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年上の香り

 

 気がついたら京香を抱きしめていた。

 ベッドのなかで添い寝してあげて、あかつきになったらこっそり帰ろうと思っていた。

 柔らかいのぬくもりを感じとって、それから唇を重ねた。僕が京香に覆いかぶさると京香は両脚で僕の体を挟みこむ。年上の香りが僕をくすぐる。なんとなくあこがれを誘うような香りだ。僕は貪るようにして熱い胸に溺れた。

 二回目からは気分が落ち着いてきた。京香は気持ちよさそうに眼を閉じている。睫毛がとてもきれいだ。案外簡単なことなのかな、とふと思う。遥の時はお互いに知り合ってからそうなるまで六年近くかかったものだったけど。

 霧が晴れるように心にかかったもやが薄れていく。不安や緊張感やさびしさが消えていく。心の底にたまっていた角張った石が音も立てずに溶けてしまうようだ。遥の以外の誰も僕を慰められないと思っていたのに。

「遥」

 と思わず言いそうになって、言葉を飲み込む。そうなんだ。彼女は遥じゃない。京香なんだ。

 京香の吐息が夢のように響く。もしかしたらほんとうに夢のなかにいるのかも。

 けだるさが体をつつむ。

 心にまた霧がかかってきた。

 僕は年上の体温を感じながらじっと京香を抱きしめた。


 まぶしい太陽の光が眉をくすぐった。

 僕は裸のままで眠っていた。ベッドの隣はからっぽだった。夕べのことは覚えているようで覚えていない。幻を見ていたような気さえするのだけど、シーツに残った皺が夕べの遊戯をあかしていた。

「京香」

 と呼んでも返事がない。

 トランクスを履いてダイニングへ行くとテーブルのうえに、

「ゆうべはありがとう。

 楽しかった。

 今日は用事で出かけて、そのまま『すずらん』の夕方のシフトに入るわ。すき焼きの残りか冷蔵庫のなかのものを適当に食べて。もし帰るんだったら、ドアの鍵は自動的にかかるから閉めてくれたらそれで大丈夫よ」

 と書いたメモが置いてあった。

 コンロの上には鍋が置いてある。とりあえずシャワーを浴びてから、京香の言葉に甘えて、すき焼きの残りを食べることにした。

 冷蔵庫からうどんをひと玉出して、鍋に放り込む。ぐつぐつと煮てから頃合いを見計らって卵を落とした。鍋に蓋をして十秒数えてから火をとめる。ごはんをよそったり、器を用意している間に卵はいい感じに半熟に仕上がった。

 御飯のうえにすき焼きを載せる。すき焼きは味が染みておいしい。汁が御飯粒にしみて二度おいしい。

 電気ポットでお湯を沸かして、ほうじ茶を淹れた。

「遥、これでいいんだよね」

 僕はここにいるはずもない遥に向かって呼びかけ、ほうじ茶をひとくちすすった。

 遥とは中学時代からの付き合いだったから彼女のことはなんでも知っていた。京香のことはそれほどよく知らないけど、彼女を大切にしてあげたいと思う。一人の女の子を理解するのはそんなに簡単なことじゃない。遥との恋愛で僕はそれを思い知った。一瞬のうちに京香のすべてがわかる魔法があればいいのだけど、そんなものなどないのだから、時間をかけてすこしずつ京香のことを知っていけばいい。僕はひと息ついてから食器を洗った。

 ノックの音がした。

 僕はそろりとドアに近づき、猫眼から外を見た。背広を着た男が落ち着かない様子で立っている。神経質で小心なサラリーマンといった風情の男だ。色白な顔にほくろがたくさん並んでいるから、それがよけいに目立つ。歳は三十半ばくらいだろうか。困った顔をしては激しく首を振り、またチャイムを鳴らす。

 どうしようか迷ったのだけど、あまりに困った感じなのでドアを開けた。

 男はびっくりした顔をしてぽかんと口を開く。

「京香はいません。外出しています」

 僕がそう言うと男は震える手で僕を指差し、

「あなたは――、いったいどちら様ですか」

 と親指の爪を嚙んだ。

「まずはあなたから名乗るのが筋じゃないですか」

「どうして男が部屋にいるんだ」

 男は僕の質問には答えずに独り言を言い、また首を振る。

「わ、わ、私は怪しい者でも、セ、セールスマンでもありません」

「すこし怪しい感じがします」

 しかたないから僕は思ったままを言った。彼の落ち着きのなさが僕の不信感を掻き立てる。

「もしかして、あなたは京香さんの恋人ですか」

 男はひどく傷ついた顔をして咳きこみながら訊く。

「そうですよ」

 僕は言い切った。

「きれいな人だからな。男なんていくらでも近寄ってくるよな。遊びたい放題だよな」

 男はしょんぼりつぶやき、

「それでいつから付き合っているんですか?」

 と、皮肉っぽいような探るような目つきで僕を睨みつける。

「いつからだっていいじゃないですか。あなたには関係ないですよ」

「それがおおいに関係があるのです。私の人生にとっては――」

「それじゃ、どういう関係があるのかうかがってもいいですか」

「いいですとも。私はその、つまり、京香さんに、私は京香さんに――やっぱり言えません」

「さっぱりわけがわかりません」

「あなたには関係ないことですよ」

「さっきおおいに関係があるって言ったばかりじゃないですか」

「煮え切らない奴だと心のなかで嗤っているのでしょう。ストーカーみたいにこそこそ京香さんの後をつけている癖に、それでいて自分の想いをはっきり言う勇気がない奴だとばかにしてるんでしょう。言っておきますが、私はそんな男ではありません」

「僕はそんなことをひと言も言ってませんよ。それで、要するにあなたは京香のことが好きなんですね」

 男の顔が見るみる間にあかくなった。耳の付け根までまっかっ赤だ。男は体をくねらせて女っぽいしなを作った。

「とにかく京香はいません。お引取りください」

「待ってください」

 男は鞄を開けてなかから手紙を出し、

「これを京香さんに渡してください」

 と僕へ差し出す。

「ずいぶん古風なことをしますね」

「気持ちを伝えるには自筆の手紙がいちばんですから」

「あの、僕は京香の彼氏なんですよ。そんなものを渡すと思いますか。自分で直接渡してください」

「だって京香さんはいないじゃありませんか」

「そんなの僕には関係ないことですよ」

「あなたは遊びで京香さんと付き合っているのでしょうけど、わたしは真面目なんです」

「どういうことですか」

「わたしは京香さんに結婚を申し込もうと思っているのです。わたしはずっと京香さんとしあわせな家庭を築きたいと思っていました。妙な欲得にとらわれたからではなく、彼女をしあわせにしたいと心の底から願っているからこそ結婚を申し込むのです。それで、わたしの真摯な気持ちをお伝えしたいと思って手紙を書いたのです。好いたの腫れたのだといっているあなたとは違うのですよ。彼女の体が目当てだけのあなたとはね」

「聞き捨てにできませんね」

「どうせそんなところでしょう。見ればわかりますよ」

 男はふんと傲慢そうに鼻を鳴らし、

「これだけ払えばいいですか」

 と財布から一万円札を三枚出した。僕はあきれて言葉も出なかった。

「ですから、京香さんに手紙を渡していただくお礼にこれだけ差し上げるといっているのですよ。わからないんですか」

「わかりませんね。帰ってください」

 僕はドアを閉めようとしたその間際、男は手紙をドアの隙間から落とし、

「あなたに渡したのではありませんよ。京香さんの部屋に置いていっただけですよ」

 と狡さのまじった甲高い声で言い、逃げるように足早に去った。

「まったくしょうがないな」

 僕はつぶやいて手紙を拾った。手紙の裏を見ると「鈴木千秋」と名前が書いてある。癖のある角張った文字だ。腹が立っていたから封を破いてなかを見てみたい衝動にかられたけど、思いとどまった。京香はあの男をまともに相手していないのだろう。だから、その自信のなさが鈴木を挙動不審にして、彼にいじけた言動を繰り返させたに違いない。僕も彼の相手をするのはやめよう。

 妙な人の相手をしたせいで心がざらつく。僕は『自転車泥棒』のDVDをもう一度観た。二日続けて同じ映画を観ると、ディテールを味わえておもしろい。イタリアの街角をぶらぶらしてみたいなとふと思った。ヨーロッパ行きの飛行機のチケットなんて値段が高くて今の僕にはとても買えそうもないけど。

 またノックが響いた。

 ――オートロックのはずなのにどうしてこんなに人が入ってくるんだろう。

 僕は不思議に思いながらドアの猫眼から外を見た。

「あなたは――」

 思わず僕はドアを開けた。

「お兄さんか――」

 彼はどきりとした顔をした。昨日、電車のなかですりを捕まえた男だった。

「きのうはどうも」

 僕は言った。

「手伝ってくれて助かったよ。犯人は警察に引き渡した。奴は常習犯だ。前にも何度の捕まったことがあるそうだ」

「よかったです」

「ここは京香の部屋――でいいんだよな」

「そうです」

「京香はいるかい?」

「留守ですけど」

「そうか」

 彼は手にした小箱を見つめた。白い包装紙に赤いリボンがかけてある。

「それで君は京香といっしょに暮しているのかい。あ、俺は五島っていうんだ。五島俊介だ」

「僕は瀬戸佑弥です。遊びにきただけです」

「なるほど、そういうことか。新しい彼氏ができたんだな」

「京香になんの御用ですか」

「俺は京香と付き合っていた時期があってね、ちょいとばかり派手な喧嘩をしてしまったんだが、仲直りしようと思ってやってきたわけさ」

「あの、ほんとうに京香の彼氏だったんですか」

「まあな、俺の話は聞いたことがないのかい」

「ええ」

 僕はかぶりを振った。

「嫌いになっちまった男のことなんて話したくもないか。いっしょにタイやマレーシアへ旅行したりしてけっこう楽しくやっていたつもりだったんだが。兄さんは京香と楽しくやんな。ただ、俺も京香をあきらめたわけじゃないからな」

 彼は茶色い瞳をぱっと燃え上がらせる。

「恋敵ってことですか」

「そういうことだ。ひとつよろしく。じゃあな」

 五島はさっと踵を返す。五島の言葉はさっぱりしていて嫌な感じはしなかった。コツコツとコンクリートの廊下を踏む音が遠ざかる。五島の姿がエレベーターホールへ消えた。僕は京香の顔を想いうかべた。

 京香は自分を幸せにしてくれると思っていた人も結局そうじゃなかったと言っていたけど、それは五島のことなのだろうか。五島はいっしょに旅行したと言っていたけど、京香と彼はどんなふうに付き合っていたのだろう。五島はリボンをかけた箱のなかにどんなプレゼントを入れていたのだろう。

「そのうち話してくれるかもしれない」

 僕はひとりごち、ドアを閉めて部屋へ戻った。

『自転車泥棒』の続きを観たけど、鈴木と五島のことが引っかかってぼんやり画面を眺めただけだった。

 ――京香の胸にはどんな過去があるのだろう?

 僕は部屋を眺めた。喫茶店のアルバイト暮らしの女の子にはとても手が届かないような贅沢なマンション。京香の心がほしいという二人の男。京香がとぎれとぎれに語る思い出話。僕は京香のことをなんにも知らないうちに恋を始めてしまった。

 いつのまにか映画は終わり、スタートメニューに戻っていた。窓の外の陽射しは傾いている。はんなりとした春の夕暮れ。僕は鈴木の手紙をリュックに入れて京香の部屋を出た。



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