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自転車泥棒

 

 そろりと敷居をまたぎ、京香の部屋へ足を踏み入れた。

 京香の住んでいるマンションはレンガ造りの豪華そうな外装だった。マンションの前にきれいな植え込みがあって、駐車場にはアウディやレクサスといった高級車がならんでいる。もしここに軽自動車を置いたら、ちょっと恥ずかしいような感じだ。僕の住んでいる安普請のワンルームマンションとはまったく違った。

「靴箱のなかに靴用の消臭剤があるから、それを入れておいて。わたし、靴の匂いって苦手なの」

 京香はナイキのスニーカーを脱ぐ。僕は靴箱を開け、活性炭の袋を自分のスニーカーに突っこんだ。

 百合が香る。

 瀟洒な浮き彫りの靴箱のうえに白い百合の一輪挿しが活けてあって、形のよい喇叭を冷ややかな部屋へ向けながらひっそり咲いている。誰かをあてどもなく待っているような寂しげな姿だった。

 部屋の調度は北欧の高級家具で揃えてあった。広いリビングにふかふかの長いソファーが置いてあって、とても女の子の一人暮らしとは思えない贅沢さだ。京香から聞いていた話から、てっきりアルバイト暮らしにありがちなこじんまりした部屋に住んでいるものだとばかり思っていた。父親が事業に失敗して破産したと言っていたけど、また復活して商いがうまくいくようになり、それで裕福になった親に揃えてもらったのだろうか。

 僕はコート掛けにかかっている男物の中折れ帽をぼんやり見つめた。

「気にしないで。帽子は魔除けだから。女の一人暮らしだとわかったら、変な人にずかずか入りこまれちゃったりするでしょ。だから、そんな人を追い払うために置いてあるだけなの」

 京香はこともなげに言う。

 すき焼きの材料をダイニングテーブルのうえに置いた。

「いいわよ。わたしがやるから」

 と、京香がペンギンのエプロンをかけながら言ったのだけど、

「ふたりでやろうよ。そのほうが早いから」

 と、僕も材料を切りそろえるのを手伝った。

「便利だよね」

 僕は白菜を切りながら言った。

「なにが?」

「システムキッチンだよ。広いから料理しやすいもの」

「あらそう。鍋を出すわね」

 京香は下の戸棚から電気鍋を出してテーブルにセットする。僕は白菜を皿に入れ、白滝をまな板のうえに置いた。

「さあ、始めようか」

 僕は温めた鍋に脂身を入れ、菜箸で転がした。脂が溶けて食欲をそそるいい匂いがする。京香はすき焼きのたれを冷蔵庫から出して、鍋の横に置いた。

「もしかして割り下を使うの?」

 僕が訊くと、

「そうだけど」

 と、京香は不思議そうな顔をした。

「割り下を使ったら、すき焼きじゃなくて、すき焼き煮込みになってしまうよ」

「すき焼きって煮るものじゃないの?」

「違うよ。すき焼きとすき焼き煮込みはまったく別の料理だよ。たれを使うと味が薄くなっちゃうんだよ。僕に任せて」

「うん、じゃ、お任せするわ」

 京香は途惑いながらうなずいた。

 片隅に牛肉を入れ、醤油と砂糖、それから清酒をすこしかけてをかけて焼き、白菜を大量に入れた。野菜の水分が出てくるから、あえてたれを使う必要はない。煮込みにすると旨味が薄くなってしまう。おまけに、たれはしょっぱいから塩分で味が潰れてしまう。ある程度水が出てきたところで焼き豆腐と白滝を足した。

「ふーん、こうやって作るんだ。知らなかった」

 京香は興味深そうに僕がこしらえたすき焼きを見た。

「さあ、食べようよ。肉が硬くなってしまうから」

 僕は生卵をかきまぜ、京香の皿に肉を取って入れてあげた。

「おいしいわね。味がしまってるわよね」

 京香は肉を頰張りながら言う。

「そうだろ」

「わたしもこれからそうするわ。ねえ、乾杯しましょ」

 京香はビールのグラスを掲げる。

「そうだね。忘れてた」

 僕はほほえみ、京香とグラスをあわせた。

 肉を何度も焼いて、卵もおかわりして、白菜も豆腐も白滝もたくさん食べて最後にうどんを入れてしめた。

「久し振りにたらふく食べたよ」

 僕はお腹をさすった。ご馳走を食べたのとビールを何杯も飲んだのとでいい気持ちだ。

「居間で横になったら」

「そうさせてもらうね」

 僕は居間の絨毯にだるい体を横たえテレビをつけた。どのチャンネルを回してもつまらないバラエティばかりだ。あきらめて、NHK教育のドイツ語講座を観るともなく観た。べつにドイツ語を習いたいわけでもなんでもないのだけど、こちらのほうが楽しい。

 ぼうっとしているうちにうとうとしてしまったようだ。

「グレープフルーツを食べる?」

 という京香の声でふと目覚めた。洗い物を終えたエプロン姿の彼女が隣に坐っていた。

「まだいいよ。お腹がいっぱいで入らないよ」

「ねえ、腹ごなしに散歩しない?」

「いいね。ぶらぶら歩こうか」

「わたし、観たい映画があるの」

「だったらレンタルしにいこうよ」

 僕は京香と連れ立って夜道を歩いた。

「明日になったら、もっとおいしくなっているだろうね」

 僕は真っ暗な空を眺めながら言った。京香の手のぬくもりだけが心地良い。

「二日目のすき焼きは味がしみているものね」

「卵を落として煮込みたいな」

 僕は腰に腕を回した。

「やだ、くすぐったい」

 京香が腰をゆすって僕の手を払おうとするから、僕は彼女をかき抱いた。ふと目が合い、立ち止まる。京香はおどけたように唇を真一文字に結びながら、僕を見つめる。

「唇を奪われると思っているの?」

 僕が唇を近づけると京香はいやいやする。

「まだあなたのことをよく知らないもの」

「毎日会っていろいろ話しているのに?」

「ただのおしゃべりでしょ。大切なことはまだ話していないわ」

「そうかもね。僕も自分のことをあまり話していないし」

「もうすこし時間をちょうだい」

「わかったよ」

 その瞬間、僕は京香をぎゅっと抱きしめて口づけた。

「嘘つき」

 京香は拳で僕の肩を突く。

 もう一度唇を重ねる。

 京香が舌を入れてきた。僕の口のなかで可愛らしく動くから、ちゅっと彼女の舌を吸った。なんだかあたたかかった。

 駅前のレンタルDVD店に入って『自転車泥棒』を借りた。京香は昔観たこの映画を突然また観たくなったのだそうだ。一九四八年に公開されたモノクロのイタリア映画だ。

 DVDをかけて、ふたりとも居間にごろりと横になった。京香が手を差し伸べるから、僕たちは手を握って映画を観た。

 第二次世界大戦が終わってから三年目に公開された映画だけあって、復興しつつある町の息吹とまだ払拭しきれていない貧困がよく描かれている。

 主人公は若い父親だった。この二年間ずっと失業していた彼はようやくのことで役所のポスター貼りの仕事を得る。彼は質草にしていた自転車を請け出し、朝風のなかをさっそうと自転車を漕いで仕事へ出かける。これで家族の暮らしがよくなる。

 だけど不運なことに、仕事の初日、ポスターを貼っている隙に自転車を盗まれてしまった。自転車がなければポスター貼りの仕事をくびになってしまう。すぐに気づいた彼はモノクロームの街のなかを追いかけたが、泥棒は雑踏に紛れて逃げ切った。彼は途方に暮れた。

 父親は幼い息子を連れて必死に自転車を探し続けたものの、結局、盗まれた自転車は戻ってこなかった。

 追いつめられ苦悩した父親は他人の自転車を盗もうと試み、だがそれが見つかって大勢に追いかけられてしまう。彼の自転車を盗んだ泥棒とちがって逃げ切れなかった父親はついに取り囲まれた。罵声を浴びる父親をかばおうとする小さな息子の姿が痛々しい。捕まった父親が解放されたのが、せめてもの救いだった。

 映画が終わると、京香は黙って立ち上がった。頰に涙が流れている。

「グレープフルーツを切ってくるね」

 指で目の縁を押さえる。

「僕が切るよ」

 とそう言ったのだけど、

「いいの。泣いているところを見られるのは恥ずかしいから」

 と京香は部屋を出た。

 ずいぶん長い時間が経った。心配になりかけた頃、京香は、

「お待たせ」

 とほほえみながら皿に盛ったグレープフルーツを持ってきた。オレンジ色のあざやかな果実だ。甘酸っぱいいい香り。

「おいしいね」

 ぎざぎざのついたスプーンでひと口食べて、僕は言った。

「そうね。――さっきはごめんね」

「どうして?」

「わたし、泣いちゃったもの。あの映画を観たら、自分が泣くのはわかっていたのよ。でも、ひとりで泣くのはいやだから、瀬戸君にいっしょに観てもらったの」

「ぜんぜんかまわないけど。――そんなに好きな映画なんだ。いい映画だよね。ああやって家族で一生懸命生きているから絆が深まるんだよね」

 僕は言った。京香はうなずきながらグレープフルーツを食べている。

「僕の育った家は、あの家族からみれば羨ましいような家庭だったと思う。自転車を質に入れる必要なんてまったくなかったし、もし自転車が盗まれたら、一応警察には届けるだろうけど、しょうがないかって感じで新しいのを買っていただろうね。それに、父親が失業する心配もなかったもの。だけど――」

「しあわせじゃなかったのね」

「そうなんだ。僕の父親はほとんどアル中みたいなもので、毎日午前様で酔っ払って帰ってくるし、家にいる時はいつでもアルコールが体に入っていたんだよ。休みの日なんて、朝からビールの瓶を二三本開けていた。たぶん、父親が飲んだビール代で家が一軒買えたと思うよ。お酒のことで父親と母親はいつも喧嘩していたんだけど、僕が中学になってからは喧嘩もしなくなっちゃった。針の筵にいるみたいで居心地が悪かった。僕が小さい頃は楽しかったんだけどね。父親があてにならないから、問題がまったく片付かないんだよ。父親はお酒に逃げてしまうし。母親は母親でどうしていいのかわからなくなって、ヒステリーばかり起こすし。弟は不登校になってしまった。なまじっかビールを買えるお金があるから、あんなことになっちゃったんだろうね」

「お金があるのとしあわせなのはまたべつなのよ」

「でも、あの映画の家族は、お金さえ手に入れば幸せになれるって、そう思っているんだろうな」

「なんにもない暮らしだものね」

「僕も家になにもなかったら、そんなふうに思ったんだろうね」

「単純に思っていられるほうがしあわせなのかも」

「といっても、なにもないから幸せになれるというものでもないんだろうね」

「そうよ。愛情があるかどうかが問題なんだもの。でも、これだけは言えると思うの。人間ってなにもないとひたむきに生きようとするのよ。ひたむきに生きようとするから、おたがいに助け合って家族が仲良くなるの。ほら、男の子がお父さんについて一生懸命に自転車を探すでしょ」

「うん」

「子供は子供で心配でたまらないのよ。子供には家族がすべてだから、子供は子供なりに家庭を守ろうとして必死なのよ」

「京香もそんなふうだったことがあったの?」

 バレンタインディの夜、京香は家出した母親を捜しに行ったことがあると言ったのを思い出しながら言った。

「あったわよ。家が破産しちゃった時にね。お母さんとお父さんをつなぎとめようと思ってがんばったわ。ふたりとも毎日喧嘩ばっかりするから、いつも間に入ってなだめた。お母さんもお父さんも苦しかったのよ。ほんとは喧嘩なんてしたくなかったのよ。だって、あんなに仲のいい二人だっただもの。毎朝、お父さんが会社へ出かけて行く時、お母さんは頰にキスしてたの。わたしもなんだかうれしくなって、お父さんとお母さんにキスしてもらってたのよ。物心がついた頃から、高校生になってもずっとね。

 お金って怖いんだって、心底思ったわ。お金があのふたりの仲を引き裂こうとしていたのよ。一時期はもうほんとに離婚しちゃうかなってはんぶんあきらめていたんだけど、一生懸命ふたりを説得して、なんとか力を合わせてがんばろうってことになったの。

 あの映画のなかでレストランでお父さんがお給料を計算するシーンがあるでしょ。そこがいちばん好きなの。なんだか希望があるもの。月給が千二百リラで、手当てがいっぱいついて、なんだかんだで八千リラくらいになるでしょう。月給より手当てのほうがいっぱいあるだなんてなんだか変だし、それがどれくらいのお金なのかわたしにはわからないけど、生活が楽になるんだっていうのはわかるもの。

 わたしのお父さんもあんな笑顔になったことがあったの。『京香、新しい仕事が見つかった。これで暮していける』ってね。お父さんの友だちがなにか紹介してくれたみたいだったわ。でも、結局、だめになっちゃったんだけどね」

「お父さんはどうしているの?」

 僕がそう問いかけると、京香はふと口を噤んだ。

「ごめん。なんだか訊いたらいけないことを訊いちゃったみたいだね」

「いいのよ」

 かぶりを振ってさみしそうな顔をした京香は僕の腕をとり、それから抱きついてきた。

「お父さんは死んじゃった。破産して、それから地べたをはいずりまわるようにして金策して、やっと借金を返す目処がついて一年ばかり経った頃だったわ。体のあちこちから癌が見つかって、どうしようもないってお医者さんにも匙を投げられたの。痛いのをずっと我慢していたみたいで、それで発見が遅れたのね。借金を返そうとしてむりをしすぎたんだわ。

 寒い冬の日だった。わたしが住んでいた部屋に電話がかかってきた。その頃、わたしは事情があって家を離れて暮していたの。両親はわたしを養う余裕がないから、他の家に引き取られていたのよ。わたしが大急ぎで実家へ戻ったら、お父さんは薄暗い部屋のなかで蒲団に横向きになって寝ていたわ。仰向けに寝ると痛いからそうしていたのよ。しばらく会わないあいだに、お父さんの体はがりがりに痩せて小さくなってしまってたわ。

 お父さんって呼んだら、お父さんは涙をこぼしちゃった。それから、『ばちがあたった。お前に悪いことをした。すまない』って何度もなんども繰り返し誤るの。そんなことより、早く入院してよってお願いしたんだけど、お父さんは貯金もないし、保険も全部解約してしまったから入院代も手術代も払えないって言うのよ。もうどうせ長くないんだから、病院なんかより家に居たほうがずっといいって。

 お父さんは『お前から大切なものを奪ってしまった。申し訳ない』って、そればかり繰り返すの。高校も通えなくなってしまったし、それまでの生活が全部ひっくり返ってしまって普通の人がごく当たり前に過ごす青春時代を送れなくなってしまったから、お父さんはすまない気持ちでいっぱいだったみたい。でも、そんなことはどうでもよかったのよ。いつかいっしょに暮せるようになる日をわたしは夢見ていたの。離ればなれに暮していたからさみしかったもの。小さなアパートの部屋でいいからいっしょに生活したかった。

 それから、三か月ばかりしてお父さんは死んじゃった。焼き場で遺体を焼いてもらったら、骨がぼろぼろになっていたわ。骨がかすかすになっていて、焼いた後に形がきれいに残らないの。そんなに苦しんだんだって思ったら、胸がつまってどうしようもなかったわ。

 かわいそうなお父さん。あの『自転車泥棒』の映画みたいに、大切なものを奪われて、行き詰まってしまったのよ。苦労して築いた会社は倒産しちゃうし、家族もばらばらになってしまったし。どん底のなかで死なせてしまったのよ」

 京香は僕にうずくまって涙を流した。彼女の咽び泣きが悲しい雨だれのように僕の心をとぼとぼと打つ。大切な人を失ってしまった人になんて声をかければいいんだろう。言葉が切れ切れに心に浮かんだけど、どんな慰めも励ましも、薄っぺらで安っぽいものにしか思えない。

 泣きやむまで抱きしめてあげようと思った。


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