プロローグ
[Prolog――プロローグ――]
――ヒトと言う生き物には制約があり、限界がある。
それを、ヒトである少女は良く分かっていた。『ヒトではないモノたち』に比べれば、自分たち『ヒト』の存在など一片の木っ端と同じ。敵対するにも値しない、取るに足らぬモノだろう。
何よりも、彼女は未だ、ヒトの限界にすらほど遠い。ほんの十七歳の身空では、世の全てに於いて、力も知識も経験も、何もかも尽くが足りなかった。
それでも、彼女は夜の闇を駆けぬわけにはいかなかった。それが自身の宿命であり、自らの存在を活かす唯一の道であると信じていたから。
己の血に宿る『力』を信ずること。父を知らず、母を知らず、生地を故郷と呼べない彼女にとって、それだけが唯一つの「絆」を示す手段だった。
生暖かい夜風に揺れるのは、少しだけ癖のあるふわりとした肩ほどの髪。太陽の輝きを映したような、眼を奪う黄金色。気の強そうな柳眉の下に覗くのは、不思議な色をした瞳。漆黒の闇を射貫く閃光のような、黄金色。夜闇を弾く純白は、清純と敬虔の象徴たるカソックと、対照的な勇ましさの高く襟を立てたケープ。
――それら全てが、絆と誇り。
――それらを背負って、少女は今日も夜を駆けていた。
静寂な街に木霊する絹を裂く悲鳴が彼女の耳を打ったのは、もうどれくらい前のことだったろうか。闇に沈む、石畳の敷かれた路をどれだけ走ったろう。ところ狭しと立ち並ぶ石造りの住居の隙間を縫うように、全力で駆け続けて来た。
額にはじっとりと汗が浮かび、肺はしつこく酸素を求め、足腰は悲鳴を上げている。
少女の顔は、苦悶に歪んでいた。
――だが、それは身に掛かる苦痛によるものではなかった。確かに苦しくはあったが、鍛えられた彼女の体躯ならば、これくらいの苦痛には耐えられる。表情が歪むほどのことは何もない。
ならば、何故なのか。
その理由は、ただ一つ。彼女の向かうその先で、今にも絶命しようとしている誰かがいるやも知れなかったから。
……いや、本当のところは分かっている。既に手遅れである可能性は高い。悲鳴から幾らか時が過ぎている。伝承に聞く「奴ら」はそんなに気長ではない。少女の到着をわざわざ待っていてくれるわけもないだろう。
だから、幾ら自分が全力で駆けつけようと、全ては無駄で――
(っ――しっかりしなさいっ! リリス・ミヒャエル・セインティア!)
弱気になっている自分を叱りつけ、手放してしまいそうになった小さな誇りに、少女は再び手を掛けた。
少女然とした震える小さな手の中には、首から下げられた黄金色の懐中時計。それは、父も母も故郷も知らぬ彼女にとって、数少ない戦う勇気をくれるお守りだった。
しばしそれを胸に抱いてから、少女は顔を上げた。おそらく、目的地は近い。元々凛々しいその眼差しをより一層厳しくすると、細い金鎖で腰に下げた、黄金色の十字を抜き放った。それは短剣。銀の閃きを見せる正義の刃だった。
たとえ誰かを救えなくても、「それ」を討つのが自らの使命。その正義の刃を「奴ら」の血で染めること、それを諦めてはならないのだ。
一息吐いて、臨戦態勢を調える。しかし、声の響きでおおよその距離を計って来たとは言え、こう入り組んだ居住区の路地では、「それ」を見付けるのは容易ではない。
――その、はずだった。
それは必然であったのか、はたまた性悪な神の悪戯だったのか。すぐ傍の路地に滑り込んだところで「それ」はすぐに見付かった。
「――――」
思わず、絶句する。
細い路地。そこから見える、更に細い、ヒト一人か二人が通れば一杯のその裏路地に、「それ」は在った。
少女は確かに、使命を果たすべき相手を見付けたのだ。
……だが、どうしたことか。その現場を目の当たりにした瞬間、彼女の両足はその場に縫い付けられたかのように動かなくなった。足だけじゃない。短剣を握りしめた右手も、厳しく眉をつり上げたその貌も。
月の光も届かない暗黒の中に、薄ぼんやりと二つの人間様の姿があった。
一人は、女。その身なりからして恐らくは売春婦。この辺りは広大な街の中でもあまり治安の良くない区域だ。彼女のような者が活動していても不思議ではない。
――ただ、異様だったのは。
もう一人の人影。恐らくは男。普通に考えれば客であろうはずのその影が――女の扇情的な首筋に、しっかと食らいついていた、と言うことだ。
それは比喩でも何でもない。男の影は文字通り、その奇妙なまでに裂けた口蓋を、歯を、牙を、白く艶めかしい女の首筋に突き立て、そこから溢れる鮮血を、まるで樽からワインをがぶ飲みするかの如く、ごくりごくりと無遠慮に嚥下していたのだ。
「――っ……あっ……う……っ……あぁ……あっふ……」
女は、微かな喘ぎを上げながら、びくんびくんと全身を痙攣させる。女が死に瀕していたことは明らかだったが、しかし、そんな状況に反し、その姿はどこか扇情的であり、その声には悦びの色さえあった。
だが、少女にとってそんなことはどうだっていい。彼女が見ていたのは、いや、眼を逸らせなかったのは、女ではない。
彼女の金の眼を釘付けにしたのは、女の体越しに、暗闇の中からじっとこちらを見やる――血のように紅い双眸。
「……っ……ぅ……ぁ」
少女は言葉を失ったまま、今正に生涯を閉じようとしている人間を前に、その手にした短剣を振るうことが出来なかった。
やがて、力なく薄汚れた石畳に崩れ落ちる女。生気が失せているのは遠目にも分かった。だが、それでも少女は指一本動かすことが出来ない。
一方の紅い双眸は、じっと少女の金色の双眸を見つめたまま、ゆっくりと闇の中から這い出して来ようとしていた。
「っ……!?」
びくり、と身じろぎするも、暗い石畳へ縫い付けられた両足は動いてくれない。未熟者とは言え、彼女とて素人ではないのだ。危険だと言うことは察している。逃げなければ、と言うことも分かっている。
(――でも、足が動いてくれないのよっ……!)
悔し紛れに胸中で叫んではみるものの、相変わらず足は言うことを聞いてくれない。それどころか、
「っ……あっ……!?」
少女は小さな悲鳴を上げて、強かに腰を石畳に打ちつけた。動こうとしない足下を無視して腰だけが逃げようとしたばかりに、尻餅を突いてしまったのだ。
それは有り得ない愚行だった。これでは殺して下さいと言っているようなものだ。
それは、当然相手にも分かっている。尻餅を突いた少女の姿に、紅い双眸は瞬間にやりと凶悪に歪められ、血に塗れた真っ赤な歯牙をこれ見よがしに覗かせた。
「――っ……!」
少女も覚悟を決める。きつく眼を閉じて、死の恐怖に身を竦めた。
――が。
――ガァンッ……!
言葉にすれば、そんな音だったろう。
寝静まった夜の街にふいに響いた轟音は、少女を悪い夢から強引に目覚めさせた。
恐る恐る眼を向ければ、自分に向かって伸ばされていた紅い双眸の主の腕から、真っ赤な――否。闇を含んだようなどす黒い鮮血が、ぼたりぼたりと滴っている。
「? ? ? ……え?」
突然のことにわけが分からず、間の抜けた声を上げてしまう。
だが、そんな彼女には構わず、紅い双眸の主は軽く舌打ちをすると、そのまま伸ばしかけていた手を引き戻し、やがて闇の中へ溶けるように消えた。
「……な……に……? 何が……あったの……?」
半ば呆然として、尻餅を突いたまま暗闇の中に問うた。だが、闇は少女の言葉をその胎内に飲み込んでしまうだけで、応えを返してはくれなかった。
……しかし、ただ一つ分かることがある。
先ほどの紅い双眸の主。あれこそが――
「……神の与えし理から外れたモノ。……神との誓約を破り、ヒトとしての制約を破り、原初の能力を求めた不遜なる悪魔の化身。……神に仇なす『闇の魔獣』――」
――そう、あれが。
「ヴァンパイア――私の……敵……!」