れない薫りは、いったいどうしたのか。
ルフィティアは満面の笑みで、驚愕の言葉を吐いた。
――北のお城の貴公子さまに頂いたの。少し早めのバースデイ・プレゼントですって。
――つい先日、越していらしたの。博学で、お優しくて、とっても素敵な方よ?
なんて。
思わず、お前は何を言っているのか、と言いそうになった。
バースデイ・プレゼントだとか、博学で優しいとか、そんなことはどうだっていい。看過出来なかったのは――北の城。
アイナには、確かに城がある。北の断崖にある旧城だ。かつては『英雄伯』と称されたドラクレア伯が居城だったが、しかし、今では住む者などない。いや、もし棲んでいるモノがいるとしたら、それは――。
「っ……ルフィティアだって知ってるでしょう!? あの城の言い伝え! アイナでもピカイチの怪奇スポットじゃないっ!」
リリスのあまりの剣幕に、ルフィティアは僅かに及び腰になったが、それでも何とか居住まいを正して答えた。
「で、でもでも、あの方――確かアルカードさまと仰ったけれど――聞けば、皇帝陛下の『特使伯』様でいらっしゃって……。それに、どうしてもと仰っていたし、責任はご自分で持つとまで仰るから、だからお父様も……」
――『特使伯』。その名は、リリスも聞いたことがあった。皇帝より、国内外を視察して回る任を受けた特別な貴族のことだ。近年、たった一人の貴族のために創設されたと言われる謎の多い制度で、その実態は貴族間でもよく知られていないらしい。
ただ一つ言えるのは、『特使伯』は帝国領内のどこへ行こうとも「伯爵」と同様の待遇が約束され、その地の領主・領民は、彼の望みを可能な限り聞き入れる義務があると言うこと。
つまり、フニャディ家としては、彼の望みを咎められる立場にはなかったのだ。
「それは……確かに、仕方なかったのかもしれないけど……」
気勢を削がれて、リリスは押し黙る。
しかし、その『特使伯』とやらもやらだ。何を好き好んであんな不気味な古城に住みたいと言うのか。確かに建物自体は立派な物だし趣もある。しかしそれ以外には、一年中咲き乱れる毒々しい薔薇の群れしかないと言うのに。
「植物学の心得があられるとかで――そうそう、この香水も、お手製らしいの」
植物学の研究のため?――馬鹿げている。あれは、植物なんてモノじゃない。
「だ、大丈夫よ、リーリエ。今のところ何かあったとは聞かないし――それに、薔薇の魔物なんて、迷信かも知れないじゃない」
そんなわけはない。そんなわけはないのだ。だって、アレは――
「――アレはっ! ただの植物でも、迷信でもないのよっ……!」
吐き捨てるように言って、リリスは駆け出した。
向かう先は一つ。北の断崖に聳える――薔薇の城。
――それは、まだリリスが幼かった頃。
ある日、街の悪ガキどもと一緒に、肝試しをしようと言うことになった。
向かった先は、北の断崖に建つ古城。子供から大人まで誰もが知っている、アイナ一の怪奇スポットだった。
リリスたち子供探検隊は、朝早くには出発していた。しかし、街育ちの子供の足で山道を登ることは難しく、着いた頃には真っ暗になっていた。
疲労と闇への恐怖から、一人、また一人とべそをかき始める。
だが、子供たちに最も恐怖を与えたのは、他でもない。
城門に絡みつき、まるで蛇のように蠢いていた無数のイバラ。
それは、子供の眼から見ても、ただの植物などではなかった。
しかし、当時のリリスは今に輪をかけて向こう見ずだった。そして、今と変わらず強い使命感を持っていた。
リリスは仲間たちを伴って、城門へと歩み寄る。
その瞬間だった。城門の上で獲物を待ち構えていたイバラが、仲間の一人の腕を捕らえたのだ。
仲間たちは彼を助けようと、引き摺られる彼の身体に飛びついた。しかし、イバラの力は強力で、子供たちにはそれに抗う術はない。幾重にも絡みついたイバラは、引き剥がすことも叶わなかった。
リリスは恐怖に怯えながらも、しかし、当時からお守り代わりに持ち歩いていた金十字の短剣を抜いて、仲間の腕に絡みつくイバラを何とか断ち切った。
弾かれたように地面を転がる子供たち。
助かったことを知るや、彼らは荒い息もそのままに、暗い山道を転がるようにして、一目散に逃げ帰った。
……その中には、ごまかしようのない涙を浮かべたリリスの姿もあった。
それは、忘れられない彼女の思い出。忘れられない――トラウマだった。
――そのトラウマは、果たして今も変わらずそこにあった。
悠然と聳える城門。歴史を感じさせる重厚な佇まい。しかしそれは、禍々しいイバラに絡め取られている。恰も、この城と大地を縛る呪縛の如く。
幼い記憶と寸分違わぬその光景を忌々しく見やってから、リリスはそっと馬を下りた。
フニャディ家の厩から最も足の速い馬を拝借して来たが、既に陽は暮れかけている。天井には、日に日に真円へと近付きつつある月がうっすらと姿を現し、城をぐるりと包む森の中では、気の早いフクロウが寂しげに鳴いていた。
これからは、夜を根城にするモノたちの時間だ。
……魔城に乗り込むには、無謀な時間だ。
けれど、もう逃げるわけにはいかない。『狩人』として、もう二度とあんな無様を晒すわけにはいかなかった。
「……っ」
覚悟を決めるように唾を飲んで、リリスは城門へと歩み寄った。
――と、まるでリリスを迎え入れるかのように、重々しい音と共に開かれる城門。
警戒しつつも、リリスは門内へと足を踏み入れる。
そこは、リリスの想像していたモノとは少しだけ違っていた。
そこには、立派な薔薇園が眼を見張る、美しい前庭が広がっていた。居館への道を挟んで広がる緑の芝はきちんと整えられていて、庭の中ほどには清らかな水を湛えた噴水も据えられていた。
ほとんど陽が落ちてしまっているのでその魅力も半減だが、眩しい陽射しの中で見るこの光景は、さぞや美しいものだったろう。
しかし、その美しさすら、ここにあっては不気味なモノでしかない。何故ならこの場所は、数百年もの長きに渡り、打ち棄てられていたはずの場所なのだから。
ヒトもモノも、時が過ぎれば朽ちて行くもの。それが自然の理であり、神の定めた永遠不変の法である。それに倣わぬ存在があるならば、それは。
「……『神の理の外にある者』――ヴァンパイア」
誰にともなく、リリスは呟いた。
薔薇園を見送って、噴水を横切り、石灰岩で舗装された道を進み、ほどなく居館まで辿り着くと、当然のように扉は開け放たれていた。
リリスは最早迷わない。静かに金十字の短剣を抜き放つと、凛とした『狩人』の顔で、ぽっかりと口を開ける闇の中へと踏み込んだ。
――バタン!
と、背後でふいに閉じられる扉。
――その瞬間だった。暗闇の中から、鋭い殺気がリリスを襲った。
「――っ!」
すんでのところで、顔面に振り下ろされた殺気を躱す。鋭利な刃が頬をかすめて、リリスの白い肌に赤い筋を描いた。
瞬間的に輝きを増す金色の瞳。『狩人』の視線が漆黒の闇を射貫いたその先には、蠢く無数のイバラが、恰も毒蛇の如く鎌首を擡げ、とぐろを巻いていた。
いいや、視線の先だけではない。辺りの壁と言わず床と言わず、周囲のあらゆる場所から、それが這いずるざわめきが聞こえる。
そう、城内の全てを支配しているのだ、それは。
例えるならばそこは――魔の胎内。
そう気付くが、もう遅い。退路は、既に断たれてしまったのだから。
そこからは、正に一触即発の攻防だった。四方八方から縦横無尽に繰り出される棘の鞭。リリスはそれを剣で切り払い、身を捩り、飛び越えて、時には後転飛びなんて離れ業を繰り出しながら、幾度も紙一重で危機を回避した。
そんなことを繰り返すうち、やがてリリスは、居館の奥まった場所へと追いやられて行く。彼女もそれに気が付いてはいたが、絶え間なく襲い来る棘の鞭の攻撃は止む気配もなく、常人よりは幾分ましとは言え、辺りの暗闇が視界を制限することもあって、抗うことは出来なかった。
イバラの怪異に導かれるまま、そうして彼女は、その暗闇の中尚暗い、ぽっかりと口を開ける扉の前までやって来た。
彼女は僅かに逡巡したが、長考している時間などなかった。束になって背後から襲い来るイバラを躱すには、その地獄の孔を連想させる闇の中に飛び込むしかなかった。
ひとたび決心すれば彼女に迷いなどはなく、すぐさま猛然と駆け出すと、そのままの勢いで闇の中へと身を躍らせた。
――瞬間。襲い来る浮遊感。そして、衝撃。
……そこで、リリスの意識は途切れた。
† † † † †
「――なるほどね。……貴女が、この城の主ってわけ。『薔薇の魔物』さん?」
挑戦的な笑みで、リリスは切り出した。
しかし、薔薇の女怪は意に介した風もなく、優雅に笑った。
「ほほ……まったく、階段に頭から飛び込んで、今の今までおねむだったにしては、威勢の良い娘だえ。あの男が気に入るのも分かると言うもの。……されど、残念ながらその推測は間違っておるの」
「……どう言う意味? 貴女、どう見たって『薔薇の魔物』でしょう」
女怪の物言いに眉根を寄せながら、リリスは問う。
女怪は、心底愉快そうにからからと笑った。
「それはそうじゃ。妾を見て『らふれしあ』などとほざきおったら、即八つ裂きにしてやるところじゃ。間違っておるのは――否、勘違いしておるのは、もう一つの方じゃ」
そう言われ、しかし、リリスは今一つぴんと来ない。無論、『らふれしあ』とやらもぴんと来ない。
二重の意味で小首を傾げていると、
「――あまり回りくどい言い方をされない方が良いな、姫。彼女は少々、脳が不自由なのだ」
そんな声が、すぐ横合いから聞こえて来た。
見れば、そこにはさして大きくはない入り口が、ぽっかりと口を開けている。
おそらくは、リリスもそこから降りて――……転げ落ちてきたのだろう。つまり、それは地上へ向かう階段なのだ。
そして、そこから声がしたと言うことは、誰かがここへ降りてこようとしていると言うこと。
――嫌な予感がしていた。
他でもない。認めたくないことだが、リリスは先ほど聞こえた声に、嫌と言うほど聞き覚えがあったのだ。出来れば、こんな時には聞きたくない声。だって――
「それにしても、見事な捕まりっぷりだな。……なあ、セインティア?」
こんな風に、嫌味を言われるに決まっているのだから。
「……ア~~~~~~ル~~~~~~~~」
呻きながら、無意識にぎゅっと閉じていた眼を開く。……そこには、予想通りの男の姿があった。
「まったくお前と言う奴は。呼びもしないのに、わざわざこんなところまでやってくるとはな。そんなに私に会いたかったか?」
ランプ片手に、いつもの皮肉げな笑みで言う――『アル』。その姿は一見いつもと変わらないようだったが、屋内であるからか、あの暑苦しい外套はおろかフロックコートすら纏ってはおらず、ブラウスにウェストコート、スカーフと言うラフなスタイルだった。
「そんなわけないでしょーがっ!」
取り敢えずそう叫んでから、リリスは改めた。
「何だって貴方がこんなところにいるのよっ!? ここは今、本国からいらした『特使伯』様が居城のはずよ! 血腥い『闇の魔獣』がいていい場所じゃないでしょっ!」
そんな問いに、『アル』は一瞬きょとんとして、ふいにくっくと笑った。
「本当に脳が不自由な娘だな。言ってて気付かぬものか」
「……どーゆー意味よ」
『アル』の物言いに、リリスは正直むっとしたが、ぐっと堪えて問うた。
わざとらしく一つ嘆息して、『アル』は告げた。
「先ほど、アルラ姫――お前の言う、『薔薇の魔物』である彼女が言っていたのは、「自分はこの城の主ではない」と言うことだ。そして彼女の言う『城の主』とは即ち、彼女自身の主のことでもある。では、この城の現在の主は誰か?――お前が自ら言っていたな。『特使伯様』とやらだ。……で、だ。私は何故、今、こんなところにいるのかな?」
「…………」
リリスは、じっと『アル』を見据えながら考えた。
そうして、はっとした。
「――まさ、か」
愕然としながら、眼前の『アル』と薔薇の女怪――アルラを交互に見やり、言った。
「アル……貴方が、彼女の主――つまり、城主だってこと……? じ、じゃあ、『特使伯』の貴族って――」
「――改めて、名乗っておこう。我が名はファウスト・ブリューテンブラット・ザンダーグラーフ・フォン・アルカード。縁あって、皇帝フランツ・シュテファン及び皇帝妃マリア・テレジア両陛下より、『特使伯』の称を預かっている。……改めてお見知りおきを、聖女殿」
言って、慇懃に礼を執る『アル』こと、ファウスト・アルカード特使伯。
その瞬間、ふわりと薫った薫りに、リリスはもう一つの失念を思い出した。
「……そうよ……よく考えたら、これ、この薫り――ルフィが貰ったって言う香水と……同じ薫り……じゃない……」
何故、今の今まで忘れていたのか。少し考えれば分かることだった。この特徴的な薔薇の薫りを身に纏っていて、尚かつ、薔薇の城の魔物をも恐れず、それを手懐けてしまうほどの存在。
――そんなもの、この男以外に有り得なかったのだから。
「っ……まあ、いいわ」
一つ嘆息して、リリスは改めた。
「それよりも。私はいつまで、こんな格好で磔になっていればいいのかしら?」
そう言って、半眼でファウストを睨むリリスは、未だ両手を頭上に挙げた状態で磔にされたままだった。
「ああ、そうだったな。――姫」
そんな主の号令に、アルラも逆らわず従ったが、
「何じゃ。何も言わんから、縛られるのが気に入ったのかと思うたわ」
そんな、余計な一言も忘れなかった。
「ふむ、セインティアはそっちの趣味の人間か、なるほどなるほど」
「どっちの趣味よっ! ……まったく」
などと、便乗しようとしたファウストに怒号を上げつつも、縛られていた手首の状態を確かめる。
「……あれ?」
と、思わず小首を傾げた。鋭利なイバラに縛られていたにしては、傷らしい傷は付いていなかったのだ。
「……不思議かえ?」
燃ゆるルビーの瞳を鈍く輝かせ、アルラは言った。
「言うておくがの、若き『狩人』よ。妾は、この城を侵入者から護ることだけを役目としておる。無益な殺生など好まぬし、無力な女子供を殺めることほど胸くその悪いことはない。……思い出してもみよ。其方がまだ幼き頃、妾は其方の連れを脅かしはしたが、傷付けはせなんだろう?」
言われ、リリスの脳裏にあの日の光景が思い起こされる。
あの日、彼女の悪ガキ仲間の一人は、確かにアルラのイバラに腕を絡め取られた。しかし、今のリリスと同様、その腕には傷一つなかったのだ。
――腑に落ちないことがあった。それは、リリスの『狩人』としての価値観を根底から覆しかねない疑問。彼女のこれまでの生き方を、全て否定し兼ねない疑惑だった。
「……幾つか、アルに訊きたいことがあるわ」
じっと地を見るようにして、リリス。
だが、その疑問を全て口にすることは出来なかった。
「……残念じゃが、時間切れのようじゃの。ファウストよ、アンネリーゼの奴じゃがの、どうやら眼を覚ましたようじゃぞ」
アルラのその言葉を聞いたファウストは、「ふむ」と一つ顎を撫でてから言った。
「……では、一つだけお答えするとしよう」
しばし思案してから、リリスは訪ねた。
「……貴方は何故、この城に?」
その質問がおかしかったのか、ファウストは微かに笑みを含んで言った。
「なに、少しばかり、かさばる荷物が多くてな。丁度広い住み処が欲しかったのだよ」
それだけ言うと、ファウストはリリスに背を向けた。
「では、な。……姫、後は頼む」
そう言い残し、ファウストは天へと伸びる闇の中に消えた。
後に残されたのは、再びの暗黒と薔薇の女怪、そして黄金色の少女。
「…………」
無言で、リリスはただ、彼の消えた暗闇を見上げていた。
「ん? あ奴のことが気になるのかの? ん?」
と、大きなルビーの瞳をいたずらっ子のように輝かせ、身を乗り出してくる女怪が一人。
リリスは何か言い知れぬ不安を感じたが、無視するわけにもいかず、ちろりと視線を向けた。
「……別に、聞いてあげないこともないけど」
だが実際、言葉とは裏腹に、彼のことが気になって仕方がなかったわけだが。
それを見透かしてか、アルラは「ふふん」と得意げに笑った。
「よかろ、それほど言うなら教えて進ぜよう。感謝せいよ、小娘。この、大地と咎人の守護者にして花々の姫君たる妾アルラ・ウネが、直々に案内してやるのじゃからな」
腕組みなどしつつ、得意げに胸を反らすアルラ。
「……いや、そんな大層なことなら別にいいんデスケド」
うんざりしつつ言って、半眼を向けるリリスだったが、
「まあ、そう言うでない。妾は其方が気に入った。これくらいの世話は焼かせて貰おうではないか――後々のことを思えば、我が主の為でもあるしの」
そんな意外な言葉に、リリスは毒気を抜かれて言葉を飲み込んだ。眼を丸くして、ぽかんと口を開けて、嬉々として輝く女怪の双紅玉を、ぼけっとして見ていた。
「何を間の抜けた顔をしておる。外から見るより城内は広く複雑じゃ。ぼやぼやしていると、迷ってしまうぞえ?」
そんな声に、リリスはハッとした。
「えっ? あ……っと、え、ええ、そう、ね」
慌てて話を合わせるが、思考の方は簡単には戻って来なかった。
生来凛としたリリスにとって、こんなこと、そうそうあることではない。
けれど、このどことなくむず痒くて、落ち着かない、けれどけして悪い気分ではない――そんな感覚に、彼女は覚えがあった。
――当然だ。それは、あの男と共に駆ける夜と、全く同じ感覚だったのだから。
† † † † †
「ふむ、どうやら熱は下がったようだな。どこか他に辛いところはないか?」
そんなファウストの問いに、寝台の中の幼い少女は何も声を発しなかったが、しばし考えるようにしてから、ふるふると首を振った。
「そうか、それは何よりだ。……心配したぞ、アンネ」
ファウストは安心したように言って、優しく少女の頭をそっと撫でた。
少女――アンネリーゼは、感情表現に乏しい性分なのか、その表情は薄く儚げではあった。だが、ファウストの手の温もりに、そっと安らかな笑顔を浮かべた。
そんな光景を、リリスはドアの隙間からそっと眺めていた。
傍らには、壁を伝うイバラに咲いた赤い花弁の中、小さなアルラの姿がある。
「……アンネリーゼはの、少しばかり精神的に脆いところがある童女での。越して来たばかりのこの城での生活に上手く馴染めず、体調を崩してしまったのじゃ」
耳元で囁くように、アルラは言った。
「ま、大したことはなかったようじゃし、じきに慣れるじゃろうから、心配は要らぬと思うがな。……しかし、ヒトとは、ほんに弱い生き物よの。まあ、そこもまた、ヒトの愛らしいところじゃがの」
言って、からからと笑う女怪。
リリスは、何を返せば良いのか分からなかった。
眼の前の光景は、ほのぼのとした家庭的な安らぎに満ちていて、本来はヒトの心を穏やかにしてくれるものだ。
――だのに、彼女の心は奇妙な焦燥にささくれ立っていた。
そんな胸中を知ってか知らずか、小さなアルラはどこか陽気な声で囁き続ける。
「この城には他にも、もう幾人かの子供たちや、世話役などのファウストに仕える者たちが暮らしておる。いずれも、ヒトの世には馴染めぬわけありの者たちじゃが――と、丁度良い。ほれ、この者もその一人じゃ」
「え?」
予期していなかった言葉に、リリスは驚きながらも振り返った。
そして、それ以上に予期していなかったモノに、思わず腰を抜かした。
「ひっ――!?」
思わず上げそうになった悲鳴を、口に両手を当てて飲み込むリリス。
彼女が驚愕の表情で見上げるそこには、額から顎の先まで、顔の全てを白い仮面で覆った女が立っていた。
しかし、壁に掛かるランプの炎が朧に揺れる、その真白き仮面こそ不気味ではあったが、そこに覗く黒い双眸は穏やかで、また、その出で立ちはけして警戒すべきモノのそれではなかった。
彼女は、黒と白を基調にした使用人用のエプロンドレスを身に着けていて、手には湯の張られた桶と、清潔そうな手拭いが携えられていた。
「ご苦労じゃの、クチン。ファウストに頼まれたのかの?」
尻餅を突いたままのリリスを横眼に、アルラはマスクメイドに気楽な声をかける。
彼女はこくりと一つ頷くと、リリスにはほんの一瞥をくれただけで、無言のまま室内へと姿を消した。
茫然自失の表情でそれを見送るリリスに、アルラは言った。
「あ奴はクチンケチルと言っての。確か、遙か東南の島国から流れて来たと言ったか。しかし、幼き頃に天涯孤独の身の上となり、浮浪児としてスラムを彷徨っていたところを――他でもない。我が主ファウストに救われたと言うことじゃ」
そこまで聞いたところで、リリスはようやく身を起こした。
彼女は再びドアの横に身を潜めて、じっと室内の様子を伺う。
そこには、自ら湯に浸した手拭いを手に取って、アンネリーゼの汗を拭ってやっている『闇の魔獣』の姿があった。
アンネリーゼはどことなくくすぐったそうにはしていたが、その表情はとても穏やかで、安らいだもののようだった。
――それがまた、リリスの胸を優しく締め付けた。
「……ここにはの」
ふと、アルラは少しだけ声の調子を落として言った。
「ここには、様々なモノがおる。正真正銘ヒトである者もおれば、妾のようにまるで異質なモノもおる。健康な者もおれば、何かしらの障害を抱えている者もおる。だが、それら全てに共通して言えるのは、皆、ヒトの世に馴染めず、ヒトの世から爪弾きにされた者たちだと言うこと。……そして――」
言って、アルラもまた、室内で幼子を慈しむ『闇の魔獣』の姿を見た。
「皆、あの男に救われた者たちだと言うことじゃ」
「……そんなの、おかしいじゃない」
――瞬間、リリスの中でぴんと張り詰めていた何かが、音を立てて切れた。
「ありえない、おかしい、信じられないわっ……! ヴァンパイアがっ――あれはヴァンパイアでしょうっ……!? 『闇の魔獣』と揶揄される無慈悲で獰猛な化け物のはずよっ……! それが、なんで、こんなっ……これじゃまるで、まるで――っ……」
これじゃあ、まるで。
……その先の言葉は、彼女の中の最後の誇りが口にさせてはくれなかった。
アルラは、やりきれない表情で膝を突くリリスに、そっと囁いた。
「……若き『狩人』よ。耳を閉ざさず、聞くが良い。確かに、其方の言うように、『闇の魔獣』は獰猛な化け物じゃ。……しかしの、どうかあ奴のことは、そう呼んではやらんでくれぬか。あ奴は哀れな男なのじゃ。あ奴は、自らを産んだ『夜』に置き去りにされ、灼熱の昼の光の中を独り歩き続けなければならなかった。あ奴は……あ奴はな――」
そうして優しき咎人の守護者は、噛み締めるようにその言葉を呟いた。
「……あ奴は、哀れな夜の遺児なのじゃから」




